殉教、棄教、潜伏。
 道は違えども、長崎のキリシタンのだれもが禁教を経て、それぞれの生き方を選んだ。棄教した人たちは、信仰という面だけを見れば、弱虫で卑怯者なのかもしれないが、私としては「よくがんばった、よくぞ生き延びてくれた」と言いたい。彼らこそが、いま私が暮らすこの町を作ってくれたのだから。
 
 禁教と鎖国の体制が完成するころ、長崎の町は “貿易会社”として確立していく。天領だった上に、長崎奉行も置かれたが、実際の運営は、この町を生み育ててきた元・キリシタンの町人たちによって行われた。1698年には幕府ともつながる“官営”の組織として「長崎会所(ながさきかいしょ)」が成立したが、依然として“地元雇い”の町人からなる「地役人(じやくにん)」の集団であり、長崎奉行でも自由に動かせるものではなかったという。船の数や貿易額の制限など、時代によって多少の浮き沈みはあったものの、江戸時代から明治初期までは、数少ない海外への窓口として、長崎がもっとも長崎らしい時代を謳歌した。

 それは、長崎の“定番”観光地をたずねてみれば、よくわかる。
 鎖国とともに作られた「出島」は、はじめポルトガル人、のちにオランダ人が収容され、オランダ東インド会社の商館が置かれた人口の島だ。「新地中華街」は、唐人屋敷近くの海岸を埋め立ててできた倉庫用地で、貿易品が収められていた。「グラバー園」や「大浦天主堂」「オランダ坂」は、幕末以降に造成された外国人居留地にある。

19世紀初頭の姿を目指して復元が進む出島


 いずれも、鎖国以降に“異国”がらみで作られたものばかりだ。「それこそが長崎では?」と言われればそうなのかもしれないが、出島も唐人屋敷も居留地も、一般の人は出入りすらできなかった。そこを訪れても、長崎の町と人の暮らしを見ることはできない。
 それでも長崎に来る人は、異国情緒を求める。たしかにこの町はかつて、西洋と溶け合い、中国と溶け合っていた。そのころの“情緒”は、いまの比ではなかっただろうが、西洋も中国も、町の生活からは次々と引き剥がされ、ひとところに集められた。出島や唐人屋敷は「交流」ではなく「分離」の場である。
 例外といえば、中国の僧侶が作り、いまも現役で使われ続けている「眼鏡橋」だ。
 ペーロンや精霊流し、くんちの演し物など、長崎の年中行事や生活習慣には、中国の影響が色濃い。江戸初期には6〜7人に1人が中国人だった時期もあり、町全体がゆるやかなチャイナタウンだったとも言えるだろう。眼鏡橋ができたのは1634年。同時期の鎖国によって、ポルトガル人、オランダ人は出島に収容されたが、“唐人さん”たちはその後も50年以上、市中に暮らしていた。しかし1689年、密貿易の防止などを名目に唐人屋敷が作られ、長崎の町でも「鎖国」が完成したのである。
 おなじ町にいながら異国は排除し、船に乗ってやってきた人の顔は見ないまま、貿易にまつわる仕事で暮らしていたのが、「異国情緒の町」の実像だ。蘭学などを取り巻く人的交流もありはしたが、この町の大部分の人にとって大切なのは、荷物を積んだ船が無事にやってくることであった。

 長崎半島の南端、野母崎には「遠見番所(とおみばんしょ)」が設けられていた。唐船やオランダ船が沖に見えると、大砲を放ち、15キロほど離れた長崎の町に来航を知らせる。

野母崎の海。ここに船は現れた


 船が長崎港外に着くと、様々な取り調べを受けたのち、港の中へ曳航される。岸から少し離れたところに錨を下ろすと、何艘もの小舟が群がり、荷物を積んでは陸揚げする。出島や新地蔵では大勢の人が待ち受けていて荷ほどきされ、点検、入札、取引を経て、各地へ流通する。

町と港を見おろす金比羅山の参道にある常夜灯。長崎貿易を取り仕切る、堺、長崎、京都、大坂、江戸の「五箇所商人」が奉納した


 それはれっきとした経済活動なのだろうが、ある時ふと、もっと生々しい様相で繰り広げられていた当時の捕鯨と重なって見えた。

 鯨が沖に現れると、見張り番がみんなに知らせる。次々に小舟が現れて鯨を仕留め、何艘もの曳き舟で浜に運ぶ。大きな鯨は少しずつ解体され、加工され、流通に乗せられる。狩猟と経済活動の融合。長崎県内でいえば、五島や平戸、生月などに「鯨組」があった。「鯨一頭七浦潤う」とも言われ、長崎における貿易さながら、ひとつの地域がまるごと「鯨産業」で成り立っていた。

 鎖国以降の長崎の“貿易”は、自分たちの船を繰り出して行くわけではなかった。異国の船を、ひたすら待つだけだ。船が着いたら、大きな鯨の肉を切り出すように、海の向こうからやってきた宝の荷物に群がる。元旦には、町の氏神である諏訪神社で「唐紅毛船海上安穏入津繁栄」の祈祷が捧げられた。神だのみ、天まかせ。初夏の風とともにやってきた船を、秋の風で送り出す。オランダ船の出航は、九月十九日、二十日と決まっていた。その直前に「くんち」が行われていたのは、たっぷり恵みをもたらしてくれた大きな船に感謝を捧げ、再来を願う儀式にも思える。
 江戸時代の歳時記を見れば、そのあとの十月、十一月は気が抜けたように静かで、これといった行事や祭りはない。「くんちの終われば正月の来る」という季節感で暮らす人が(私も含め)いまなお多いのは、すべてが異国からの船を中心に回っていた記憶に由来するのだろうか。

 聖像を踏みながら、船を待ちながら、長崎の江戸時代は過ぎていった。
 1854年、開国。
 オランダが唯一の“西洋”だった時代は終わり、イギリスやフランスを含めた外国人居留地が作られはじめた。

 そしてついに、250年間待ち続けたあの船が、やってくるのである。つづく(写真 ©Midori Shimotsuma)