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石内都と、写真の旅へ

 ジョージア・オキーフが繰り返しテーマとした花の絵に強い印象を受けていたという石内。エロティシズム、ジェンダーの文脈で語られることの多い作品だが、オキーフはそう受け取られることに不本意だったといわれる。石内は「これまで語られてきたオキーフ像に何かひっかかっていて、もう少し彼女を知りたい」と思うようになったという。その「ひっかかり」とは何なのだろう。

 「まだ漠然としたものなのよ。私がオキーフ作品に感じるのは強い生命力、それを確かめたいのかな。彼女を見出し、のちに結婚したアルフレッド・スティーグリッツはアメリカの写真の歴史を作った人だけれど、二十三歳年下のオキーフに出会った時、彼女の躍動的な力を感じたと思う。ふたりの関係は、写真と絵画、互いにないものを補い合うような関係であったのかもしれない。彼が亡くなったあとニューメキシコにひとり暮らしたオキーフが、語られてきたように孤高に生きた人だったのか、それも知りたいわ」

 テキサス州で美術教師として生計を立てていたオキーフが友人に贈った木炭素描による抽象画をスティーグリッツが目にして驚嘆し、自身が営む近代美術のギャラリー「291」に展示したのは一九一六年。やがてニューヨークにやってきたオキーフと彼との関係が始まる。スティーグリッツは衣をまとわぬ彼女をモデルに写真作品を発表、センセーションを巻き起こした。一方オキーフは意欲的に創作活動を展開して展覧会の出展を重ね、代表作となる作品を発表、アメリカンモダンアートの旗手と目されるようになった。オキーフは自然をいかに抽象画として表現するかを模索し続けた画家だと評されるが、制作にあたって現場で撮影した写真を役立てたこともあり、写真と絵画の関係を探る意味でも興味深い。
 彼女がキャリアを築いていったのは美術界に大きな影響力を持ったスティーグリッツの情熱によるところも大きいが、ニューヨークの文化的集団の中心であった彼の周囲には常に多くの人がいて、オキーフは窒息しかけるほどだった。そうして一九二九年からニューメキシコへの旅を繰り返すようになる。

 一九四〇年、彼女はそれまで何度か宿泊したゴーストランチ(幽霊農場)と名付けられた峡谷に建つ知人の家を購入。さらに、そこから約三十キロ離れたアビキューの村に廃屋同然の家を見つけ、交渉の末に手に入れたのは四五年。信頼する友人に任せて改修工事に着手した。スティーグリッツはニューメキシコを訪れることなく、四六年に死去する。その三年後、夫の遺品を美術館に寄贈するなどして整理を終えた六十二歳のオキーフは、ニューメキシコに移り住んだ。ふたつの家で創作活動を展開し、八六年、九十八歳で世を去る。彼女を撮影した多くのポートレートは、皺をきざんだ顔、厳しいまなざし、彼女を包む静謐な空気が印象的だ。

 アビキューの家は国の歴史的建造物に指定され、ジョージア・オキーフ美術館が管理しており、内部を見学するには美術館主催のツアーの一員になるしか方法がない。翌朝、私たちはアビキューへと向かった。

 丘の上に建つその家は、伝統的なアドービ(日干し煉瓦)を積み上げ、土をこねたモルタルで築き上げた伝統的な建築様式だ。そのルーツは古代の中東文明にさかのぼるといわれ、この地で十七世紀以降に変化を遂げながら今日のスタイルになった。厚みのある土壁によって暑さや寒さから身を守ることができ、その自然の土の色、建物全体のフォルムが美しい。

オキーフのアビキューの家ツアーオフィスを訪れる石内とイナ。写真提供=The Third Gallery Aya

 ツアーガイドに率いられて中に入る。大小十六の部屋が中庭を取り囲んでいる。私たちが立ち入れる部屋は限られていて、写真撮影がほとんど許されないのは残念だったけれど、どの部屋も居心地がよさそうで、シンプルなインテリアもすばらしい。オキーフは伝統的な建築様式を保ちつつ大胆に改装をしており、大きな窓ガラスからたっぷりと陽の光がそそぐようになっている。朝、目覚めた時の白い光、昼間のぎらつく太陽、午後から傾く光、オレンジ色に染まる夕暮れ、そして深い夜の闇―。精妙に変化する光がオキーフの一日を支えたのだろう。窓からは緑の丘が連なり、チャマ川の谷間、ときおり車が走り抜ける道が見える。

 広々とした居間は漆喰の壁。そこにオーディオセットがあって、ガイドの「オキーフはロックが大好きだったのです」という説明に、石内は「かっこいいね、オキーフ」。そして「アメリカのおばあちゃんの典型的なキッチン」とガイドが言うキッチンにも光がたっぷり入る。白い琺瑯製のガスレンジ、オーブン、大型の冷蔵庫、アイスクリーム製造機など、五、六〇年代のアメリカのホームドラマで見かけたようなものばかり。調理器具や大小多種類の鍋がそろっていた。

 オキーフ邸にはもちろん家政婦もいたけれど、オキーフはよくキッチンに立ったといい、エプロン姿を撮影した写真があるし、彼女がよく作った料理のレシピ本も刊行されている。クリスマスイブには村人を招いてメキシコ伝統料理「ポソレ」(骨付き豚肉や豚足、ジャイアントコーンの煮込み)をふるまうのが恒例だったという。今も美しく維持されているオキーフが愛した庭があり、彼女が部屋に飾った花々、そして料理に使った多種類のハーブが咲き乱れていた。
 一九七三年秋、八十半ばになったオキーフの前に現れたのがフアン・ハミルトン、二十六歳の青年だった。芸術家を志して放浪生活を送っていたハミルトンは、ある日突然オキーフが自分を必要としているという神の啓示を得たのだと語っている。彼はオキーフに受け入れられ、やがて彼女の生活を活気づけていく。オキーフは彼の助けを借りて自伝を出版し、陶器を作り、絵画制作も再開した。ハミルトンとの関係はさまざまな憶測もあるけれど、オキーフの最晩年を彩ったことは確かだろう。

オキーフのアビキューの家。写真提供=The Third Gallery Aya

 見学し終えて、石内はこう話す。
 「オキーフがここで静かな隠遁生活を送っていたというのは作られたイメージだと感じたわ。厳しい自然環境に年老いてから暮らすには第一に健康でなければならない。しっかりと食べ、生き、そして描いた毎日だった。その暮らしを保っていくには多くの人たち、村人たちの力も借りなければならないけど、彼らとの関係もきちんと築いていた。気難しく無口な、孤高の画家などではなかったと思う。今はニューヨークにいるというハミルトンにもいつか会ってみたいわね。オキーフはウィスコンシン州の酪農家の生まれでしょう。彼女のことをカウガールって評した人がいたけれど、その通りだったと思う。そして彼女は死ぬまで現役だった。私ももうすぐ七十代、どう生きていくか考えているところだから、いろいろ考える機会にもなったわ」

 アビキューの家をあとにして、私たちはゴーストランチへと車を走らせた。オキーフが「画家のパレットの土を描くためのすべての色が、痩せ地の何マイルにもわたってある。オークルの隙間に明るいナポリイエローがあり、オレンジ、赤、紫の土、やわらかな緑がかった土まである」とつづった土地。実際にこの言葉通りだったのだが、雄大な風景には言葉を失う。

 太古、内海に沈んでいたという一帯に連なる巨岩は、黄色、ピンク、紫とさまざまな地層が重なる。これが自然の色とは信じがたいほどだ。かつての海の記憶をとどめる岩肌は風雨によって浸食され、見事な造形になっている。こうなるまで、一体どれほどの時間が流れたのだろう。そしてオキーフが特に気に入り、絵のモチーフにしたペデナル山の神々しいほどの美しさには息を呑む。乾燥した空気のためか、山肌もくっきりと見える。その山はすぐに手が届くように見えるけれど、実際にははるか彼方なのだ。あまりに壮大な風景の中にいると遠近感がおかしくなるという感覚を初めて知った。自分の身体の大きささえ、よくつかめなくなる。人は自然の一部でしかないことを実感するばかりだ。

 石内は、草地を歩きながらシャッターを切っている。「地球の歴史を感じるわ」と言い、足取りも軽やかだ。風が吹きぬけ、群青色の空に浮かぶ雲は生き物のように刻々と形を変えていく。

 オキーフの遺灰は遺言に従ってゴーストランチの地にまかれた。この風の音にまざってオキーフの声が聞こえてくるような気がする。石内は「また来るわ。オキーフをテーマにするなら、この風景を撮るしかないわね」、そう言って地平線に向かって歩いていった。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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