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 アメリカの名編集者
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 アーネスト・ヘミングウェイの編集者、マックスウェル・パーキンズ(1884-1947)のことを、最初に教えてくれたのは常盤新平さんの『アメリカの編集者たち』(集英社、1980年)でした。この本は、ランダム・ハウス社を設立したベネット・サーフをはじめ、「ニューヨーカー」の創刊編集者ハロルド・ロス、2代目編集長ウィリアム・ショーン、「エスクァイア」の創刊編集者アーノルド・ギングリッチ、そして「プレイボーイ」の創刊者ヒュー・M・ヘフナーなど、米国出版界を彩った16人の編集者たちの仕事と横顔を紹介したお洒落な本でした。

 そのトップバッターだったのが、パーキンズです。ヘミングウェイの他、スコット・フィッツジェラルド、リング・ラードナー、トマス・ウルフ、アースキン・コールドウェルらの編集者として名を馳せた人物ですが、常盤さんの本の中で何より鮮やかな印象を刻んだのは、彼の規則正しい生活ぶりでした。

<ニューヨーク生れのパーキンズは一九四六年に亡くなるまで、まるで判で押したような生活を送った。住まいはコネティカット州のニュー・カナーン。妻と五人の娘。そして、スクリブナーズ社の仕事。少年時代を過ごしたヴァ―モント州のウィンザーを訪ねたり、フロリダのキー・ウェストでヘミングウェイと釣を楽しむことが、ときおりあったにすぎない。
 パーキンズの出社は十時。まず来信を調べ、手紙を口述し、原稿に目を通し、来客に会う。午後一時、チェリオで昼食。二時半に帰社すると、五時ごろまで原稿を読み、来客に会った。それからリッツ・ホテルのバーで著者かエイジェントに会い、六時二分の列車でニュー・カナーンに帰る。彼の鞄にはいつも原稿がぎっしりつまっていた>(同書)

 パーキンズの活躍した時代には2つの世界大戦がありました。自国領土が戦場と化し、戦勝国も敗戦国もともに疲弊したヨーロッパ諸国に対し、「独り勝ち」を収め、未曽有の好景気に沸きかえった1920年代のアメリカ。それが、1929年10月のウォール街の株価大暴落を発端に、世界恐慌の災厄に見舞われる1930年代へ――。ジェットコースターのような激しい変動に身をさらし、出版界にも不況の風が吹きつけます。

 一方、それまではイギリス文学の「出店」としか見なされなかったアメリカ文学が、独自の存在感を発揮し始めるのもこの時期です。先に名前の挙がった「失われた世代(ザ・ロスト・ジェネレーション)」の若い作家たちがいっせいに羽ばたきます。その舞台を用意し、『グレート・ギャツビー』や『日はまた昇る』など、アメリカ文学を代表する多くの名作を送り出したのがパーキンズでした。1987年に翻訳が刊行された『名編集者パーキンズ』(A・スコット・バーグ、草思社)の原題は“Max Perkins―Editor of Genius”です。天才たちの担当編集者であり、また彼自身が「天才編集者」なのでしょう。

 才能豊かな新人を発掘し、彼らを世に送り出すために編集者として命を賭けた、という点で、パーキンズの存在は傑出しています。ひとりの作家、ひとつの作品に、いつも真剣なまなざしで向き合い、才能をより開花させるために、作品をより優れたものにするために、あらゆる努力を惜しみませんでした。

 時代も、編集者に新たな役割を求めていました。その要求に真摯に取り組んだのがパーキンズでした。ダブルデイ社の編集長、ケネス・D・マコーミックは、『名編集者パーキンズ』の中で次のように述べています。

<以前は、主として綴りや句読点の誤りを訂正するのが編集者の仕事だったが、現在ではそうではなくなっている。むしろ、何を出版するか、作品をどうやって手に入れるか、また出版物が最大の読者を得るためにどんな手を打つべきかといったことを見きわめるのが編集者の仕事なのである。そして、このすべての点で、マックスウェル・パーキンズこそは他に抜きんでている>

<パーキンズが文学作品に対して下す判断はきわめて鋭敏かつ独自のものであり、彼を有名にしたのは、作家を鼓舞して、もてる最大の長所を引き出す能力である。作家の担当編集者というよりは友人として、彼はあらゆる面での助力を惜しまない。必要とあれば、作品の構想を練り、題名を考え、筋を組み立てる手助けもする。さらに、精神分析医、失恋のさいの慰め役、結婚相談員、マネージャー、金貸しといった役割まで果たすのである。パーキンズ以前の編集者で、彼ほど原稿に多くの注文をつけた者はほとんどいなかったが、それでも彼はつねに自己の信条に忠実だった。それは「本はあくまでも著者のものだ」ということである>

 現代の編集者にとっては格別驚くこともない“常識”に聞えるかもしれませんが、パーキンズはまさにパイオニアとして、文学ジャーナリズムの転換期にあって新しい編集者像を切り拓いたのです。であればこその「天才編集者」です。

<ある面では、パーキンズはおよそこの職業にふさわしくない、とマコーミックは指摘した。文字の綴りはひどかったし、句読点の打ち方にも癖があった。しかも、読む段になると、自分でも認めているように、「牛の歩みのように遅い」のである。だが、彼は文学を生死にかかわる重大な事柄として扱った。あるとき、彼はトマス・ウルフにあててこう書いた。「この世に書物ほど大切なものはありません」>

 そのトマス・ウルフと編集者パーキンズの関係に焦点を当て、彼らの友情と葛藤を描いたのが、映画「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」です。先週見てきましたが、いろいろな発見がありました。

 思慮深く黒衣に徹するベテラン編集者と、16歳年下で自由奔放な、そして37歳でこの世を去る作家とが織りなすドラマは、文学作品を間にはさんだ真剣勝負です。父と子、ないしは兄と弟――もしくは激しい“恋愛”にも似た歓喜と熱狂、苦悩と軋轢を浮き彫りにします。大恐慌時代のニューヨークを背景に、抑制の効いた演出で、静かな緊迫感を湛えながら、物語は進展します。

 トマス・ウルフは日本ではさほど知られていませんが、パーキンズによってスクリブナーズ社から刊行された第1作『天使よ故郷を見よ』(1929年)がたちまちベストセラー入りし、第2作『時と川の』(1935年)もまた大成功を収めます。20世紀初頭のアメリカで、彼は文名を轟かせます。

 膨大な枚数の原稿が、ドサリとパーキンズのもとに持ちこまれたところから物語は始まります。各社の編集者が恐れをなし、たらい回しにされてきた無名作家の「超大作」です。他にも多くの仕事を抱えていたパーキンズですが、帰りの列車の中で、さっそく読み始めます。

 一方、トマス・ウルフは、パーキンズからもきっと断られるに違いない、ただ彼の意見を聞くことができるなら、と思ってスクリブナーズ社に現れます。ところが、いきなりパーキンズから「出版する」と告げられ、500ドルの前金を渡されます。部屋を出ても、まだ夢見心地です。自分に何が起きたのか、徐々に実感できた瞬間に、彼は両手を大きく突き上げ、廊下で歓喜の声を上げるのです。

 そこから、いよいよ出版に向けて2人の格闘が始まります。トマス・ウルフは言葉が洪水のようにあふれ出てくる過剰なタイプの作家でした。パーキンズはこの作品に魅了され、是が非でも出版したいと考えますが、同時に「手直ししてもらうのにどれくらい骨が折れるか」を経験的に知っていました。この作品には「本当の意味で形式と言えるものがなく、作品の構成をととのえるためには、随所に適切な削除の手を入れるほかはない」と身構えてもいたのです。

 それがどの程度の仕事量であるか、米文学者の柴田元幸さんの言葉を借ります。トマス・ウルフという個性も、この場合は重要な要素です。

<身長2メートル、体重110キロ超の超大食漢だったウルフは、書き手としてもすさまじいエネルギーの持ち主で、無限に言葉を紡ぎ出すことができた。だが彼は、それを出版可能な長さと形にまとめる能力をまったく欠いていた。その能力を提供したのがパーキンズである。30万語(日本語400字換算で2千枚弱)近くあった第一長篇『失われしもの』の草稿は、パーキンズの丹念な指導により約6万6千語削られて(従来9万と言われていたが、現在はこれが定説)『天使よ故郷を見よ』として出版された>(柴田元幸「編集者パーキンズとその時代」、劇場プログラム所収)

 第2作はそれをもはるかに上回る難儀な大作業となりました。何しろ原稿がスクリブナーズ社に届いた段階で、3つの木箱に溢れていました。これをめぐって、2人は激しいやりとりを続けます。どこを削るか。なぜ削るか。激論が続きます。昼夜を分かたず没頭します。その作業にあまりにのめりこんだために、パーキンズは家庭内に、ウルフはパートナーとの間に厄介な軋轢を生みます。

 2年がかりで完成させた第2作は、またもやベストセラーになりました。外遊先のパリから船で帰国したウルフを、パーキンズは埠頭の桟橋で迎えます。

<ラファイエット・ホテルへ向かう途中、トムが八丁目で足を停め、建物を指さして言った。「ほら、マックス、あそこの屋根裏に住んで、『天使よ故郷を見よ』を書いたんですよ。上へ行って、入ってみませんか」>(『名編集者パーキンズ』)

 ニューヨークで、ウルフが初めて住んだアパートでした。2人はいま空き室となっているその部屋へ侵入し、さらに屋上へ出てニューヨークの街並みを見渡します。最高の眺めでした。部屋を立ち去る前に、ウルフは鉛筆で、入口の壁にこう書きます。「トマス・ウルフ、ここに住めり」。これが幸福の絶頂でした。

 律儀で、何ごとにも控えめ。冷静で堅実で、言葉づかいも、著者への敬意という点でも、考えられる限り申し分のなかったパーキンズです。しかしながら、ウルフは次第に、その無言の圧力、桎梏から逃れたいと考え始めます。自分の作品の成功はパーキンズの助力があったからこそ、と見られることに、次第に苛立ちと反発を覚えます。

 子が父の許を去るように、この2人の蜜月にも、やがて終焉の時が訪れます。袂を分かち、独り立ちを果たすウルフでしたが、間もなく病魔が彼を襲います。病院のベッドに横たわり、ウルフはパーキンズに手紙をしたためます。震える手で、「親愛なるマックス」と書き出された手紙は、次のように結ばれます。

「何が起こっても、そして過去に何があったにしても、いつもあなたのことを考え、あなたに対して3年前の7月4日と同じ感情を抱いています。あなたがわたしを船まで出迎えてくれ、二人で高いビルの屋上にのぼり、人生と都会の異様さ、栄光、力が眼下に広がっているのを見たあの日と同じ気持ちなのです」

 ウルフの葬儀から戻り、悲しみに耐えながら出社したパーキンズの許に、手紙が遅れて届きます(*)。見慣れた手書きの文字に、息を呑んで読み始めます。そしてパーキンズは、ここで初めて裸の姿をさらけ出します。眠る時以外は、家の中でも、パジャマを着てリラックスしている時でさえ、ずっとかぶり続けていた帽子を、この時ついに脱ぐのです。

 A・スコット・バーグの『名編集者パーキンズ』を原作にした脚本は、20年前にこれを読み「ずっと心に残っていた」という脚本家によって、ほぼ忠実な実話のドラマとして新しい生命を吹き込まれました。映画の原題は「GENIUS」です。原作の副題からさらに一歩踏み込んで、2人の「天才」が魂と魂をぶつけ合い、傷つけ合いながら、真の友情を見出していく物語に焦点を絞ります。

 その意味では、つねに自らを律して、「まるで判で押したような生活」を守っていたパーキンズもまた、実は内面に激しい情念を抱え、それを意志の力で制御していた、ウルフの“同志”だということがよく分かります。

 パーキンズを有名にしたのは、「作家を鼓舞して、もてる最大の長所を引き出す能力である」という指摘がありました。作家があたう限り彼(彼女)自身であるために、そのように仕向け、極限までその心に入り込んでいくのが編集者の仕事です。その無私の役割に、パーキンズほど身をすり減らした人物も稀でしょう。一時代を築いた名編集者の尋常ならざる情熱が、物語の伏流として伝わってきます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

*このあたりは原作の叙述とは異なっていて、映画の脚色であるようです。

■映画「ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ」は、TOHOシネマズシャンテほかで全国公開中。記事中の使用写真(C)GENIUS FILM PRODUCTIONS LIMITED 2015.ALL RIGHTS RESERVED.