【考える本棚】
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 内堀弘『ボン書店の幻――モダニズム出版社の光と影』(ちくま文庫)
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これが墓碑なのだ
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「古本屋は、今日仕入れた本を明日売るようなことをしてはいけない」――著者が古書店を始めて間もなく、同業の先輩から教えられた戒めです。著者は東京の郊外で「石神井(しゃくじい)書林」という詩歌専門の古書店を、36年営んでいます。といっても、店舗は構えず、全国に古書目録を発信し(この目録というのが古書マニア・研究者をたじろがせる内容で)、そこから注文を受けて販売するという営業形態です。このユニークなお店(つまりは店主)の日常は、『石神井書林 日録』『古本の時間』(ともに晶文社)という著作で垣間見ることが可能です。

 さて、冒頭のひと言を著者に呟いたのは、やはり詩書専門の老店主でした。「本が買えたからといって、すぐ売るんじゃない。せっかく授業料を払ったんだから、それがどんなものなのかしばらく勉強なさい」という意味でした。本書のテーマであるボン書店との深い付き合いも、まさにそうした出会いと「勉強」から始まります。

<掌にのるほどの小さな詩集の奥付に、ボン書店という名前を見たのは、もう二十年以上も前のことだ。
私は郊外で古本屋をはじめたばかりだった。詩歌集を蒐めていきたいと、そんな話をしたのだろうか、ある初老のお客さんが戦前の詩書を何冊か頒けて下さった。そのなかに、この小さな詩集があった。
 和紙のように見えたが、やや厚手の普通紙だった。そこに、一文字ずつ、それこそ刻むように活字が押されている。充分な余白と、余分をそぎ落とした簡素な装丁。豪華なところは少しもないのに、一冊の書物がまるで一つの作品のように見えた。
「ボン書店らしい詩集でしょ」。初老のお客さんがそう言った。私は、その名前を聞くのも初めてだったけれど、でも、言葉の意味が少しわかるような気がした>(「消えた出版社を追って」、『古本の時間』所収)

 ボン書店とは、昭和7年から昭和13年にかけて約7年間、当時のモダニズムやシュルレアリスム関係の本を出していた小さな出版社(リトルプレス)です。1930年代に活躍した北園克衛、春山行夫、安西冬衛、山中散生(ちるう)といった新鋭詩人たちのスタイリッシュな詩書を刊行しました。

 当時の文芸書にありがちな「天金(本の天の部分に金箔をつける装丁)」や革装といった豪華・重厚路線には背を向けて、「書物を紙だけで作るという最もシンプルな方法にこだわって」、「レスプリ・ヌウボオ」(新しき精神)と呼ばれる時代感覚にふさわしい、洗練された美しさを求めました。

<たとえば、柔らかい紙に強く活版を押す、活字の部分が少しへこみ、まるで紙に文字が刻まれたような鮮やかさを生み出す。そんな、なんでもない素材の効果をボン書店はさりげなく印象づける。……小さな詩集でも余白を大きく取ることでそこに刻まれた作品を浮き上がらせている。また、薄い詩集であっても表紙を重く厚い紙にすることで書物の存在感を際立たせる。そんなふうに一冊ごとの顔を持たせていた>

 そうした丹精込めた1冊1冊を、30銭そこそこの値段で売りました。部数は200部内外といった少部数です。刊行人は、読者への通信にこんな言葉を残しています。

<ボン書店は、営業を第一目的とする一般図書出版書肆と異り、よい本を、出来る限り立派な装丁で作り、煙草を買ふやうな、軽い気持ちで求められる廉価で頒ちたい、と考へてゐます。だから定価が実費であつたり、ときには実費以下であつたりしますが、このことは私自身が、一個のアマチュアであることを承知下さるならご諒解願へるだらうと存じます>

「一個のアマチェア」という言葉に「高い水準をめざす」という若々しい自負がにじみます。この奇特な出版人はどんな人物だったのか。ボン書店とは、いったいどういう出版社だったのか――。ボン書店の主要著者の一人である春山行夫は戦後になって、その思い出を語ります。

<昭和八年頃だったか、鳥羽茂という詩の好きな青年が現われて、ボン書店という名で小さな詩集の出版を始めた。書店というとたれもが店を連想するが、彼の場合は単なる象徴にすぎなかった。彼は詩集を出版する目的でどこかの小さい印刷屋に入ってその二階に住み、昼間は印刷を手伝いながら、夜や日曜日にコツコツと自分で活字を拾って、そのころ最も新しい詩を書いていた詩人たちの詩集を出版した。……
 彼が、十数冊の詩集を出したあとで急に姿を消してしまった。伝え聞くところによると、彼は詩集を出しているあいだに結婚して、細君と二人で仕事をしていたところ、二人とも病気になって田舎で死んでしまったといわれている。彼らの郷里がどこであったのか、いつ頃彼らが世を去ったのか、一切のことがわからない。詩集を作っても売れる数はごく僅かだったので、それに投じた費用は戻らなかった。鳥羽君は夫婦で働いて金を残し、数カ月たっていくらかの金額にまとまると、それを惜し気もなく詩集出版に投じた。……小柄な、背のひくい、少し神経質な青年だった。彼も詩を書くつもりで東京に出てきたのであろうが、その情熱を詩集という形で残したのであった。私はこの夫婦の生涯を思うと、清らかな詩を感じずにはいられない>(春山行夫『詩人の手帖』河出書房、1955年)

 鳥羽茂は1910年の生まれです。ボン書店の誕生が1932年8月ですから、20歳そこそこの青年が、決して楽ではない暮らしを送りながら、たった一人で活字を組み、印刷をし、好きな詩集を理想の形で、世に送り出していたのです。尖端的な空気をまとった、瀟洒な「ボン書店らしい」体裁で――。

 このモダニズムの雰囲気を、著者は秀逸な喩えで伝えます。1930年の春、銀座のカフェの片隅で、後にボン書店から詩集を出す北園克衛と岩本修蔵が新しい詩の雑誌について語らっています。これを著者は「坂本龍一と細野晴臣が新しい音楽のことで話し合っている」図になぞらえます。昭和初頭のモダンな雰囲気をYMO誕生前夜という比喩でリアルに浮かび上がらせています。新しい時代の風を受けながら、勇躍、モダニズムの海へ乗り出そうという小舟がボン書店だったのです。

 しかしながら、生み出された書物が“痕跡”として残ってはいるものの、本の送り手の“伝説”はもはや耳を澄ませてもかすかに聞こえるかどうかです。ボン書店について、鳥羽茂について、もっと詳しいことを知りたくても、記録も手がかりも何もないという現実に著者はたちまち直面します。

「幻の出版社といえば聞こえはいいが、実は本を作った人間のことなどこの国の『文学史』は端から覚えていないのではないか。とすれば、なんとも情けない話だ」――捨て身の情熱で、命を削るようにして書物を送り出した鳥羽茂が顧みられないまま、記憶のかなたに沈もうとしている。このことに、著者は強い憤りを覚えます。

「モダニズムの時代に風花のように舞って消えていった」ボン書店の物語を掘り出して、鳥羽茂の生きた証を確かめるために、執念の追跡行が始まります。

 根気のいる、孤独な探索が続きます。ボン書店の刊行書目を集めるのはもちろんのこと、当時の新聞、雑誌、広告など、ヒントになりそうなあらゆるものに目を凝らします。鳥羽茂に関係のありそうな詩人たちには、片っ端から手紙を送ります。足跡はたどれる限り踏査します。中学時代、岡山にいたことが判明すれば、同窓生、地元の詩壇にあたります。晩年近く、いよいよ東京生活を引き払い、戻ったとされる郷里を特定するために、岡山、大分、熊本、宮崎と、あたりをつけた地域内の鳥羽姓の人たちをすべて電話帳で洗い出し、絨毯爆撃式に問い合わせます。わずかな手がかりを求め、憑かれたように、徹底した調査を繰り返します。

 こうしてほの見えてきた鳥羽茂の肖像は、モダニズムの空気を全身に浴びながら、大きく羽ばたこうとした青年の一途な姿です。「レスプリ・ヌウボオ」の明るい雰囲気を身にまとい、うたかたの夢のように現われて、やがて誰に知られるともなく消えて行ったこの青年の哀切な人生が、惻々として胸に迫ります。

<レスプリ・ヌウボオという一陣の風と共に現われて、共に去っていったかのように見える、という言い方はとても美しいかもしれない。ボン書店の航跡は確かにそんな美しさに似合うものであった。だが、残された書物たちの向こう側で鳥羽茂という無名な一生はどこか悲しげである。人の死に方は、彼がどんなふうに生きたかを象徴しているものだ。ありがちな言い回しだが、彼の短い生涯のなかにも、様々な出会いがあり別れがあった。彼の淡い足跡を追いながら、生前の鳥羽茂を知る人たちとも出会った。だが、彼らの記憶の中で鳥羽は印象的であっても、その交渉は希薄であった。僅か三十年ほどの短い生涯なのに、きれぎれの場面で鳥羽を知る者はいても、時間という線で彼を知る者は皆無であった>

「一人の人間の痕跡とはこんなにも残されないものだろうか」――無念さをこめたドキュメントは、1992年、京都の白地社から刊行されました。本書の親本にあたります。ところが、2003年になって事態が動きます。

「私の母は、鳥羽茂の妹です」という電話が、ある日、女性の声でかかってきます。いくら調べても分からなかった親族からの連絡でした。本が出てから約10年。彼女はさらに、「鳥羽茂の息子も生きているんです」と驚くような事実を著者に伝えます。

 妹の夏子さんはすでに85歳を過ぎていましたが、ほどなく会うことができました。「茂」は「しげる」ではなく、「いかし」と読ませたと教えられます。その他、これまで謎だった数々の事柄が判明します。ボン書店が出版活動を停止する直前に結核で亡くなった妻のお骨を抱え、4歳の一人息子を連れて、病身の鳥羽茂が品川駅から九州に引き上げて行ったという経緯――。

 古希近くになっていた遺児の鳥羽瑤氏と会うこともできました。

<「あなたのご本を読んで、親父に会えました」、瑤はそう言って長く頭を下げた。私は、どう応えたらいいのかわからなかった。
「茂の兄弟から、ボン書店という名前は聞いたことはありますが、どんなことをしていたのかは知りませんでした。兄弟も茂の仕事を詳しくは知らなかったんです」
 弟の芳文は既に亡くなっている。……
 息子の元に両親の遺品は何もなかった。これは妹夏子の場合も同じだ。だから、彼は自分の両親の顔さえ知らないできた。『ボン書店の幻』に載せた二枚の写真、それが初めて見る父親の顔だった>

 品川駅からこの親子が向かった大分県の郷里の村へ、著者の探索が再開されます。息子が持っていた戸籍の住所を頼りに、妹がかつてそこを訪ねた際のスナップ写真を手がかりに、著者はその地を訪ねます。1939年6月、母方の実家がかつてあった村で、茂は結核のため死去します。幼い瑤は、父親の弟、芳文の許に引き取られます。

<役場で尋ねると、この地番はやはりなくなっていた。長く人が住まなくなった土地は、地番がはずされ原野の扱いとなるそうだ。それでも「このあたりではないか」と、大きな地図に鉛筆で印をつけてくれた。……「初めての人が車で行ける場所ではない」、そう言って歴史民俗資料館の方が先導してくれた。地図を見ていたときには、険しい山道をどんどん入って行くのかと思っていたが、実際は低い山を左右にみながらうねうねとした道を奥へ進む。深い緑の中には水田も点在していてのどかな風景が続いた>

 近所の農家の老女が、60年以上前に、馬小屋に併設した小さな住まいに2人で暮していた父子の姿をわずかに覚えていてくれました。鳥羽茂が最後にたどり着いた場所でした。「文庫版のための少し長いあとがき」として書かれた文章は、これ以上ないほど感動的です。ボン書店の幻を追い続けた著者への祝福のようにも思えます。

 何度読んでも胸に迫ります。長く熟成させてきた鳥羽茂のイメージが、最後に、一本の樹の姿をとって現われます。「これが墓碑なのだ」と著者は思います。圧巻としかいいようのないフィナーレです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)