ヨーロッパ北東部、スカンジナビア半島の対岸に位置するエストニア。タマネギ屋根のロシア正教会、苔に縁取られた石畳の細い道、迷宮のような地下通路、リンデンの緑を吹き抜ける風――ある秋の日、作家の梨木香歩さんは仕事の旅で九日間、エストニアに滞在しました。
エストニアは日本にあまりなじみのない国かもしれません。いわゆるバルト三国の一つで、13世紀初めドイツとデンマークの十字軍に征服されてキリスト教化がはじまって以来、スウェーデン、ロシア帝国、ナチスドイツ、ソビエト連邦とさまざまな国から度重なる支配を受けつづけ、1991年に独立回復を宣言した共和国です。首都であるタリンは世界文化遺産に登録された歴史地区を有し、同時にヨーロッパきってのIT産業の盛んな都市。日本から直行の航空便はなく、梨木さんはアムステルダム経由で遠回りしながらエストニアに向かいます。頭の中に、コウノトリが風に誘われ的確に目的地をめざして渡っていく光景を思い浮かべながら。

「タリン空港へ着いたのは、夜半の十一時五十五分だった。出発後、太陽が沈み始め、やがて雨雲が支配するあの空域に再び戻った。飛行機は不気味な黒雲の中をついに突っ切って、見る間に激しい豪雨の中、なるほどあの厚い雲の下の世界は、こういうことになっていたのか、と納得しながら地上へ下りた。空港ビル内は閑散として、入国や税関の審査なども一切なかった。十二時を過ぎているからだろうか。人影も少なく、『闇夜に乗じて』、という言葉がこのとき、この旅最初に脳裏に浮かんだ。
 (中略)
初めての国の風景を見ようにも、ただでさえ明かりの少ない夜の闇、公開時間はとっくに終わったのに、と言わんばかり、激しい雨が帳となり不躾な異国の人間に、覗かれるのを拒むかのよう。
このときタリンで計測されていた気圧は九百九十五ヘクトパスカル。この地がほとんど北緯六十度近く、カムチャツカ半島北部と同じ位置にあると考えれば、これはかなりの低気圧である。風は南風。つまり北へ向かう風、この時点では。このことを、記憶されたい。」

歴史の刻まれた町から、地方の森へ、湖へ。行く先々で物語をはらんだひとびとに出会い、梨木さんの旅はどんどん深まって行きます。
いま発売中の2011年秋号と、年末に発売となる2012年冬号の2回に分けて、あわせて100枚を超える濃密なエストニア紀行を、木寺紀雄さんの美しいカラー写真とともにお送りしています。ぜひ本誌でおたしかめください。