絹の道

 前回述べた通り絹は、手触り、光沢、保温性、吸湿性、染色性などに優れる。この素晴らしい繊維が、古代の人々を魅了せぬはずがなかった。前漢時代には絹織物の高度な製造技術が確立し、これらは異民族との交易において大いに珍重された。このため、絹の製法は国家によって厳重に秘匿される。貴重な絹は商人の手から手に渡り、やがて遠くローマにまで伝えられる。

 運び込まれた絹は、ローマにおいて高い人気を博した。同じ重量の金と同価格で取引されるほどに絹が高騰したため、初代ローマ皇帝アウグストゥスは絹の着用禁止令を出したほどだ。4世紀初頭のディオクレティアヌス帝の時代、大麦1モディウス(約12リットル)の価格が100デナリウスであったのに対し、約300グラムの白い絹布は1万2000デナリウスであった。絹の抗いがたい魅力は、ローマから多量の金を流出させ、これが帝国の経済弱体化にもつながったとされる。

絹着用禁止令を出したアウグストゥス(Till Niermann / Wikipedia Commons)


 中国とローマを結ぶ交易路が、いわゆるシルクロードだ。シルクロードといった場合、中央アジアのオアシスを辿って西へ向かう「オアシスの道」を思い浮かべるが、実際にはカザフスタンなどのステップ地帯を抜ける「草原の道」、東シナ海からインド洋を経てアラビア半島へ向かう「海の道」も重要な役割を果たした。

シルクロードの主なルート


 人類史上初めて、ユーラシア大陸をまたぐ交易路ができた意義は大きかった。こうして人と物の活発な東西交流がなされたことが、数々の発明と文明の進展を呼び、やがてヨーロッパ文明の世界制覇につながっていった――というのが、名著「銃・病原菌・鉄」における著者ジャレド・ダイアモンドの主張だ。

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』
 


 絹はこの交易において、主要品目であると共に、一種の通貨の役割も果たした。誰もが求めるものであり、軽く運搬に便利で、必要量だけを取引できる絹は、通貨としての必要条件を満たしていたのだ。この面からも、絹が東西交流に果たした役割は大であった。

 我が国においても絹は通貨としての役目を演じている。大化の改新において定められた税制において、国民は絹を始めとする布類を、税金の一部として納めることを義務付けられたのだ(租庸調の「調」)。また寺社への奉納や、功績を立てた者への褒賞としても、絹布が盛んに用いられている。

 西欧諸国における香辛料の需要が大航海時代の到来をもたらし、歴史を大きく動かす駆動力になったことはよく知られている。しかしこうして見ると、絹もまた香辛料に劣らぬほど、歴史を揺り動かす力になってきたといえるだろう。

シルクの帝国

 平安朝においては、絹で織り上げられた色とりどりの衣服がもてはやされ、貴族たちの暮らしを彩った。しかし鎌倉時代に入って武士の世が訪れると、質素な服装が好まれるようになり、絹の文化はやや翳りを見せる。江戸期にも絹はしばしば倹約令の対象となり、庶民の手には届かぬものとなった。

 とはいえ絹の需要は絶えることはなく、生糸は中国からの輸入が主体となり、代価として多量の銅が流出した。このため、幕府は国内での養蚕を奨励する政策を打ち出し、江戸末期には製糸の機械化も進められている。

 養蚕事業が一挙に脚光を浴びたのは、明治に入ってからであった。幕末ごろ、太平天国の乱による清の養蚕業への打撃、フランスやイタリアでの蚕の病気の流行などにより、日本からの生糸輸出は大幅に伸びていた。そこで明治政府は1872(明治5)年、フランスから技術者を呼び寄せ、官営製糸場を設立することを決定する。この時活躍したのが、渋沢栄一であった。

渋沢栄一(1840-1931年)


 渋沢は幕末にフランスへの渡航経験があり、先進的な製糸工場をその目で見ていた。当時の政府には養蚕について詳しいものなどおらず、富岡製糸場の建設から輸出蚕種の規制、養蚕奨励などの各種業務を渋沢が一手に引き受けることとなった。

 群馬県の富岡は、以前から繭の一大集積地であり、広い土地の確保も可能であった。渋沢はここに建てる機械製糸場を、殖産興業の柱に据える決断を下す。これが、有名な富岡製糸場の始まりであった。

富岡製糸場


 渋沢はその後、第一国立銀行や東京証券取引所の他、500を超える企業の設立に関わり、「日本資本主義の父」と称される。これらの業績があまりに大きいために語られることは少ないが、富岡製糸場の基礎を固めたことも、彼の大きな功績に数えるべきであろう。

 製糸工場で作られた生糸は、大規模に輸出され、日本の基幹産業となっていた。1922(大正11)年には、日本の総輸出額の48.9%を生糸が占めるまでになった。こうして得た外貨によって、日本は工業化と富国強兵政策を押し進め、明治維新からわずか数十年で列強と肩を並べる国家へと駆け上った。その原動力となったのは、ただ一種の昆虫の幼虫が吐き出す、細い糸であったのだ。

 技術的な面でも、多くの改良が加えられた。たとえば1906(明治39)年には、動物学者外山亀太郎が、一代交雑種の利用を提唱した。彼は、日本産の蚕と中国産の蚕をかけ合わせた雑種の蚕は、親よりも強健で、絹糸の生産量も高いことを見つけ出したのだ。現在では農業・畜産などの分野で当然のこととなっているハイブリッド種の利用は、この外山の発見に基づくものだ。

外山亀太郎(1867-1918年)


 その後も引き続いて行われた品種改良により、蚕の生産性は格段に向上した。明治30年代には、生糸一俵の生産に要する繭の数は約184万粒であったが、昭和50年代にはわずか19万粒となった。蚕一匹あたりの生糸生産量が、10倍近くにも伸びた計算となる。

 その代わりに蚕は、野生で生きていく能力を完全に失ってしまった。幼虫は、自力で木の幹につかまり続けることができず、成虫は空を飛ぶこともできない。現代の蚕は、摂取したタンパク質の6~7割を絹糸へと変換する、超高効率の製糸マシーンと化しているのだ。

 巨大産業となった製糸事業は、さまざまな弊害をも引き起こした。富岡製糸場こそ先進的な労働環境で知られていたが、ほかの多くの製糸工場では女性たちが劣悪な環境で働かされたため、結核などで多くの者が命を落としたことは、「女工哀史」「あゝ野麦峠」などで語られた通りだ。当時の新聞によれば、女工の1000人に13人が亡くなったというが、実際には結核で死ぬ前に郷里に帰され、そちらで亡くなる者も多かった。これによって結核は各地に広がり、日本人の国民病ともなった。日本が近代化のために支払った、大きな代償であった。

ハイテクシルクの時代

 しかし戦後には、化学者たちが絹の代替品として、ナイロンやポリエステルなどの優れた合成繊維を次々に生み出していった。風合いこそ絹に若干及ばないまでも、安価で、保温や染色性にも優れた合成繊維は、長く王座に君臨してきた絹の市場を軽々と奪っていく。これらの物語は、いずれ別の項目で語ることとしよう。

 こうして生糸生産は花形産業の地位を降りた。桑畑の地図記号は2013年に廃止され、教科書からその姿を消している。明治日本を支えた富岡製糸場は、2014年に世界遺産に指定され、すでにその存在は歴史の1ページとなった。絹を日常で見かける機会も少なくなっており、若い世代には絹製品を手に取ったことさえない人もいることだろう。

ついに廃止された桑畑の記号


 しかし一方で、現代のテクノロジーとの融合も進みつつある。ごく最近、中国の清華大学のグループは、夢の炭素材料といわれるカーボンナノチューブやグラフェンを、水に溶かして桑の葉に噴霧し、これを蚕に食べさせる実験を行なった。結果、できた絹糸は高い強度を示し、高温処理すると電気を通すようになったともいう。

 正直言ってにわかには信じ難い研究結果ではあるが、最新科学によって伝統的な材料である絹が、新たな可能性を引き出されることは十分にありうるだろう。タンパク質である絹は、人体への適合性も高く、再生医療などへの応用も検討されている。

 また、いくら合成繊維が進歩したとはいえ、絹の風合いに打ち勝てるものはいまだない。絹の秘密はまだ完全に解き明かされたわけではなく、今後もそこから学ぶことはたくさんあることだろう。人類とともに歩みを進めてきた絹の旅は、まだまだ終わりそうにはない。