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 昭和は遠くなりにけり
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 今上天皇の「生前退位」をめぐる有識者会議が続いています。譲位が決まれば元号も当然変わります。昭和の半ばに生まれた私たちが、「明治は遠くなりにけり」(中村草田男)としばしば聞かされたように、「昭和は遠くなりにけり」がいよいよ現実となるのでしょうか。

 文春新書のシリーズでこれまで昭和20年代~40年代の世相、そして昭和を彩る名優たちの思い出などを綴ってきた鴨下信一さんが『昭和のことば』(文春新書)という新刊を出しました。著者は言わずと知れた東京放送(TBS)の演出家で、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など、数々の名作ドラマを手がけてきました。職業柄か、言葉のセンスには鋭敏で、日本語や日本人の名文を探索する多くの著作をものしています。『昭和のことば』はその意味で、当然のように生まれた1冊だと言えるでしょう。

 全体は7章に分かれていて、各章で取り上げられた一つ一つの言葉から、ある世代以上はそれぞれ自由に連想の羽を伸ばすことができるはずです。「リンゴ」「大衆」「家庭」「幸福」「肉体」「台風」「お先に」「東京」「巴里」「馬鹿」「出世」「メシ」「大晦日」……。どの言葉の背後にも、具体的な、懐かしいある暮らしの一場面が浮かんできます。たとえば「みんな」といえば――。

<戦時体制下の日本人全体を指す言葉は……〔一億〕だった。「出せ一億の底力」「進め一億火の玉だ」そして終戦時の「一億総懺悔(ざんげ)」。
 日本人全員が平等で同じという〔みんな〕のイメージは戦後しばらく保持されて、吉永小百合は映画『キューポラのある街』(昭37)で「一人の五歩前進より、十人の一歩前進」という(脚本・今村昌平/浦山桐郎)。これは当時誰もが口にした「一人の百歩より、みんなの一歩」からとったものだろう。同じ年『みんなで歌おう』と名付けた歌番組がテレビに登場する。いまでは信じられないだろうが、戦後ずっと歌の世界の王者は合唱だった。歌ごえ運動、ドン・コサック合唱団、ミッチ・ミラー、ウィーン少年合唱隊、軍隊酒場、いくらでも合唱全盛の証拠は残っている。日本人はみんなが声を揃えて歌うことが出来た。
 しかしみんなが<一つのもの>だった時代はやがて終る。はっきり潮目が変ったのは「赤信号みんなで渡れば怖くない」(ビートたけし・昭55)が流行語になった頃からだろう>

 同じ年にイルカが歌った「まあるいいのち」はやがてCMに使われます。<みんな同じ生きているから/一人にひとつづつ大切な命>。〔みんな〕が個に解体されていく時代の流れを感じます。「みんなちがって/みんないい」の詩を遺した金子みすゞが、復活するのも昭和の終る頃だった、というのが著者の見立てです。

 このように、いくらでも敷衍できそうなキーワードが登場し、ごく普段使いの活用例が紹介されています。昭和とともに暮らしの中で、生き生きと使われてきた愛すべき言葉たち――。各章の冒頭に掲げられた解説も、それぞれ興味深い内容です。

<人名は時代の色が濃く付く。それだけに懐かしい。地名もいくつかの時代をくぐり抜けて伝わる。……いまのキラキラネームも何十年か後には立派な日本語の歴史の中に位置を占めるだろう>

<日本語の達人久保田万太郎は「悪所(花柳界・芝居)から生れた言葉が、女学生に拡まり、一般社会に定着する」といっている。いわゆる悪い言葉を識者は排除したがるが、それこそ言葉の生命力を枯らすもとだ>

<言葉は、いつ生れたか正確にはわからず、死んだと思うとまた生き返る。シブトイ、シブトイ。その生命力ははかり知れない>

 そんなことを思っている時に、面白い本と出会いました。写真家の潮田登久子さんの『みすず書房旧社屋』(幻戯書房)という写真集です。みすず書房はロラン・バルトの『零度のエクリチュール』やレヴィ=ストロースの『野生の思考』、ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』『イェルサレムのアイヒマン』など知の最先端を切り拓く翻訳書の数々や、『神谷美恵子コレクション』『現代史資料』などの良書を手がけてきた出版社です。最近ではトマ・ピケティの『21世紀の資本』が話題を呼びました。

 その旧社屋は知る人ぞ知る、木造一軒家のような建物でした。現在の住所でいうと本郷3丁目になりますが、学生時代、「みすず書房」と社名板の出た建物を通りすがりに目にした途端、清新な書籍のイメージとのあまりの落差に、しばし立ちすくんだ記憶が鮮やかです。

 撮影されているのは、まさにその時の建物です。同社の創立から間もない1948年に建てられて、その後増築された木造モルタル2階建て。1996年に耐震性などの問題から取り壊され、いまその跡地は24時間のコイン・パーキングになっているそうです。撮影は1995年11月から翌年8月にかけて行われました。つまり、解体される直前から更地になっていくまでの記録です。思わずぐっと見入ってしまうのは、社屋の内部のディテールや、働いている社員たちの表情です。

 見知った顔が何人もいます。編集会議をやったり、それぞれが一国一城の主のようにゲラ(校正刷)や資料、書籍の山に囲まれた、固有のスペースに立てこもって仕事をしています。もともと事務所兼住居として設計されたらしく、崩れかかった物干し台や、炊事場があるのもユニークです。

<定まった就業時刻が終わる頃になると、一人が向かいにある酒屋からビールを買ってきてちびちびやり始める。そこに一人、また一人、さらに印刷所の人も加わり、週に数回は宴会の場になった。わあわあバカ話をしている傍らでまだ仕事をしている編集者もいるが、文句も言わない。微笑ましいというか、いい加減というか>(守田省吾「『みすず書房旧社屋』に寄せて」、同書所収)

 これも「昭和」を感じさせる光景です。第5章では、当時の社長、加藤敬事さんを中心にした編集会議の模様が紹介され、ビールと乾きもの主体の微笑ましい宴会が披露されています。最後は椅子に座ったまま、心地よさそうに眠りこんだ加藤さんの写真です。その加藤さんが社屋について語っています。

<本郷通りを……文求堂の建物の一つ手前で裏手に入ると、みすず書房の旧社屋があった。木造モルタル造り二階建て、普通の仕舞屋(しもたや)風情の、ビルに比べれば小屋と呼んでもいいような建物である。小屋といえば、アメリカの出版人、ジョージ・エプスタインという人(書評誌、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス、通称NRBを起ち上げた)が、その著書『出版、わが天職』の中でこんなことを言っている。「出版は本来、cottage industryである」と>(加藤敬事「すこし昔の話」、同書所収)

 出版業はなぜ“cottage industry”なのか、という理由が引かれています。すなわち、「出版は集中を嫌い、即興的で、人間味のある産業。それには自分の職人技に専念し、自主性を侵すものには用心を怠らず、著者の要求と読者の多様な関心に敏感という、共通の心意気をもつ人々の小さな集団が一番です」というのです。

<そんな小さな集団を容れる器は小屋で十分、あるいはそうでなければならぬというわけである。みすず書房の社屋はまさに小屋であり、そんな集団がそこに住み着いていた。みすずの創業者、小尾俊人も、粗末な社屋にビックリする著者に「精神は新しく、建物は古く」などと威張っていたが、どうだろう、先の引用のようなことが言いたかったのではなかろうか>(同上)

 驚いたのは、この建物を設計したのが芦原義信さんだったことです。1948年といえば、芦原さんは30歳くらい。建築家としての第1作が、有楽町のガード下の飲み屋であり、第2作がみすず書房社屋だという「信憑性の高い」伝説もあるそうです。私が“奇縁”を感じたのは、その芦原さんが後に手がけた出世作のビルで、私自身が2000年まで働いていたからです。『中央公論新社一二〇年史』を見てみましょう。

<……七〇周年を記念して計画されてきた新社屋が、昭和三十一年(一九五六)十一月、現在の京橋の地に竣工を見た。ハーバード大学留学から帰国したばかりの新進の建築家、葦原義信の設計になる地上七階、地下一階の斬新な建物で、後に日本建築学会作品賞を受賞した。葦原義信は、戦後『婦人公論』の編集長を務めた葦原敏信(音楽評論家、葦原英了)の弟である>

 みすず書房の創業者である小尾さんと芦原英了さんとは知り合いだったらしく、その伝手で弟にお鉢がまわったようなのです。後に銀座のソニービル(これも来春、解体されます)や、池袋の東京芸術劇場などを手がける建築家の若き日の作品空間にともに身を寄せたという点で、みすず社員には一層の親しみを覚えます。中央公論社のビルも2000年に建て替えられ、会社の場所もいまや京橋の地を去りましたが……。

 以下は、余談めきますが、仕上げのようにこの本で驚かされることがありました。撮影者・潮田登久子さんのご主人である島尾伸三さんのエッセイが巻末にあります。氏は小さい頃、父である作家の島尾敏雄氏、母であるミホさんに連れられて、妹のマヤさんと4人で、どうやらこの場所を訪れているらしい、というのです。

<東京はどこも焼け野原で国会議事堂が遠くからでも見える、十五年戦争に惨敗した直後でした。父はどこか不機嫌で家族四人での外出に乗り気ではなく、嫌々歩いていました。
 母にせっつかれて、出版社へ原稿料の請求に小岩から都心へ出て来ているのです。三十代半ばの父と母はもつれ合うようにして口喧嘩をしながら数件の出版社を回ったような気がします。いったい、その日どれほどの原稿料を手にすることが出来たのでしょうか>

 後年、みすず書房で仕事をすることになった伸三さんは、指定された社屋を訪ねるなり、「木造2階建てのドアの前で雷に撃たれたような衝撃」を受けました。「終戦直後のあの日に目にしたドアの持つ気配が漂っていたからです」。

 この下りを読んで、こちらも「雷に撃たれたような衝撃」を感じました。というのも、その直前に梯久美子さんの『狂う人――「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社)を読んだばかりだったからです。島尾敏雄氏の不朽の名作とされる『死の棘』(夫の不倫に狂気を発する妻の「比類ない愛」の物語といわれる)をめぐる評伝ノンフィクションの傑作で、島尾家の戦後史をいやというほど強烈に意識に刻まれたところでした。

 11年がかりでまとめられたこの作品は、著者がいったん断念しかかった時期もありますが、取材を再開し、執筆を後押ししてくれたのは、遺族である島尾伸三さんのひと言でした。「わかりました、では書いてください。ただ、きれいごとにはしないでくださいね」――。

「昭和は遠くなりにけり」と思う一方で、まだまだ過去の秘めた生命力に引き寄せられることが多いのも事実です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

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