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随筆 小林秀雄

 この随筆を、私は私の講演経験から始めたが、小林秀雄先生は講演が嫌いだった。なぜ嫌いかについては、昭和二十四年(一九四九)十月、四十七歳の秋に出した「私の人生観」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第17集所収)の冒頭で言われている。「私の人生観」は、講演の速記に手を加えたものである。
 ―私は講演というものを好まない。だから、今迄に随分講演はしましたが、自分で進んでやった事は先ずありませぬ。みんな世間の義理とか人情とかの関係で止むなくやったものばかりです。私が講演というものを好まぬ理由は、非常に簡単でして、それは、講演というものの価値をあまり信用出来ぬからです。
 ―自分の本当に言いたい事は、講演という形式では現す事が出来ない、と考えているからです。私は、書くのが職業だから、この職業に、自分の喜びも悲しみも託して、この職業に深入りしております。深入りしてみると、仕事の中に、自ら一種職業の秘密とでも言うべきものが現れて来るのを感じて来る。秘密と申しても、無論これは公開したくないという意味の秘密ではない、公開が不可能なのだ。人には全く通じ様もない或るものなのだ。それどころか、自分にもはっきりしたものではないかも知れぬ。ともかく、私は、自分の職業の命ずる特殊な具体的技術のなかに、そのなかだけに、私の考え方、私の感じ方、要するに私の生きる流儀を感得している。
 ここで言われている「職業の秘密とでも言うべきもの」、これも前回考えた「微妙な何か」のひとつなのだが、ともあれ先生の講演嫌いは、終生変ることがなかった。だがその一方で、いちど引き受けた講演には原稿を書くのとまったく変らない真剣さで臨んだ。そこには、原稿を書くときの書き言葉、日常生活や講演のときの話し言葉、この二つの言葉をともに決してゆるがせにしないという先生の生き方があった。この生き方こそは、先生が言葉の大河を何度も漕ぎ上り漕ぎ下りして、自ずと身につけた生き方であったのだが、話し言葉については、晩年の「本居宣長補記Ⅰ」(同第28集所収)で、ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉を引いてこう言っている。
 ―この相手こそ、心を割って語り合えると見た人との対話とは、相手の魂のうちに、言葉を知識とともに植えつける事だ、この言葉は、自分自身も、植えてくれた人も助けるだけの力を持っている。空しく枯れて了う事なく、その種子からは、又別の言葉が、別の心のうちに生れ、不滅の命を持ちつづける。
 相手の魂のうちに、言葉を植えつける、小林先生は、常にここに心を砕いた。この、先生の話し言葉にそそいだ誠心誠意が、どれほど多くの人々を動かしたかは、「新潮CD 小林秀雄講演」全八巻の売行きが雄弁に語っているが、先生は、講演だけでなく、文壇のパーティや、賞の贈呈式などでのスピーチも同じ心がけで務めた。大勢の人を前にした挨拶も対話であると言い、予めメモや原稿を用意して、それを読み上げるなどということは絶対にしなかった。前もって用意された言葉は所詮は書き言葉である、話し言葉は、相手の顔色や眼の色に応じて刻々と生気を増し、そうやって相手の魂に根をおろすのだと言っていた。

 その小林先生が、昭和五十五年五月二十七日、岡山で正宗白鳥について話された。七十八歳の年だった。白鳥は岡山県和気郡(現備前市内)出身の作家であるが、志賀直哉、菊池寛とともに先生が最も敬愛した三人のうちの一人で、生家の跡に生誕百年を記念して文学碑が建てられることになり、先生はその除幕式への出席と併せて講演を頼まれたのである。
 会場は、岡山市の市民文化ホールであったが、先生の講演要領をよく心得ている文藝春秋が手伝い、安岡章太郎さん、大江健三郎さんにも講師を頼んで準備が調ったころ、岡山に近い姫路周辺の生まれということで私も先生から同行を求められた。先生は、岡山へ入る前に姫路城を見たいと言われ、私はその案内役を期待されたのである。
 先生の講演は、そのころはどこでも三十分ちょうどで打ち切られるのが常だった。話が佳境であっても、三十分がくれば「じゃ、失敬」と言ってさっさと演壇を降りられてしまうのである。ほぼ毎回、先生は講師団の最長老だったから、登壇はいつも最後とされ、閉会時間は先生のこの講演時間三十分を基準に割り出されていた。
 こうして始まった岡山での講演を、私は会場の最後列で聞いた。先生は、鎌倉からわざわざもってきた「正宗白鳥全集」の一冊をひらき、「花より団子」という白鳥の文章を読んで聞かせたりしながら、三十分が過ぎても楽しそうに語り続けられた。私は、今日は先生の胸中もひとしおなのだと推し量りながら聞き入っていた。ところが、その私の目に、異様な光景が映った。
 広い会場の右手、そして左手、聴衆が一人、二人と席を立ち、両サイドの出口へ向かうのである。小林先生の講演の途中で、席を立つ聴衆がいるなどということは今まで見たことがない。なんという無礼なと不快感を辛くも抑えていたところへ、さらにまた二人、三人と、比較的年配と見える人影が出口へ向かう。私はその影を睨みつけるようにして目で追った。
 そこで私は、息をのんだ。席を立った人影は、両サイドのドアの前までくると先生の方へ向き直り、それぞれに両手を合せ、頭を垂れた。会場の右側でも、左側でも、次々と申し合せたように両手を合せ、しばらくじっと頭を垂れ、ドアを開けて出ていった。
 そうか…。合点がいった。国鉄(現JR)の岡山駅には、山陽本線の上り・下りのほかに、津山線、吉備線、宇野線と三本のローカル線が集まっている。赤穂線、伯備線も加えていいだろう。手を合せ、頭を垂れた人たちは、おそらくはそのどれかに乗って聴きにきたのである。終列車までにはまだすこしあるかもしれないが、帰り着かねばならない在は遠方なのである。あの人たちにしてみれば、断腸の思いの中座であったのだろう。合せた両手と垂れた頭は、小林先生に対する感謝とお詫びであったのだろう。
 先生は、柔和な笑顔を変えることなく、一時間以上、話し続けられた。あの講演が、先生の最後の講演になった。「新潮CD 小林秀雄講演」第七巻で聴くことができる。

(第五回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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