【考える本棚】
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 佐久間文子『「文藝」戦後文学史』(河出書房新社)
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読んで面白い雑誌の通史
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 新たに名前を覚えるというのは、子ども心に楽しみです。友だち、動物、駅、地名……。自分の世界が少しずつ広がっていくような気がするからです。出版社名についても同様です。いくつ目に覚えたのか、河出書房という名前には、おとなの本の響き、ときめきがありました。それと、最初から親しみを覚える別の理由もありました。

 わが家と縁の深かった本屋さんは、河原書店といいました。町の小さな本屋さんで、注文した本を配達してくれました。親切だったその店と、「河」と「書」と2文字も共通しています。好ましいイメージは、そんなところからも来ていました。

 だから、毎回楽しみにしていた河出の「世界美術全集」が、1968年の2度目の倒産騒ぎで尻切れトンボになってしまった時も、あまり怒る気にはなりませんでした。「あそこは前にも一度倒産しているから大変なんだ」と親も呑気な話をしていたものです。

 大学生時代はかなり文芸誌を熱心に読んだほうですが、一番身を入れたのは「文藝」です。本書はその「文藝」80年余の歴史をたどります。なかでも丁寧に紹介されている第4章から第5章にかけてが、わが青春期と重なります。編集長でいえば、寺田博、金田太郎両氏が務めていた頃です。

 出版社に入って、自分自身も編集の仕事に就きましたが、いわゆる文芸編集者になったことは一度もありません。文芸誌の現場とは、残念ながら無縁でした。それでも、関心は非常に高かったので、また作家との個別の付き合いは多かったので、若い頃は機会があると文芸誌の編集者とも交流しました。作家の自宅で顔を合わせたり、通う酒場が共通していたり、「文藝」編集部の人たちとも、いつしか言葉をかわすようになりました。

 飲みっぷりのいい人たちが多かったので、思い出すことには事欠きません。いまふと思い浮かんだのは、「ばあ まえだ」という新宿ゴールデン街の伝説的な店での出来事です。

 ある作家とひと仕事を終えて、一緒に「まえだ」に立ち寄りました。「文藝」編集部の面々が先に来て、当時話題を呼んでいたある新人作家を囲んで飲んでいました。私たちはカウンターに腰かけ、彼らに背を向けた格好で話していました。作家に尋ねられました。「あそこにいるのは誰だっけ?」。新人作家のことでした。しばらくすると私の隣に、その頃すでに河出書房を退社していた寺田博さんがやってきました。ひとりでフラリと立ち寄ったという感じです。

 作家がトイレに立ち、戻ってきたタイミングだったと思います。「文藝」グループのある人が、自分たちがいま一緒にいる新人を紹介したいと、作家に声をかけました。酔ってはいましたが、礼をわきまえたものと思えました。ところが、ひと騒ぎが持ちあがりました。編集者の紹介が始まった途端、作家がいきなりその新人に、「ぼくはあなたの作品を認めない」と言い放ったのでした。何か神経に触るものを感じたのでしょうが、いくらなんでもムチャな話です。“認めない”理由を述べていましたが、ちゃんとした説明には聞こえませんでした。

「文藝」グループで兄貴分の某氏が「**さんともあろう人が、いきなりその言い方はないでしょう」と座の中から立ってきました。そして何か言おうとした時、作家がいきなり相手の胸倉をつかみました。「もう一度言ってみろ」「なにするんですか」となって、揉み合いが始まりました。胸倉をつかんだまではいいのですが、それまでの酔いもあれば、もともと気弱な人なので、足元がぶるぶる震えて、危なっかしい状態です。面喰っている相手も同様でした。

 まぁまぁと席に引き戻し、それ以上の大事には至らなかったのですが、驚いたのはこの時の寺田さんでした。振り向いて悠然と様子を眺めていましたが、「文藝」の後輩たちの反応を見ると、「**の言う通りだ」「そうだ、その通り」「お前たち、もう言うことはないのか」などと煽るものだから、後輩たちは引っ込みがつかなくなったのです。

「どうした、ちゃんと反論してみろ」。物言いは落ち着いた口調でしたが、寺田さんの挑発には、この人の真髄が現われていると感じました。新人作家の、本当に個性や才能を信じているのなら、それを堂々と語ってみろ。それだけの情熱、覚悟は備わっているのか、と凄まじい檄を後輩たちに飛ばしていたのです。

 作家をタクシーに押し込んで家まで連れ帰ったのはほどなくしてからですが、この「まえだ」での一件は、しばらく文壇ゴシップとして面白がって語られました。当然、尾ひれがつきましたが、事件として大した話ではありません。それ以上に、寺田さんが垣間見せた小説、文学に対する信頼と情熱に感銘を受けた夜でした。

「編集者の大事な仕事のひとつは、酒を酌み交わして、人と本気で付き合うことだ」と諸先輩からよく聞かされました。たしかに「夜学」が存在していた時代です。無駄も多いし、それで体を壊す人もたくさん見ましたが、道場破り、他流試合、場外乱闘すべて歓迎の、武者修行的面白さがあったことも確かです。その道場の上席に「文藝」関係者も顔を揃えていました。独特の熱気は周囲を圧する気迫がありました。

 とはいうものの、会社として、河出書房は苦難の道のりを歩んできました。戦争と、1957年、1968年の2度の倒産を乗り越えて、「文藝」という雑誌も幾度の危機を、しぶとく、逞しく生き延びてきました。その悪戦苦闘の足跡を、本書は活写しています。OBのひとりである作家の古山高麗雄さんが「文藝」を評した言葉が紹介されます。

<転変の激しい文芸雑誌である。なにか、奔流に揉まれながら泳ぎ抜き、生き抜いてきたといったような雑誌である>

 著者はこの言葉が「とても好きである。雑誌の八十年あまりを駈け足でたどってみて、言い得て妙だと改めて感銘を受ける」と書いています。

<ひいきめに見ても「文藝」は弱小で、大手の「新潮」「文學界」「群像」に比べると、文壇のメインストリームになることはあまりなかった。それでも、戦後派が活躍した時期や、「内向の世代」が活躍した時期、一九八〇年代の田中康夫、山田詠美がデビューした時期の「文藝」は注目を集め、ほとんど中心にいたと言ってもいいだろう。考えてみれば、戦後派の活動が目ざましかった最初期は戦後の混乱期で芥川賞が実施されていなかった期間にあたり、「内向の世代」が注目された時期、また一九八〇年代初めも、文学の流れが大きく変わろうとしていた。時代の変わり目こそが、小さな雑誌が存在感を発揮できるチャンスだったのだ。
 それ以外の時期に、この雑誌は、もっぱらオルタナティブとしての役割をはたしてきたように思う。海外文学、詩・戯曲、新人。雑誌を売る、という至上命令を課されながら、文学の世界の幅を広げる新しい要素を導入しようと苦闘してきた>

 まったく異論はありません。まさにそれを裏づける明白な証拠(多彩な記事や作品の紹介)を通して、「文藝」という雑誌の性格と魅力、果たしてきた役割を概観したのが、本書です。

「文藝」はもともと1933年に改造社が創刊した雑誌でした。昭和の初めに円本ブームで当てた改造社が当時のキーワードであった「文芸復興」の機運に乗じ、「中央公論」と並ぶ2大総合雑誌だった同社の雑誌「改造」から文芸記事だけを独立させたのが「文藝」でした。

 創刊号には、ロシアの作家ゴーリキーが「世界未発表」の小説「肥大漢」を寄稿するなど、話題性を盛り込んだ船出でした。先行した「新潮」が純文学一本で行くのに対して、「大衆文学への目配りだけでなく、世界の同時代文学を積極的に紹介、映画や音楽など他分野にも関心を広げ」、「幅広い視野に立つ編集方針」がウリでした。

 しかし、戦時中の言論統制によって、改造社、中央公論社は解散を命じられ、昭和19年7月に自主廃業に追い込まれます。「改造」「中央公論」は廃刊、他社への譲渡も禁じられます。

 幸い「文藝」は、河出書房がこれを約10万円で買い取ります。野田宇太郎が編集長となり、昭和20年3月の東京大空襲で社屋を焼失してもなお、戦火の中で細々と刊行が続けられます。横光利一が「火事場の倉の中の一本の蝋燭の焔(ほのお)」に喩えたそうで、「文藝」の孤軍奮闘はもっと知られてよいでしょう。三島由紀夫が終戦直前に出た号で短編「エスガイの狩」という、実質的な文壇デビュー作を発表していることも本書で初めて知りました。

 ちなみに河出書房の創業は1886年(明治19年)5月で、岐阜の書肆、成美堂店主の三男、河出静一郎が成美堂東京支店として開設し、明治21年に本店から独立しています。河出書房を名乗るようになったのは、昭和8年に入ってです。

 戦後も、経営基盤の弱さから5年弱の休刊、何度かの誌面刷新など、平たんな道のりではありませんでした。しかし、杉森久英、巌谷大四(だいし)、坂本一亀(かずき)、竹田博、寺田博、杉山正樹、佐佐木幸綱といった歴代編集長が知恵を絞り、汗を流し、独自の文芸路線を切り拓いてきます。

 なかでも「文藝」復刊の際の編集長である坂本一亀は、野間宏、椎名麟三、三島由紀夫、中村真一郎、埴谷雄高、武田泰淳、小田実、高橋和巳ら、いわゆる戦後派作家をそれまで手塩にかけて鍛えてきました。

<坂本一亀が「文藝」の編集長であったのは、二年たらずの短い期間であるが、彼はその間に中身の濃い凝縮した仕事を残した。四十年以上前、まだその名が知られていない新人の丸谷才一、辻邦生、山崎正和、黒井千次、日野啓三、竹西寛子などが、すでに誌上に足跡を残している。類い稀なる大努力家だった彼は、寸暇を惜しんで同人雑誌を読みふけり、作家の卵たちを集めて、毎月「文藝」新人の会を開き、意見交換を行っていた。坂本一亀はそうした交流のなかで、刺激しあい、競いあう彼らの将来を期待し、次代を担う若者たちに夢を賭けたのだろう。坂本一亀は文学への高い志を抱き、愚直に夢を追うことの出来た時代の最後の編集者だったといえよう>(田邊園子『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』、作品社)

 新人発掘――これが最重要のテーマでした。坂本は、有望と目をつけた新人には長編小説を書くよう熱心に口説きます。たとえば、その一人である辻邦生は、「坂本一亀に激励され、威嚇され、叱咤されて」、三年半の歳月をかけて初期の代表作を書き上げます。ところが、その原稿はさらに3回、書き直しするよう命じられます。「全身全霊をかけて、つねに精魂こめて」仕事に邁進したのが、坂本でした。

 社の部下に対しては軍隊式そのままに「今日中ニコノ原稿ヲ読ム! イイナ!」「読ンダラ感想ヲ付ケテ出ス!」「俺ノ命令ダッ!」「言ウ通リニシロッ!」と問答無用の編集長でした。「ワンカメ(一亀)の石頭にはほとほとまいる」といつも激しい応酬をかわした井上光晴とは、酒場でよく怒鳴り合い、取っ組み合いとなりました。坂本が、あの坂本龍一氏の父だと聞いて、ビックリする人が多いのも無理はありません。

 こういう特異な鬼軍曹がいるかと思えば、先の寺田博さんのように悠々とした風格をたたえながら、作家のすべての著作はもとより、新人の応募原稿もかじりつくようにして読み込んで、赤ペンを握り、真剣に作家と向き合った“全身編集者”たちの系譜がそれに続きます。そうした「文藝」の伝統と、社会や時代の流れが絡み合い、不安定な経営環境のもと、文学の有効性を信じ、雑誌の存続を模索していった編集現場の格闘ぶりが詳述されます。文学誕生の熱気を伝えつつ、こうして生まれた作品の優れたブックガイドになっている点も本書の大きな魅力です。

 いまから30年前、「中央公論」100周年を機に、過去の記事を読み解く作業を私も経験したことがあります。途中で音を上げそうになるくらい骨の折れる仕事でした。ともかくおびただしい量の紙の蓄積と、そこにこめられた熱量の凄まじさ――。

 著者はその煩雑な作業をこなす一方で、周辺の資料(編集者が書き残した回想録、業務日誌など)にも丹念に目を通し、OBや現役の編集者たちへのヒアリングも重ねています。さらに、その事実に押し潰されることなく、独自の観点で、雑誌の通史を描きます。

 読んで面白い戦後文学史として、いまの読者の関心に訴えるお勧めの労作です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)