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長崎ふかよみ巡礼

 原爆で焼け野が原となった浦上周辺は、「70年は草木も生えぬ」とささやかれていたが、戦後10年を迎えるころには、平和公園や国際文化会館、大橋球場などの大型施設が完成し、ひととおりの町並みがよみがえった。
 全市的なインフラの整備が進む一方、基幹産業である造船業の景気も上向きはじめる。高度経済成長によって、石油輸送タンカーの需要が急増したのだ。三菱長崎造船所の進水量は、1965年から1976年まで12年連続世界一を記録し、1972年には長崎港外の香焼(こうやぎ)島に100万トンドックが完成するなど、空前の造船景気に沸いた。

 高度経済成長はまた、観光ブームをもたらした。1958年にグラバー邸が一般公開され、大浦天主堂や周辺の洋館群、眼鏡橋、平和公園、稲佐山などに多くの観光客や修学旅行生が訪れて、「異国情緒あふれる観光地」のイメージが確立する。
 夜の町も賑わった。江戸時代に輸出用の銅を鋳造していた「銅座(どうざ)」跡から、花街・丸山入り口の「思案橋(しあんばし)」にかけては、戦後の闇市から歓楽街に姿を変え、何軒ものグランド・キャバレーが繁盛した。1969年、高級店「銀馬車」の専属バンド「内山田洋とクール・ファイブ」が『長崎は今日も雨だった』でデビューし、全国的な大ヒットを飛ばす。その前後にも、『思案橋ブルース』『長崎の夜はむらさき』などの歌謡曲が、数多く作られた。

闇市の名残をとどめる思案橋の飲食街。数年のうちに一部撤去予定

 戦後から昭和40年代にかけ、めざましい復興と発展を遂げたように見えた長崎だが、1973年のオイルショックでは、造船業が大打撃を受け、「特定不況地域」に指定された。三菱長崎造船所はその後、客船へ活路を求め、「クリスタル・ハーモニー」や「ダイヤモンド・プリンセス」などを生み出したが、2016年には大型客船事業からの撤退を発表する。各種発電プラントや燃料輸送船、中小型の客船製造は数年分の受注を確保しているそうだが、人員整理や合併による事業移転の可能性もあり、不安の声も上がっている。
 企業城下町としての長崎は、近代化とともに始まり、原爆という最悪の事態に行き着いた。戦後は、家庭用の鍋や釜、小型船の製造から再スタートし、タンカーや客船などの“民需”を中心に、現在に至っている。
 その一方、造船所では自衛艦も造られている。もはや三菱なき長崎を想像することは難しいが、この町の過去と現在の社会情勢を思えば、ふたたび軍需工場が並び、それによって攻撃を受けるかもしれない“危うさ”とは、いつも隣り合わせだ。

女神大橋から長崎の町を望む。港に面したエリアは大半が造船関係の工場

 観光も、全国的な不況や、旅行先の多様化で低迷した。バブル期の地方博やテーマパークのブームに乗じたこともあったが、従来の定番観光地を見物するだけのスタイルは、限界を迎えた。
 その打開策として、2006年に開催されたのが「長崎さるく博‘06」である。様々なテーマに沿って町を「さるく(歩いてまわる)」ことで、長崎の暮らしや歴史を実感できると好評を博し、その後も定着した。たった4キロ四方の長崎市中心部だけでも、常時40ほどのコースが設定されており、あらためて、長崎の歴史の豊富さに驚く。→長崎さるくHP

 人気があるのは、居留地や出島、唐人屋敷跡、坂本龍馬や近代化遺産、原爆についてのコースである。長崎では、龍馬や近代化は居留地の歴史と重なるので、この町には依然として「異国情緒」が求められているようだ。

 しかし長崎は、そんなに“異国”だろうか?

 あらためて歴史を振り返ってみよう。
 中世の終わりに、南蛮船がやってきてキリシタンの町が開かれ、近世に入ると禁教の嵐が吹き荒れ、鎖国してなお国際貿易港であった。開国とともに近代化したが、軍需都市となって原爆の標的にされてしまう。二十六聖人の殉教や信徒発見も、世界史に刻まれる大事件だ。
 表面的には、異国や異文化との接点だったことが、この町の歴史の大きな部分を占めているし、その現場が観光地ともなっている。あまりに大きく重いできごとが多いから、それがまた、特別な印象を与えているかもしれない。
 和を以て尊しとなし、均質を旨とする国と人々が、異質なものに接すれば、当然、動揺や矛盾が生じる。外国、キリスト教、それらを拒んでなお確保したい貿易や学術などが、ひとまず西の果ての町に寄せられた。ほかの土地への影響を、最小限にとどめておく水際だったのである。それゆえ、時代を象徴し、体制の根幹に関わるようなことが、長崎には起こり続けてきた。
 さらにそれは、過去の長崎だけの問題ではない。

 禁教の歴史は、信仰ゆえに迫害される人々の苦しみや、弾圧の残酷さ、異なる価値観を許さない社会の恐ろしさを教えてくれる。鎖国や原爆の歴史は、人々の生活よりも、為政者や国の都合のほうが優先される息苦しさや、それが高じた先にある戦争や核兵器の愚かさを伝えてくれる。
 長崎が“異国”に見えるのは、この国が消化できなかったものや、人間そのものが抱え持つひずみが、極端な形で、具体的に存在するからだ。あまり深く見つめていると、考えたくなかったことまでが浮かび上がってくる。異国情緒のベールがかかっているくらいが、ちょうどいいのだろうが、長崎の真価は、その先にこそ、あるはずなのだ。
 
 修学旅行で行ったきりの長崎、異国情緒だけと思っていた長崎を、ふたたび巡り歩いてみてほしい。この町に生きた人々の声なき声が、きっと大切なことを教えてくれるだろう。(終)

 
(写真 ©Midori Shimotsuma)

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

下妻みどり

しもつま・みどり 長崎のライター。1970年生まれ。著書『長崎迷宮旅暦』『長崎おいしい歳時記』『川原慶賀の「日本」画帳』。TVディレクターとして長崎くんちを取材した「太鼓山の夏〜コッコデショの131日」は、2005年度日本民間放送連盟賞受賞。


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