前回、背景に似せる隠ぺい擬態系の虫や、それを野外から見つけ出すのが如何に面白く、見つけた時に気分がスカッとするかについて延々述べた。こうした、いわゆる「擬態する虫」に関して面白いのは、明らかに何かに似せた姿なのにも関わらず、自身はそれを反映した振る舞いを全く見せない種の「まっこと多い」ことだ。

 初夏に長野の雑木林にいくと、しばしば樹間に妙な芋虫がへばりついているのを見る。クロミドリシジミの終令幼虫だ。このチョウの幼虫は、若令期はクヌギの大木のかなり高い辺りの葉にいるが、蛹化が近づくにつれて、幹を伝って日に日に低い所に降りてくる。最終的に地面に降りて、落ち葉の裏に張り付き蛹になる訳だが、例年なら長野中信地域辺りでは、5月の第三週目には人間の目線の高さまで降りているのが見られるだろう。彼らは夜行性で、特に終令期だと日中は樹幹に張り付いたまま微動だにせず、日没後に木の葉先まで行って葉を食べる。そして翌朝にはまた樹幹の、昨日いた高さより下の方に戻るという面倒くさい動作を、完全に着地するまで続ける。

クロミドリシジミの幼虫。クヌギなどの木の、皺と皺の間にはまり込んでいることが多い。成虫は限りなく夜行性に近いという、変わった習性のチョウ。


 このチョウの終令幼虫は、薄い青緑色と黒のごちゃまぜになった独特の模様をしている。その色は、まるでこの虫がへばりつくクヌギの樹幹に高頻度で付いている地衣類の模様そっくりなのだ。もし、こいつが地衣類の上にいたならば、見事な隠ぺい擬態となり、絶対に敵の目には止まらないだろう。ところが、この虫が定位する場合は、決まって地衣類のない幹の表面。だから、いる場所に行って探せば、簡単にそこにいるのを見つけられてしまうのだ。

 同じことが、ガにも言える。やはり長野の裏山には、ウスアオキリガというガが棲む。大理石のような美しいゴマダラ模様で、樹幹の地衣類の上に止まると見事に紛れて発見は至難となる。このガは成虫越冬で、樹幹などに静止したまま動かずに冬をやり過ごす。その過程で地衣類の生えた樹幹に止まることもあるが、一方で全く地衣類のないツルッとした所で越冬する場合もある。だから、そういう場所に止まっている個体は一瞬で見つかる。このガにせよクロミドリシジミにせよ、自分が地衣類に似た姿であることを、虫自身は明らかに理解していないのだ。

ウスアオキリガ。石灯籠に取りついて越冬中の個体。
樹幹に着生した地衣類。

 ただ、こういう虫が目立つ所にいて、鳥などの天敵に見つかったとて、その天敵がその虫を虫と認識するとは限らない。天敵は昆虫学者ではないから、無地の背景に一匹佇むクロミドリシジミの幼虫を、たまたま千切れた地衣類の断片にしか思わない可能性もある。翅を畳んだウスアオキリガもクロミドリシジミの幼虫も、パッと見は典型的な昆虫の姿をしていないため、天敵はこれらを無生物と認識し、スルーすることが多いのかもしれない。それならばわざわざ背景に紛れる必要が無いということで、彼らの振る舞いの無頓着さについても辻褄が合う感じがする。

 東南アジアに、ハナカマキリという有名なカマキリがいる。外見がランの花そっくりな姿をしており、特に幼虫期の外見は花そのものにしか見えず、とても美しい。ひと昔前の、外国産昆虫を紹介するような図鑑を見ると、このカマキリがランの花の上に止まって獲物を待つ写真が高頻度で掲載されている。これを見て、ハナカマキリという虫の存在を知る日本人は10人が10人、この虫は花に紛れて獲物をとるために花に似せたのだと皆思う。しかし、実はこれら写真は全部ヤラセと思っていい。当時、写真家が自力で広大なジャングルの中から、限られた現地滞在期間内にハナカマキリを見つけてくるなど、まず不可能だった。私もこの10数年間、散々東南アジアに行っているが、野外で生きたハナカマキリを見たことなんて2回きりしかない程だ。とにかく生息密度が薄く、現地にずっと住んでいるような人でなければ、そうそう見つける機会のない虫である。だから、写真家はあらかじめ現地人に頼んで、撮影用のハナカマキリを捕獲のうえ生かして確保しておいてもらう。東南アジアの田舎に行くと、ペットや標本用に虫を捕まえて外国人に売る生業をしている者たちがいるのだ。彼らはそれ故、勝手に他所の奴らに商売道具を乱獲されたら嫌なので、外国人に虫は渡すが、それがどこでどのようにあったものか等の情報は決して教えない。だから、虫だけポンと渡された写真家は、本来どういう環境にいるかもわからないその虫を、いかにも自然の中で偶然見つけるべくして見つけたかのように撮影せねばならなかったのだ。そんな状況下、東西南北どこからどう見てもランの花そっくりの虫を自然っぽく撮影するとなれば、ランの花に乗せるのは致し方ないやり方だったに違いない。なお、実際にハナカマキリが自然下でどう過ごしているかというと、花も何もない緑の葉上に、ただ無造作にいるらしいことが近年わかってきた。何せ花そのものの姿なので、ただ一匹で緑の葉上にいるだけで一輪の花になり切れるのである。だから、そこに何もせず止まっていさえすれば、天敵の目は誤魔化せるし、獲物のチョウやハチは勝手に花と勘違いして向こうから来る。実に素晴らしい生き様。

ハナカマキリ。タイにて。夜間灯火に飛来した個体。そこは周囲にランの花など一輪も咲いていない場所だった。


 と、ここまで私は文章中において、軽々しく擬態擬態と連呼してきた。しかし実のところ、人間の目から見てある生物が何かに似せているように思えても、それが本当に擬態している(つまり自然下でそれを捕食している立場の天敵をちゃんと騙せている)ことを実験的に証明するのはとても難しいのである。例えば、ムラサキシャチホコというガがいる。全国の裏山に比較的普通にいるガで、長野の裏山でもよく見かけたものだ。このガ、近年インターネット上で擬態生物の好例として取り上げられることがある。それは、このガの翅に見られる奇妙な模様のせいである。このガの前翅には、赤紫と黄色がおりなす絶妙なグラデーションの模様が描かれている。それが、しおれてクルッとカールした枯葉を立体的に再現したような絵に見えるのだ。このガが枯葉の積もった上に翅を畳んで止まると、元々枯葉じみた体形なのもあいまって、本当に枯葉そっくり。ちょっと目を離せば、もうどこにいるかわからない。なので、皆が一様にこれは枯葉に擬態したガだと言っているわけである。 

ムラサキシャチホコ。灯火に来た個体。


 しかし、本当にそうだろうか。私はこのガの有様を擬態と呼ぶのに、筆舌に尽くし難い抵抗を覚える。単に想像力豊かな人間側の、空想の産物にすぎないのではないか。まず、上述のシジミやキリガの例に違わず、このガは自分が止まる場所に関して全く無頓着だ。たまたま枯葉の上に止まることもあるだろうが、民家の白壁や、緑の枝葉に止まっている様を見つけることの方が断然多い(なお、ネット上でムラサキシャチホコを検索して出てくる落ち葉の上の写真の大半は、最初壁や街灯などに止まっていた個体を撮影者が面白がって置いて撮ったヤラセと考えてよい。広大なフィールドの落ち葉の上から、元々落ち葉の上にいる落ち葉そっくりな虫を探し出せる人間などそういるはずがないから)。また、このガの発生が主に新緑から夏にかけてであるのも引っかかる。枯葉の季節とは程遠い。これを見た天敵が、実際にこれをカールした枯葉だと思うのか否かは、限りなく怪しく思えてくる。これは上述の、人間の目には地衣類に見える虫に関しても言えることだ。このガを全く枯葉と関係ない所に止まらせて遠目に見ると、言うほどは枯葉に見えないと私は思う。ある人間が「枯葉っぽいな」という色眼鏡で最初にこの虫を見てしまい、それに感化された人間たちが実際にそれを枯葉の上に乗せてみることで「やっぱり枯葉そっくりだ!」と、自己暗示をかけてしまっているに過ぎないのではなかろうか。私にとってムラサキシャチホコは「擬態の好例」ではなく、「ぱっと見何かに似ていても、その生態も考慮せず安易に擬態と呼んではならない戒めの好例」である。

 そういえば、以前アフリカのカメルーンの奥地に滞在したことがある。夜、ここの宿舎の玄関の灯りに、見た目が折れ枝そっくりのガが多数飛来するのを見た。このガの仲間は、翅を畳んで止まると円筒形になり、茶褐色の翅の色や胸部が白っぽいのもあいまって、折れて断面の見えている小枝のさまを精巧に似せているとしか思えないのだ。ところが、このカメルーンの宿舎周辺には多くのニワトリが放し飼いされているのだが、彼らは明け方、宿舎玄関の壁の低い所に止まるこの折れ枝ガを片っ端からついばんでいく。ニワトリは、この単なる小枝にしか見えないブツをちゃんと餌の昆虫であると認識できているのだ。面白いことに、壁にいるガを枯葉や落ち枝の散らばる地べたに置くと、ニワトリはそれを発見出来ない。ガの側がちゃんと自分の止まる場所さえ選べば、天敵を上手くやり過ごすことは可能なのだ。それなのに、その止まる場所選びの無頓着さ故、灯火に飛来したガの大半はニワトリによって皆殺しにされていた。いろんなものに無造作に止まる中、たまたま枝や枯れ葉に止まった時だけ敵から見逃して貰える程度の模様や形を、擬態と言い切ってしまうのはおかしいだろう。だから、この一見巧妙に折れ枝に似せた姿と言うのは、実際には擬態でもなんでもなく、ただ人間がこれを見て擬態と思いたいだけなのではないだろうか。

枝そっくりなガ。カメルーンにて。ヤガかシャチホコガの類で、明らかに複数種いた。見た目は枝そのものだが、ニワトリには虫であると完全にバレている。


 巨大ガとして有名なヨナグニサンの前翅の縁には、黄色い部分があり、これがヘビの横顔そっくりだという俗説がある。このヘビを見せ付けて、天敵の鳥を追い払うのだという話が、しばしば薀蓄本の類にも書かれている。しかし、この話に関しても誰かが実際に本物の鳥を使い、統計にかけられる程の例数を観察の上検証したことではない。個人的には、これも人間が単に擬態していると思い込みたい故の「作られた擬態」に過ぎないと思う。そうであった方が、物語として面白いからだ。なお、私はヨナグニサンという虫の存在自体は2歳位の頃から知っていたが、かなり最近になって人に言われるまで、このガの模様にヘビが混ざっているなどという発想自体浮かばなかった。先入観や知識のない相手が見て、直感的に「あっ似てる」と思わしめることが出来なければ、それはもはや擬態の用をなさない代物であろう。

ヨナグニサン。タイにて。世界最大級というが、それは翅の面積の話。胴体部の長さだけ見れば、これより遥かに翅面積の狭いスズメガ類でずっと大きい種がいる。


 自然界に存在する生き物達の多彩な形態や色彩を見ると、我々は必ずそれらに何らかの意味や理由を見出そうとする。もちろん、大半はちゃんと意味があるからそうした性質が現在にまで受け継がれてきた結果なのだが、全てが全てそうとは限らないんじゃないかと私は腹の内で思っている。かつては意味があったが、その後の色んな状況変化によって今では意味をなさない代物になってしまい、かといってそれのせいで著しく生存に不利になるわけでもなく、無意味にそのまま残り続けてしまっているとか、そういう例が絶対ないと誰が言いきれるだろう。
 日本全国津々浦々に、本町(ほんちょう、ほんまち、もとまち)という地名がいくつも存在する。私は幼い頃、どうして地理的・文化的に全然脈絡のないそれら地域で全く同じ字面の地名がつくのか、不思議で仕方なかった。何か神の大いなる意志で、それら地域間の人々が交信し意思疎通し合った結果なのかと疑いさえしたほどだ。でも、別に北海道札幌市東区の本町と宮崎県延岡市の本町は姉妹都市な訳ではないし、新潟県長岡市の本町と大阪府河内長野市の本町は、お互いに念力で通じ合って同じ名前にしようと協議した訳でもない。単に、誰もが思いつくような安直な地名だから、全国各地で各々が勝手に思いついて付けた結果に過ぎず、大いなる意志に全国各地の住民たちが突き動かされた結果ではない。全国に本町が無数にあるのは単なる偶然であって、それ自体には何の意味も脈絡もない。世の中に数多存在する事象全てに対していちいち相関や意味を見出そうとし続けたら、私は頭が爆発してしまいそうだ。だから、私はしばしば「人けのない森の中で怪しい声を聴いた、謎の光を見た」という者に対して「ああそれは時期と場所から推測すると繁殖期のフクロウの声で、それは水辺環境がない森林地帯と言う環境から考えてヒメボタルかマドボタルの光で……」と答える学者気取りの者を見ると、何だか残念な気分になる。自分だって学者の範疇だし、学者を名乗る以上自分も人から聞かれたらしばしばそう対応するのだが、でも心の中では無理に何でもかんでも理由や説明を付けず、ただ一言「妖怪だ」と言ってみたいのが本音なのである。

 ラノベアニメの話から始まり、特殊能力使い、昆虫の隠ぺい擬態、人間の思い込みにまつわる認識の問題から本町の謎、妖怪と、わらしべ長者並みに話の紆余曲折を展開してしまった。最後に、私が一番推しているラノベアニメが『デート・ア・ライブ』(作・橘公司、富士見書房)であることを記してから、私はこの文章を保存してパソコンの電源を切り、これから溜まった録画アニメの消化に移るとしよう。