希少だった色材

 これまでに取り上げてきた、歴史を動かす原動力となった材料は、大きく2つに分けることができる。ひとつは、セルロースのように世界のどこででも多量に手に入り、様々な用途に幅広く用いられたもの。そしてもうひとつは、絹糸のように、産地も産出量も限られていながら、その優れた性質・性能のゆえに誰もが手に入れたがり、人々の欲望を刺激することで歴史を突き動かす力となったものだ。

 我々の生活を彩る染料・顔料などの色材は、後者に属する――と言ったら、意外に思われるだろうか。だが、鮮やかに衣服や生活空間を彩り、感情を表現し、儀式や権力を表象するのに必要不可欠な色材は本来希少であり、古い昔から誰もが求めてやまぬものであった。安価で彩り豊かな製品に囲まれて暮らす現代人には、その渇望ぶりは想像しにくくなってしまっている。

色とりどりの顔料(Dan Brady / Wikipedia Commons)


 何しろ色材は、木材や土などと異なり、簡単にそこらから拾い集めてきて使うというわけにはいかない。自然界に色彩は満ち溢れているものの、たとえば木の葉の緑を抽出し、布を鮮やかな緑に染めることは難しい。美しい昆虫や鳥の羽は手に入っても、その色を陶器や紙の上に移し変えることはできない。鮮やかに発色し、しかも他のものを染め上げる力を持つ物質は、ごく僅かなのだ。

 また色材は、利用範囲も限られる。紙でもガラスでも陶器でも、これひとつあれば何でも青く染め上げられるといった、便利な色材は存在しない。従って、色を創り出す材料について語るときは、これまでのように単一の物質名を挙げるわけにいかず、ある程度各論的にならざるを得ない。

 あらゆる色のあらゆる色材について書こうとしたら、とても一冊の本にはまとめきれない。ここでは、代表として赤色の色材について取り上げてみることとしよう。

はじまりの色

 色鉛筆や絵の具のセットを開けてみると、左端はたいてい赤色が占めている。折り紙のパッケージでも、一番上は金色か赤だ。セットによって、その他の色の順番が多少変動することがあっても、赤のトップバッターの地位はまず揺るがない。

クーピーペンシル(Tomomarusan / Wikipedia Commons)


 赤は、何よりも目につく色だ。多くの哺乳類は、光に反応する「錐体細胞」を2種しか持たないが、人間の眼は赤・青・緑の光に反応する錐体細胞を持つ、「3色型色覚」だ。これは、緑色の木々の中から、赤やオレンジの木の実を見つけるために進化したと考えられている。赤色をはっきり感知して敏感に反応できることは、我々の祖先にとって死活問題であったのだ。現代でも、赤色が警報や重要事項の表示に使われるのは、この名残だろう。

 また赤は血の色であり、炎の色でもある。このため、古くから赤は生命力の象徴であり、争いを想起させる色でもあった。さらに多くの民族が、大地の色として赤を連想するという。たとえば聖書において、神が土から作った最初の人間であるアダムの名は、「人間の大地」を意味するadamaと、「血」を意味する「dom」から来ている。ラテン語でも「adamus」は、「赤い土で作られた」という意味だ。赤色は生命の色、はじまりの色であり、他のどんな色より力を持つと考えられたのも必然であった。

 このため、現在でも多くの部族で、赤は特別な儀礼の際に用いられる。もちろん日本でも、祝い事の際には紅白の横断幕を張り、赤飯を食べることはご存知の通りだ。赤を身にまとい、体内に取り込むことは、特別な力を取り入れて身を守り、今後の困難に立ち向かう勇気を得ることだったのだ。

熊本県藤崎八旛宮秋季例大祭の飾り馬(パブリック・ドメイン)
クリスマスのサンタクロース(Ben Kidlington / Wikipedia)


 また、赤は神の世界につながる色ともみなされる。美しく貴重な色である赤は、権威の象徴でもあった。カトリックにおいて教皇を補佐する役目を持つ枢機卿は、緋色の衣をまとう。人類の歴史を通じて、赤に対するニーズは常に高かったのだ。

鉄の赤

 では具体的に、どのようなものが赤色の色材として用いられたのだろうか? おそらく最も古くから世界各地で用いられてきたのが赤土、すなわち酸化鉄(III)(Fe2O3)の色だ。以前取り上げた通り、鉄は地球に最も豊富な元素であり、その大半は空気中の酸素と結びついて酸化鉄として存在する。従って赤土は世界中に分布し、無尽蔵といえる量が手に入る。

 色材のうち、水やアルコールなどに溶かして、布を染めるのに使うものを染料、水などに溶けず、不透明なものを顔料と呼ぶ。インクや食紅は前者、油絵の具などは後者だ。赤土は、人類が史上初めて手に入れた顔料であった。赤土は鮮やかな赤というより赤褐色に近い色合いだが、不透明で下地を覆い隠す力が強く、色あせもしないという特徴を持つ。

アルタミラ洞窟の壁画〔複製〕(MatthiasKabel / Wikipedia Commons)


 赤土を彩色に用いた最古の例は、35万年ほど前に遡るという。紀元前4万年ごろには、黄土を加熱焼成して赤土に変える技術も開発されていた。約1万5千年前に描かれたアルタミラ洞窟の壁画にも、赤土の色が広く用いられている。これらが色あせもせず、現代の我々の鑑賞にも耐えているのは、この赤色顔料の比類ない堅牢性によるものだ。

 酸化鉄を用いた赤色顔料は、日本では弁柄(ベンガラ)と呼ばれる。これは江戸時代に、インドのベンガル地方からこの顔料が輸入されていたためだ。日本でも、寺院や神社の鳥居は古くからこの弁柄で彩られてきた。赤色の塗り物なども、弁柄を混ぜた漆で彩色されていることが多い。要するに我々が「日本的な赤」として思い浮かべる色は、この弁柄の赤なのだ。もっとも現代の弁柄は、赤土から採取するのではなく、鉄から純度の高いものを化学合成し、製造するようになっている。

弁柄で彩られた首里城(663highland / Wikipedia Commons)
 

人体を彩る赤

 赤土はこうした用途だけではなく、人々の体を彩色するのにも使われた。人体に塗るには、発色性や耐水性に加え、毒性がないことも必要だが、幸いにして弁柄はこの要求をもよく満たす。このため、古くから口紅にも用いられてきた。

様々な色味の口紅(ookikioo / Wikipedia Commons)


 たとえば、口元に赤い色素の痕跡が付着した、約7万年前の人骨が発見されている。これは、口から侵入する悪魔を祓うなど、宗教的な意味があったと推測される。紀元前1150年頃のエジプトのパピルスには、長い口紅で唇を彩る娼婦が描かれている。エジプトのそれは、赤土(レッドオーカー)を、動物の脂などで練ったものであった。

 口紅の歴史は古く、紀元前3000年ころにはシュメール人が棒状の口紅を使用していたとされる。ルビーなどの宝石を砕いて固めた、非常に贅沢なものであったようだ。ギリシャ時代には、同じ紅で唇と頬を彩色し、頬紅と白粉(おしろい)でグラデーションを表現するといった、高度な化粧技法が発達した。桑の実や海藻などから得た色素に、人間の唾液や羊の汗、ワニの糞などを加えて練ったものが用いられたというから、美の追求もなかなか楽ではない。

赤眉の乱

 赤く彩られるのは、何も女性の唇ばかりではない。眉を赤く染めた一団が、歴史をひっくり返したケースもある。中国史上に名高い、赤眉の乱と呼ばれる反乱劇がそれだ。

 今から2000年ほど前、琅邪(ろうや)郡海曲県というところに、呂母(りょぼ)という老婆がいた。しかしある時、県の役人が彼女の息子を微罪で捕らえ、処刑してしまった。悔しくてならぬ呂母は、酒造りで蓄えた財産を投じて近所の若者を集め、武器を買い揃えてゆく。西暦17年、呂母たちは復讐を決行、役人を血祭りにあげて息子の仇討ちを果たした。宿願を果たした呂母はほどなく亡くなったが、集まった若者たちはこのまま解散というわけにはいかなくなっていた。

 このころ、王莽(おうもう)という人物が約200年続いた漢王朝を乗っ取り、新という王朝を立てていた。しかし彼は現実を見ない政治を敷き、人々の不満は頂点に達しようとしていた。呂母のもとに集まった若者たちは、西暦18年に反乱の狼煙を上げる。時流とは恐ろしいもので、私的な報復を果たすためだったはずのこの集団に、たちまち十万という人数が合流した。彼らは敵味方を区別するため、眉を赤く染めるようになる。このため、この集団は赤眉(せきび)軍と呼ばれた。

王莽(前45-後23年) (パブリック・ドメイン)


 眉を染めるための塗料には、孔子廟に使うためのものを奪って用いたというから、おそらくは先に出てきた弁柄であったのだろう。それにしても、彼らは衣服でも髪の毛でもなく、なぜ眉を染めたのだろうか? 塗料が少量で済み、目立つからということもあっただろうが、ここには呪術的な意味合いもあったのではと思う。

 漢字学者・白川静博士は、「眉」という漢字は、呪術のために眉飾りを着けた様子の象形文字であると述べている。眼から発する呪力を強めるために、眼の周囲に隈取りなどを施すことがあり、そのような巫女(ふじょ)は「眉」に女偏をつけた「媚」という字で表された。「媚」の文字は、もともとは人を惑わせる「まじない」という意味であったものが、やがて「男性を魅惑するなまめかしい女性」という意味になり、さらに「媚びへつらう」という意味に転化していったのだろう。

 赤眉軍が眉を染めたのも、敵を呪い、脅すためではなかっただろうか。実際、赤い眉毛の異様な集団に襲われれば、それだけで相手は思わずすくみ上がってしまうだろう。単なる気のせいではない効果が、赤く染められた眉にはあったはずだ。

劉秀(前6年-後57年) (パブリック・ドメイン)


 結局、王莽は赤眉の乱を抑えることができず、彼の新王朝はわずか15年で滅亡の憂き目を見た。この混乱を収拾した劉秀(光武帝)が皇帝の座に就き、後漢王朝を開くこととなる。反乱軍の眉を染めた赤い塗料は、世界史を大きく動かしてみせたのだ。

後編へつづく