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 一月から過酷な寒さが続いている。ヴェネツィアの北岸には、とうとう流氷まで着いた。夕方から干潟に雪が舞い始め、闇の中に白く浮かび上がったヴェネツィアは黄泉の国のようだ。 
 「水が枯れている間は、アルプスに雪が降らない。冠水となれば、雨や雪が降るぞ」  
 離島の漁師が言っていた通りとなった。
 冠水に町が沈むこの厳寒期には、ボーラと呼ばれる北東からの強い季節風が吹く。ギリシャ神話の四人の風神のうちの、北風の神ボレアースから名付けられた。
 クロアチアのラブ島あたりで、ボーラは発生する。アドリア海を北上しながらさらに力を溜め込み、一気にイタリアやトルコ、ギリシャへと吹きおりてくる。雪の一夜から雨に変わったヴェネツィアに、このボーラが吹き荒れた。干潟まで着くと冬の風は分かれてとぐろを巻き、路地へと吹き込む。両方向から流れ込んできた風がぶつかり、唸る。ヴェネツィアの冬の慟哭だ。
 溶け始めていた雪は橋や路地を覆ったまま一瞬にして凍り、町ごとスノーグローブに閉じ込めたような景観だ。
 漁師に、以降の天気予報を訊く。
 「これから五、六日間、ボーラは収まらないな」
 重いブーツに履き替えて、電車に乗った。国境トリエステに行くのだ。

 トリエステは、イタリアの北東部にありスロベニアとの国境を成す。複雑な歴史を背負っている。山側からも海側からも多数の民族が通り抜け、侵略し、統治し、奪略し、繁栄した。イタリアだがイタリアではない。住んでいる人たちも、他のイタリアの人たちもそう見ている。ヴェネツィアから直行電車もあり、二時間ほどの距離だが、遠い地だった。
 <風が吹いたら、行ってみよう>
 トリエステには、時速一五〇キロメートルにもなるボーラが吹く。簡単には歩けず、広場や主要な通りには飛ばされずに歩けるように伝い綱が張られる、と聞いていた。
 ラブ島出身の友人は、
  「生まれたてのボーラが島から海へ駆け抜けていくときに、根こそぎ引き抜いてくる木々がまるで爪楊枝のように空から降ってくるのよ」
 自慢げに言った。
 今吹き続けているのは、雨や雪混じりの<黒い風>ではなく、晴天の中を吹く<明るい風>だという。

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 ヴェネツィアから国境に近づくにつれて、車窓の眺めも車内も次第に異国化していく。そもそも乗客の身づくろいが、南極探検隊並みだ。女性はおしなべて黄色に近い金髪で、どことなく化粧の仕方が古い。あまり明るい表情ではなく、すぼめた口で早口に話す言葉はスロベニア語か。クロアチア語か。途中、黒々した地面に枯れ木の林が続く一帯の駅で、一人降り、二人降り。
 がらんどうの急行電車がトリエステに着く。風圧で電車の扉が開かない。観音開きになっていないのは、開けた途端に風で扉が押し返されて事故の原因になるからだろう。乗客三人がかりで、声掛け合って力ずくで扉を開ける。
 ピィウウウー。
 流れ込んできた風で車両がゆさりと傾き、扉前で私たちは息が吐けない。
 荷物がある人は幸いだ。重さで足が地にうまく着くからである。私は荷物なしのうえに犬連れで、リードで引いているとそのまま凧のように宙に舞い上がりそうな勢いだ。フードや帽子は、あってもないに等しい。前傾姿勢で犬を胸元に抱きかかえ、長身で幅広の男性乗客を盾にして、ようやくのことで駅を出た。

 大きな正方形の広場。堂々とした通り。天を突く建物。
 イタリアの匂いや温もり、湿り気は、ここにはもう感じられない。
 強烈な風が襲い続ける。友人は慣れた様子で、直進したり曲がったり、通り抜けできる建物と建物の間を縫うように歩いていく。風の方向を見ながら、向かわず背に受けるように選んでいるのだ。これまでの数日のうちに、取れかけていた看板や弱っていた街路樹、さまざまなゴミはすでに風で剥ぎ取られている。

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 伝い歩きをしながら、カフェや食堂に入る。入っては出て、を繰り返して町を回る。トリエステは、カフェの町でもある。
 <文学喫茶>と呼ばれる、書籍コーナーを設けた店がある。二重三重の頑丈な扉を開けて入ると、店内はカカオと砂糖の匂いに包まれて深閑としている。ボーラなどどこ吹く風、だ。平日の昼下がりには過分な装いの婦人たちが、あちこちのテーブルについて談笑している。新聞を読む初老の男性がいれば、スーツ姿で黒革のアタッシュケースを脇に置いて分厚い書類を前に話し込んでいる中年男性二人もいる。
 ミラノや他都市のバールのように、駆け込んで注文し、エスプレッソ・コーヒーを立ち飲みして急ぎ足で出ていく、という客はいない。強風に押されて出てきた人々がカフェに集まり、空間と時間を共有している。カフェは優雅な店内だが、嵐の中の避難所のような、独特の緊張感と同じ船の仲間のような気配がある。

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 ……フリーメイソンのイタリア大東社の大親方が他界した。
 波止場のワイン倉庫を改造してできた高級食材店が、大繁盛。
 そのお披露目パーティーに来る貴族たち。
 トリエステを舞台にしたミステリー小説が刊行されるらしい。
 ペギー・グッゲンハイム・コレクションの館長がとうとう退任。更迭、か?
 サン・ダニエーレの生ハムメーカーが、フランス資本に買収されたって……。

 風に押されて店を変え、各店で知人の知人を紹介されて雑談し、話が次々と話を引き出す。増えた知己が新しい接点を連れてくる。聞いた話を次の店で話すと、別の話が返ってくる。それぞれの連れが、別々の店で話を拡散する。
 トリエステに吹く風は不要となったものを一掃し、新たな商材を吹き入れてくる。ガセか本物か。カフェは一見、安全地帯のようで、実は情報とその提供者、共有者の取捨選択の空間のように見える。
 前市長は、トリエステに本社を置く、コーヒー豆焙煎のメーカー社長だったのを思い出す。

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