シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
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村井さんちの生活

 風のなかに春のにおいを感じる。朝晩はまだ冷え込むけれど、日中の数時間はリビングの窓を開け放つぐらいがちょうどいい。熱い珈琲を淹れて、ほっと一息。わが家に来て早二ヶ月の黒ラブのハリーも、私の休憩につきあうようにベランダに出ては、行き交う人や車をじっと眺めている。

 午前中には近所の幼稚園の園児達が散歩で通りかかる。バイバーイ! と手を振られると、ハリーは長いしっぽをブンブンと振り返す。午後にはカルチャースクールの生徒さん達が足早に通り過ぎる。一人の若い女性がハリーを見るや、「キャ-!カワイイ!」と声を上げた。ハリーは、またもや長いしっぽを、ちょっと念入りにブンブンと振り返した。そんな様子をしばし眺めていると、不思議と心が軽やかになってくる。

 とても順調に成長していると思う。むしろ、順調すぎるほど成長している。生後数ヶ月には到底見えないけれど、一体この子はどこまで大きくなるのだろう。柴犬であれば完全に成犬サイズだ。にょきにょきと伸びた手足は力強いし、体重もぐっと増えている。ずっしりとした重みのある肉球は、あんこがたっぷり入った大福サイズ。小学生の息子達には任せられない程度には力がついてきたので、そろそろ大型犬の本領発揮なのかもしれない。

 ほとんど全ての家具には立派な歯形がついた。ソファーは食いちぎられ、中のクッション材が飛び出している。私のデスクチェアも、いつの間にか座面がいびつな形になってしまった。ダイニングチェアの足もボロボロだ。先日はベッドの上でまくらをくわえて、狂ったように飛び跳ねていた。いやはや、すごい暴れん坊だよ、相当なやんちゃ坊主だよ。わかっちゃいたけど、予想以上だ。しかし、犬歴二十年超の私がこんなことでひるむと思ったら、そりゃあ大間違いだよハリー君。遠慮することはないさ、なにせ君はまだ子犬だからね、ハハハ! …という、変なテンションになっている私を見かねた友人知人が、大型犬なんだから気を抜いちゃダメ、しっかりしつけなきゃと忠告してくれる。へいへい、わかってますよ、わかってますって…。

 最近、わが家に突然の訪問客が増えた。 滅多に現れない人が、インタフォンのモニタの向こうでニンマリと笑っている。ドアを開けると私の顔も見ずに、私の足元をきょろきょろと探す。もちろんそこにいるのはしっぽを振って、飛びはねながら、愛嬌たっぷりの顔で出迎えているハリーだ。その顔を見るやいなや、女性は「キャァァァァァ!」と叫び、男性は「グヘヘヘへ」と奇妙な笑い声を出すのだ。興奮したハリーにおしっこをかけられて「アハハハ!」と大喜びの人もいる。ねえ、それって本当にうれしいの? どうなの? ねえ、どうなの?

 遠方の知人は「今度京都に行くんだけど、帰りに滋賀に寄ってもいいかな? 久しぶりに話がしたくて」とメールを送ってくる。目当てがハリーだということはバレバレである。無理矢理関西に出張を入れたんで…、と連絡をくれる人もいる。無理矢理にでも会いたいのか、ハリーに。そんなに見たいのか、この黒犬を。立派な大人が見事に骨抜きにされ、デレデレになってしまった。ハリー、あなたって怖ろしい子…!

 しかし、こんな状況を面白くないと思っている人間が一人いる。夫だ。無類の犬好きで、主張先では必ず犬のプリントされたTシャツを買い求め、コレクションしている男だ。集めた犬の図鑑は数十冊、犬の話ばかりしているのが理由で、会社でついたあだ名が「犬人間」。そんな夫が、まったくもって面白くないという顔をしている。理由はただひとつ、ハリーが私の方に懐いているからだ。

 湖で散歩中、遠くにいるハリーを呼び戻した夫の横をすり抜けるようにして、ハリーは私のところに全力で走ってくる。首をかしげながら、もう一度呼び戻そうと名前を呼ぶ夫を完全無視して、私からの指示を待つハリー。夫は「おかしいなあ」と腹立たしげに言うが、犬は犬で、誰の側にいればおいしいごはんが出てくるか、おいしいおやつが出てくるか、ちゃんと理解しているのだ。「やっぱりラブラドールっていうのは人なつっこい犬だな。一番近くにいる人を選ぶっていうことかな。結局、人間性とか性格とか、そういうのって犬にはわからないしな」と、最後には私に対する人格攻撃がはじまる程度に腹が立っている様子だ。愉快でたまらない。うう、腹がよじれそうだ。

 そして、面白いことに(いや、面白くないんだけど)、なぜかハリーが夫の布団をトイレと認識してしまった。布団を敷いている部屋には入らないようにしつけてはいるのだが、一瞬の隙に入り込み、あっという間に夫の布団で用を済ませ、涼しい顔で戻ってくる。困ったものだ。トイレシートはしっかりと覚えさせたし、毎日の散歩は足りているはずだ。それなのに、なぜわざわざ夫の布団をトイレと勘違いしたのか。もう一度しっかりトイレを覚えさせなくちゃいけないなと考えつつ、ニヤニヤ笑いながら洗濯機を回している私である。

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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