前回、自分が見慣れない虫を新種と言って大学などに持ち込む方々がいるという話をした。新種。読んで字の如く、新しい種だ。甘美な響きである。しかし、世間でこれほど誤解されている言葉、あるいはそれが指す生物も珍しいのではなかろうか。

 「新しい種」と言うと、生き物に詳しくない人の中にはB級ホラー映画などでありがちな、極秘の生体実験の最中に間違って混ぜてはならないものを混ぜてしまい、突如誕生した新生物みたいなイメージを持つ者がいるかもしれない。恥ずかしながら、私も幼い頃テレビで「地球上では環境破壊によって、一秒間に何種の生物が絶滅しており……」のような番組を見る一方、「どこどこのジャングルで、新種の鳥が発見されました」のようなニュースを聞くにつけ、おかしな考えを巡らせたものだった。地球上から何か生物の種が絶滅すると、その魂があの世で転生して別の新しい生物の種になる。そして再びこの世に現れたものが、新種として今日発見されている生物の正体なのではないか。今地球上にいる全ての生物は、ヒトでもライオンでもヌタウナギでも何でも、大昔に絶滅したトリケラトプスとかマンモスとかの魂がよみがえって第二の地球生活を始めた姿だと思いこんでいたわけである。つまり、地球上に存在する生物の種数は常に一定であり、理屈は知らないが何かが絶滅したらその分が玉突きのように自動的にどこかから補充されている、というのが私の頭の中に展開されていた世の摂理の設定だったのだ。もちろん、そんなアホなことはない。
 新種というのは、別に絶滅した種の補充要因として神が新たに遣わしたものではなく、ましてどこかのマッドサイエンティストが混ぜてはならない薬品AとBを混ぜて作っちゃった代物でもない。元々地球のどこかに生き続けていた生物の種であり、その存在に人類が今の今まで間抜けにも気づかなかっただけの事である。コロンブスの「新大陸発見」よろしく、探す側が今更初めて対象の存在を認知したということに過ぎない。

 ともあれ上述のように、時々テレビで「新種の鳥が発見されました」「新種の深海生物が発見されました」などのニュースが流れることがある。大抵、こういう一般大衆向けのメディアで報じられる新種の生物は、ある程度体サイズが大きかったり、外見が派手で珍奇なものである場合が多い。我々はそうしたニュースを見るたびに、「さすが新種の生き物は変わった姿をしてるなあ……」と思いこむ。すなわち、「新種の生き物=話題性があってしかもヘンな外見でなければならない」という先入観を、日常的に植え付けられている。また、新種生物発見のニュースというのは、普通にテレビや新聞を見ながら過ごしている限り、そんなにしょっちゅう目に触れない。せいぜい、年に2~3回くらいある程度だろうか。だから、新種などめったやたらに見つからないものである、と世の中の大概の人間は思って生きている。ところが、実際のところ新種の生物など日本を含め、全国各地で毎日のように見つかり、発表されているのだ。

 新種の生物が見つかったという知見は、原則として国際的な学術雑誌に論文(記載論文)という形で発表される。こうして論文を書いて世に新種を発表することを、我々は「新種を記載する」という。中には、半ば新種を記載するために特化した分類学専門の学術雑誌というのもあり、毎月のように発行されるこれら雑誌を開けば、虫に魚に植物キノコそのほか、様々な生物の新種がザラザラと載っている。毎月発行する雑誌が作れるほど、日々新種の生物は見つかっているのだ。
 ただし、それら新種の大半は取るに足らないゴミみたいなムシだったり小魚だったりプランクトンだったりと、とにかく地味で話題性のないものばかり。また、少なくとも昆虫においては、今まで既に知られている種とは目頭に細い毛が生えているかいないかとか、電子顕微鏡でものすごく拡大した時に体表面に見える毛の形がちょっと幅広いとか狭いとか、あるいは解剖して生殖器を引き出した時に、ものすごく小さな突起が出ているかいないかとか、そういう理不尽に微細でわかりにくい形態の違いを見てやっと区別できるという新種がほぼ全てと言って良いだろう。要するに、一般人にとってはすこぶるつまらなくて、どうでもいいような新種ばかり日常的に見つかっているのである。たまに大型の獣とか鳥とかで、少し変わった新種が発表された時に限り、気の向いたメディアが取り上げるに過ぎないのだ。

アシブトコバチの一種。カメルーンにて。主にガやハエなどに寄生する微小なハチの仲間。この手の寄生蜂には新種が山ほどいて、日本を含め世界各地から日常的に記載されている。


 しかし、一般人にとってはどうでもよくたって、分類学者は己の生活がかかっている。研究者は、日々論文を書いて業績を出すことが仕事なので、論文を出さない研究者には研究費も下りず、どんどん貧しくなるばかり。だから、業績たる論文を書くためには一種でも多く新種を見つけないといけない。昆虫の分類学者の場合、野外から新種の昆虫を集めてこないとならないわけだが、先にも述べたように多くの新種の昆虫は小さくて目立たない。歩きながら先々で一匹一匹そんなものを目視で探すなど、あまりにも現実的ではないため、基本的にトラップ(罠)を使うことになる。
 夜間、灯りを焚いて虫を集める灯火トラップ、地面に透明なアクリル板を立てて低空を飛ぶ虫を落とす衝突板トラップ、入り口の開いたテントのようなものを設置して飛ぶ虫を中に誘導するマレーズトラップなど……トラップとは少し趣旨が違うが、森林の腐葉土を特製のバッグ内に入れて乾燥させ、腐葉土にいる虫をまとめていぶり出し回収するウインクラー装置というものもある。これら手段において一貫して見られる共通点は、「どんな分類群のものもとりあえずやみくもに集められる」ことである。ハチの専門家も甲虫の専門家もハエの専門家も、誰もが自分の欲する分類群の虫を手堅く集められるのだ。こうした方法により、大小さまざま(と言っても、大半はゴミのように小さな種)の虫が、一度に大量に得られるため、通常それをまとめて腐敗防止用の薬液に漬けてビン詰めで持ち帰る。少し僻地でトラップを仕掛けたのであれば、どっさりと得られたそれら虫の死骸の山の中に、一つ二つは新種と思しき種が混ざっているものである。
 ただし、それを見つけ出すのは至難の業だ。新種の虫に、「新種です」などのタグがくくり付けられているわけでもなし。実験室で、佃煮状態の死骸の山を白いトレイの上にぶちまけ、一匹一匹ほぐして種を確認していく作業をせねばならない。しかも、仮に新種が混ざっていたとして、探す側の者にそれを新種と見抜けるだけの知識と経験がなかったら、何の意味もない。せっかくの宝の山も、本当にただの死骸の山でしかなくなってしまう。

 この世の生物には那由多の種があるため、一人でそれら全部を分類・研究するなど不可能である。だから、分類学者というのは基本的に自分が専門とする分類群を決めており、その分類群のことに関しては徹底的に知り尽くし、分類体系を把握しようと努力する。今までその分類群の中にどんな種が発見されているのかを知るために、その分類群内でこれまで知られている種の記載論文を全て入手して、読み込む。そうして、この分類群においてはこういう形態的特徴を持った奴だけが知られているのだ、ということを頭に入れておけば、もしどこかで明らかに自分の専門とする分類群の種なのに、その特徴に合致しないような種を見つけた時に「これは新種だな?」と察知できるのである。ただし、論文に書いてある内容を読むだけでは、本当にその分類群に含まれる種の特徴を理解したことにはならない。本当に理解するためには「タイプ標本」を実際に見るというプロセスが不可欠である。

 これまで地球上に知られているどんな種の生物も、元を辿れば大昔に誰かが新種として発表したものだ。その際、その大昔の誰かは記載論文とともに、その生物種が実在するという証拠の標本を残している(たまに、当初はあったが後に誰かがうっかり壊したり火事で燃やして無くなったとか、ひどい場合はそもそも残していないというケースもままある)。これが1mという長さだという基準として、メートル原器というものが作られたように、「これがライオンという生物だ」、「これがアゲハチョウという生物だ」という基準として残されているそれら標本のことを、タイプ標本という。分類学者たるもの、自分が専門とする分類群に含まれる種のタイプ標本くらいは、一通り自分の目で見て確認しておかねばならない。記載論文中にある「どこどこにこういう形の毛があり、姿かたちは丸っこくて……」という文章を読んで頭に思い浮かべるのと、現物をちゃんと見るのとでは、理解の度合いが全然違う。まさに、百聞は一見にしかず。ただし、このタイプ標本を自分で見に行くという作業は、なかなか一筋縄ではいかない。

 少なくとも昆虫の場合、タイプ標本というのはしばしば海外の複数の博物館にバラけて保管されている。だから、種数のごく少ない分類群ならばいいが、種数が多ければ多いほどそれだけの数のタイプ標本を見に何回も外国に行く羽目になる。ものすごく時間と金がかかる仕事である。もちろん、わざわざ海外まで出向かずとも海外の博物館のキュレーターに連絡をとり、必要な標本を自宅に郵送して貸してもらうという手も可能ではあるが、この手段はあまりあてにならない。何せ、その生物種の基準として未来永劫残さねばならない貴重な標本。キュレーターの中には、不慮の郵便事故で紛失したり破損する恐れのある、郵送という手段を使いたがらない者もいる。国によっては、郵便事情がすこぶる悪い所もいまだに多いため、彼らが郵送を嫌がるのはもっともな話だ。また、こちらがまだ駆け出しで経験の浅い分類学者とみると、貴重なタイプ標本を託すには時期尚早だと判断されて門前払いされる場合もある。できる範囲から少しずつ業績を重ねて行って、その分類群に関しては一人前の専門家と世間的に認知されるようになって、初めてタイプ標本を貸してくれたという話は、私の身の周りでしょっちゅう聞く。
 こうした地道で涙ぐましい努力を重ねに重ねた上で、分類学者は新種を新種であると見抜き、それを記載論文という形で客観的に示して世に発表できるようになるのである。間違っても、「道端を歩いてて変な虫を見つけたから新種」などと言って新種を適当に発表しているわけではないのだ。

 野山に分け入って虫をかき集めるといった作業は基本的に野外で新種を見つけるための努力の話だが、何も新種を発見する場所は野外だけとは限らない。博物館に収蔵されたAという種の虫の標本100個体を検査している際に、たまたま典型的なAの形態的特徴に合致しない個体が一定数混ざっていることに気付き、それが実はAにきわめて似た別種かつ、これまで知られていなかったBという種だとして新種記載される、などということもしょっちゅうだ。
 経緯はどうあれ、新種を見つけて記載するとなれば、当然その新種に名を与えることになる。これが、「学名」(種名)である。学名は、世界共通の生物の呼び名で、ラテン語で付けることが国際的な規則で定められている。例えば、「アリ」と言っても日本語だから日本国内でしか通用しない。「アント」と言っても英語圏でしか通じないし、「モッ(ド)」と言ってもタイでしか通じない。しかし、カンポノータス・ヤポニクス(クロオオアリ Camponotus japonicus Mayr, 1866)と言えば、少なくともアリ研究者であればどこの国の人相手であっても「ああ、あの黒い虫の事を言ってるのか」と通じるのだ。学名は「二名法」といい、大雑把な分類のまとまりである属の名(属名)と、その属内に含まれる個々の種の名(種小名)の二つを並べて表記する原則がある。人名に例えれば、属名は苗字で種小名が下の名前と考えてよいだろう。すなわち、上のクロオオアリならば Camponotus という一家があって、その中に含まれるjaponicusというメンバーの一人というイメージだ。

クロオオアリ。九州以北の日本各地で見られる。Camponotusは「曲がった背」の意味。この仲間に限らず、アリはだいたいどの種も猫背だと思うのだが……。


 学名に関しては、他にもいろいろな規則が山のようにあって、全てが厳密に定められている。よく、新種を見つけたという話になると「自分の名を付けられるのか?」といったことを聞いてくる人々は多い。しかし、原則として「自分が発見した種を自分で新種記載する」場合、学名に自分自身の名前は付けないという慣習になっている。どのみち、学名の末尾は命名者の名と命名した年でしめる決まりがあるので、わざわざ学名の属名や種小名そのものに自分の名を付ける必要はないのだ。上のクロオオアリの例で言えば、Mayrさんという人が1866年に記載したということが分かるわけである。
 ただし、自分が見つけた新種を他の専門家に託して、その専門家が新種記載するとなった場合、発見の功績をたたえて発見者の名前を新種の学名に付けてもらえる場合はあり、これを「献名」という。私の例を挙げると、2007年にタイへ調査に行った際、とあるシロアリの巣内からハネカクシという共生甲虫の一種を採った。体長わずか1mmちょっとしかない、恐ろしく小さな虫だが、まるで雨だれを平べったく伸したような珍奇な姿をしたものだった。これを専門家に渡した所、今までに知られていない種であることが判明したため、2011年にその専門家が新種として記載した。その際、その新種の甲虫の学名にはSchedolimulus komatsui Kanao & Maruyama 2011、つまり「コマツイ」と献名してもらったのである。なぜコマツではなくコマツイという変な表記かというと、ラテン語で人名+i(男性の場合。女性ならae)は「誰々さんの」という意味になるからだ。だが、この場合にしても、上述の通り新種を新種であると認定するには、大変な労力がかかっている。
 その結果、しばしば新種を見つけるのにかかった労と、それを新種認定するのにかかった労とを天秤にかける局面に見舞われる。もし後者の労が大きいと判断された場合、献名という形でさえも発見者の名が新種に付かない場合もあるのだ。それは致し方のないことである。だから、仮に新種を見つけて専門家にそれを記載してもらった際、献名してもらえなかったとしても「あのクソ学者、せっかく新種を恵んでやったのに恩知らずめ……」などと思ってはならないのである。

 ともあれ、国際的に定められたいろんな規則に従いつつ、分類学者は新種を名付けて発表し続けている。その営みを、私も行うことになるのである。

新種のハネカクシSchedolimulus komatsui。記載されてから既にかなり経つので、もはや新種と呼ぶのは語弊があるかもしれない。
 

もちろん、学者は論文さえ書いていればいい訳ではない。その成果やその面白さを、学術に明るくない社会の一般市民の人々に啓蒙していく活動もまた、これからの学者にとっては大切なことである。世間様からの理解が、最終的には学術の存在意義への理解、自然科学の地位向上へとつながり、究極的に学者自身の生活を支える糧となるからだ。私が本来論文を書く時間を割いてこの連載を書いているのも、そうした理由によるものである。