引っ越しの時、荷物をまとめてダンボールに詰め込んでしまってから気づくのが、容器というものの有難味だ。水を飲もうにもコップがない、食事をしようにも皿やお椀がない、ゴミを捨てようにもゴミ箱がない。ふだんまるで意識しないが、いかに我々は容器のお世話になっているか、改めて思い知らされる。

 してみると、人類最初の発明品のひとつが容器であったことは、実に当然のことだったのだろう。特に、粘土(粒径の細かい土)をこねて成形し、火で焼いて作った土器は、世界の各地で古くから用いられてきた。ある学者に言わせれば、どこの国であれ考古学は、壺とその破片を探すところから始まるという。土器、陶器、磁器などの発達度合いは、その文明の成熟度を測るよきバロメーターだ。

縄文中期の深鉢形土器 (sailko /Wikipedia Commons)


 何より驚くべきことに、プラスチックやアルミニウムなどの優れた新素材が豊富に手に入る現在でも、焼き物という材料はなおバリバリの現役だ。現在我々が日常的に使っている茶碗や土鍋は、各地の遺跡から出土する土器と、形状や材質など基本的に変わっていない。

 焼き物は、その用途の多彩さも大きな特徴だ。値段もつけられないほど貴重な芸術品の壺から、レンガやタイル、瓦などの身近で安価な建材まで、焼き物の活躍の場は途方もなく広範囲にわたっている。人類の文明を、これほど長期にわたって幅広く支えてきた材料は、他にほとんど見当たらない。

 では、最初の焼き物――いわゆる土器はいつごろ作り出されたのだろうか? 今のところ世界最古と見られているのは中国湖南省で発掘された土器で、約1万8千年前のものと報告されている。また日本でも、大平山元(おおだいやまもと)遺跡(青森県)で発掘された縄文式土器は、約1万6千年前に作られたと見られている。エジプトやメソポタミアの文明よりはるかに古くから、東アジアでは土器が用いられていたわけだ。

大平山元遺跡  (外ヶ浜町教育委員会 社会教育課)
大平山元遺跡出土土器片


 水で練った粘土を、干した上で火で焼き上げると堅く丈夫な材料になる――これは、火を使っていれば自然に見つかることだろう。火の使用開始の年代は諸説あるが、少なくとも20万年は遡ることができる。であれば、もっと早くから土器の使用が始まっていてもよかったはずだが、なぜ数十万年もかかってしまったのだろうか? この単純な問いに対する、決定的な答えは実はまだないようだ。

 日本での土器の利用開始時期は、氷河期の終わり頃に当たっている。このためドングリなどの食料が入手しやすくなり、これをよく煮てアク抜きをするために土器が作り出されたとの見方がある。こうして確実に食料を得られるようになれば、獲物を求めてあちこち移動する必要も薄れる。定住のために土器が作り出されたのか、土器が定住を促したのか、いずれにしろ定住生活の開始という人類史の大きなターニングポイントに、土器の存在は密接に関わっていたことだろう。

 やがて、様々な目的に合わせた土器づくりが行なわれるようになる。たとえば焼き物を表す漢字には、「壺」「釜」「碗」「瓶」「罐」「甕」「鼎」「甑」「坏」「杯」「鬲」などなど、驚くほど多くの種類があり、いかに焼き物が古代人の暮らしの近くにあったか伝わってくる。こうしたさまざまな容器を駆使し、水や食料の調理・保存ができるようになったことは、安全な食料の確保や伝染病の防止につながった。土器の利用は、人類の繁栄に大きく与(あずか)ったといえる。

焼き物が堅いわけ

 粘土をこねて干しただけでも、形状を保つことはできる。実際、中東や北アフリカなどの地域では、粘土を型に詰めて天日干しして作った「日干しレンガ」が建材として広く使われる。ただしこれは雨に弱く強度も劣るから、乾燥した地域ならともかく日本などの気候ではとても使えない。壺などを日干しで作っても、水を溜めておくことはできないのはもちろんのことだ。成形したものを火で焼くことで、初めて実用に耐える焼き物になる。

日干しレンガで作った家 (Vmenkov/Wikipedia Commons)


 粘土を焼くことで、強度や耐水性が高まるのはなぜだろうか? ひとことで言ってしまえば、高熱によって化学反応が起こって原子同士がつながり合い、新しいネットワークができるためだ。

 粘土は、各種の鉱物の細かな結晶が寄り集まったものだ。結晶内、すなわち粘土の一つ一つの粒子の内部では、ケイ素やアルミニウムなどプラスに帯電しやすい原子と、マイナスに帯電しやすい酸素が交互につながり合い、ジャングルジムのような強固なネットワークを形成している。

 ただし、結晶の表面にある原子には、つながり合う相手の原子がない。そこで表面の原子は、水などの分子から奪った水素原子と結合したり、不規則な形で近所の原子ととりあえず結びついたりして、独り身の寂しさをごまかしている。これら表面の原子は、機会があればきちんとしたパートナーを見つけ、結晶内部の原子と同様に安定なつながりを持ちたいものと、常に願っている状態だ。

 火による加熱は、こうした一人者の原子に願ってもない「婚活」の機会を提供する。熱は原子の動きを活発化し、結合の組み換えを促すのだ。水で練られ、成形された粘土は、細かな結晶同士がぴったりとくっつき合った状態にある。熱によって表面原子を揺り動かすと、この結晶同士を橋渡すように新たな原子間の結合ができ、結果として全体がしっかりとしたネットワークになる。これが、もとの粘土塊にはない焼き物特有の強さの秘密だ。

 焼き物は、数千年にもわたって形状を保ち、もとの粘土に戻ることは決してない。我々の祖先が丹精込めて焼き上げた縄文式土器を、現代の我々が変わらぬ姿で眺められるのは、ひとえに丈夫な原子同士のネットワークのおかげなのだ。

製陶と環境破壊

 こうして粘土を低温で焼いて作ったものは、いわゆる「素焼き」と呼ばれ、縄文式土器や弥生式土器は全てこれに当たる。特に中国では、焼き物に適した土選び、水簸(すいひ)による粘土の精製、ろくろによる成形など、高度な技術が発展した。

 有名なのは秦の始皇帝陵の兵馬俑で、身長約180cmの兵士などをかたどった素焼きの人形が、約8000体も埋められている。これらは全て顔料で彩色されており、水銀の川や湖も作られるなど、陶製の地下都市と呼ぶべきものであった。その精緻な細工とスケールを見れば、今から約2200年もの昔に達した技術水準に驚嘆せずにはいられない。

始皇帝陵兵馬俑坑1号坑 (Bencmq / Wikipedia Commons)


 こうした大規模な製陶は各地で行なわれたが、弊害も小さくはなかった。緑豊かなメソポタミアの地が砂漠と化してしまったのは、建材やレンガ製造の燃料としてレバノン杉を大量に伐採してしまったことが一因とされる。これが、人類の行なった最初の環境破壊ともいわれる。

 また中国でも、万里の長城建設のために大量のレンガが必要となり、森林が伐採された。特に明の永楽帝は、遊牧民族の拠点に近い北京に首都を移したために長城の大幅強化を迫られ、この時に多くの森林が失われている。古代には50%を超えていたとみられる黄土高原の森林率は、今や5%に落ち込んでおり、一帯は乾燥地帯と化した。この砂漠化は、春に飛来する黄砂の原因として、現代の日本にも少なからぬ影響を与えている。

明代の長城

 

釉薬の登場

 素焼きは土の塊に比べればはるかに強度が増しているとはいえ、原子がつながってできたネットワークが比較的粗いため、ひとかたまりの岩石の頑強さにはとうてい及ばない。素焼きの器に衝撃を与えれば、せっかくできた結合はちぎれ、全体はパリンと音を立てて砕け散ってしまう。こうしたもろさは、素材としての大きな弱点だ。

 もうひとつ、素焼きは微細な孔が全体に開いており、ここから水や空気が通過する。現代の植木鉢に素焼きの焼き物が用いられるのは、側面から水や空気を通し、根腐れや過湿を防ぐためだ。この性質は植木鉢にするにはよいが、ティーカップや水瓶として使うには大きな欠点となる。

素焼きの植木鉢


 これを補うのが釉薬(うわぐすり)だ。粘土の表面にある種の石の粉末や灰などを塗った上で焼くと、表面が熔融してガラス質となり、細かな孔がふさがれるために強度や防水性が上がる。表面に艶が出て、光をある程度通すようになり、美しさも増す。

 燃料の木材から出る木灰は、カリウムなどのアルカリ分を含む。これはケイ素や酸素の結合の間に入り込み、結合をいったん切って熔けやすくする。これが冷えると、ガラス質となるのだ。こうした木灰による「自然釉」から、釉薬の役割が偶然に見つかっていったのだろう。中国では、すでに殷王朝(紀元前17世紀~前11世紀)の時代から、釉薬が用いられていた。前漢時代後期には酸化鉛を含む鉱物を釉薬として用い、美しい緑色に発色した鉛釉陶器が生み出されている。

漢代の緑釉騎馬人物文壺(Hiart / Wikipedia Commons)


 こうした各種釉薬と土の種類、焼成温度などの組み合わせによって、器の色や風合いは複雑に変化し、工芸作品としての価値を生み出す。その奥の深さたるや恐ろしいばかりで、科学のメスも入りつつあるものの、自在に思い通りのものを創り出すにはほど遠いのが現状だ。

後編につづく