諸君、本稿は3月中に書かれるべきものであった。学期末・学期はじめの大量の雑用もとい、大学運営の仕事と、3月28日から4月9日までの英国・欧州出張により、執筆する時間が取れなかった。申し訳ない。今回の題目は実在する雑誌の題目と同じになってしまった。集英社さん、許して下さい。
 本稿で僕は、大学入学以前の読書体験について語ろうと思う。僕が字を読めるようになったとき、家にはほとんど本が無かった。『家庭の医学』はあったが、親はその閲覧を禁止した。5歳のころ初めて買ってもらった絵本は『かみのこうさく』という絵本であった。父母が水道屋運営で忙しかった僕の家では、小さな僕を連れ歩くのはほとんどが祖母であり、この絵本も祖母に買ってもらったに違いない。僕はこの本を「神の子ウサク」と間違って分節化して解釈しており、神の子ウサクがどのような冒険をするのかどきどきして持ち帰ったのだが、当然のごとくこの本は「紙の工作」の本であった。それでもこの本は僕の長年の愛読書として、工作技術の基本を教えてくれた。今も工作が得意なのは、5歳でこの本に出会ったからである。
 僕が7歳のころだっただろうか、聖書を売り歩く男が家を訪問してきた。聖書がタダ同然の価格であったこと、男の身なりのみすぼらしさから我が母はこの男に同情し、何冊かの福音書を買った。それらはルカ、マタイ、ヨハネによる福音書であった。これらはわら半紙に印刷されており、すべての漢字にルビ(ふりがな)があったため、7歳の僕にも読めた。そして聖書というのは、他に何も読むものがない場合には非常に面白いのであった。イエスの数々の奇跡を、7歳だった僕は本気にしない分別を持っていた。それらを比喩であるとわかっていた。ませていたのだろうか。それでも面白かった。人間のあり方や希望や差別や不条理を学んだ。
 聖書で読書に目覚めた僕は、その後絵本ではなく、主に字がたくさん書いてある本を読んだ。僕が少年だったころの本は、大人向けでさえほとんどルビがついており、まあなんでも読めたわけだ。9歳のとき、小学3年生の夏休みには『巌窟王』を読んだ。当時は知らなかったが、モンテクリスト伯の子ども版である。本自体はとても面白かったのだが、宿題であった感想文が書けなかった。原稿用紙2枚ほどだったはずだが、そのほとんどをあらすじに費やし、最後に「ぼくは、ダンテスはとてもえらいと思いました」と常套句を書いて最初の感想文をまとめた。我ながら情けなかったが、その僕が去年まで読売新聞の読書委員として書評を書いていたのだから、小学生には感想文など書かせるべきではないと思う。
 その後は、本を読みたがる僕を面白がって叔母が買ってきた『吾輩は猫である』を読んだ。聖書の読解では力量を見せた僕だが、『吾輩は猫である』は完全に猫の話として読んだ。そのころからさまざまな動物を飼育しており、動物の側から見た人間に興味があったから、夏目漱石は猫に詳しいんだなと感心したものだ。それだけに、猫がおぼれ死ぬ様は気の毒であった。これに力を得て、『草枕』を読んだが、10歳の児童が草枕を読んでなんとかなるはずがない。夏目漱石はつまらぬかも知れぬ、と思い始めたが、次に『行人』を読んでこの思いは決定的になった。これが覆るのは、中学の国語教科書で『こころ』を読んでからである。
 11歳になった僕は、突然、人間が人間に思えなくなる病気にかかり、あまりにみんながロボットに見えるし、でもおかしいのは周りではなく自分であるという確信があったために、母にお願いして(どうしてもお母さんがロボットに見える。これは何かおかしいから入院させてくれ)、僕の住む町から見れば大都会であった足利市中央部にあった日本赤十字病院に入院した。何せ僕の町の名前は上渋垂町というのである。入院はしたが退屈だったので、頻繁に外に出て、本屋に行った。本屋というものは上渋垂町になかったので、一人で本屋に行ったのはたぶんそれがはじめである。もらっていた小遣いで2冊の文庫本を買った。1つは興津要編集の『古典落語』、もうひとつは筒井康隆の『筒井順慶』。古典落語は何本か完全に記憶し、親の前で披露したところ、父親に没収された。「お前は落語家になるのではなく、水道屋になるのだ」と。僕はこれで水道屋だけにはなりたくないと思った。筒井順慶のほうは、今思うと筒井康隆にしては難解なのだが、これをきっかけに当時のゴールデンコースとでも言うべき、筒井康隆、小松左京、遠藤周作、北杜夫へと読書が広がっていった。本を読んでいるうち、人間がロボットかどうかは決定不能な問題のような気がして、病気は自然に治った。というか、そういうことは諦めて生きるのが正しい道なのだと悟ったとも言える。
 中学時代はゴールデンコースを歩んでいたが、密かに脇道も歩んだ。ゴールデンコースの本については友達(果たして友達だったのか)と感想を言い合ったが、脇道の読書は完全に秘密であった。きっかけはこうだ。新刊書店の文庫本はあまり買えないので、僕は古本屋に行くことも身につけた。雑多にある古本たちは、今のように化粧カバーはついておらず、むき出しの題目と著者名、出版社名くらいしか書いていない。これらの本の中に、僕はそのころの僕の需要に最適な本を何冊か見つけた。ジョン・クレランドの『ファニー・ヒル』は、当時の僕にはあまりに刺激が強かった。1章読んで、その情景で太宰治の言う「例のあんま」をすることができた。ギヨーム・アポリネールの『若きドン・ジュアンの冒険』は直裁的な表現が多すぎ、あんまにはあまり適していなかった。現在ではWeb上にあんまの材料は大量に転がっており、想像力を鍛錬する必要がないという点で、今の中高生を気の毒に思う。
 そうこうするうち、僕の勉強机の上に「別冊平凡パンチ」が置かれていた。本来は当時大学生であった僕の叔父が所有していたものだが、叔父が不用意な場所に放置し、それを祖母が僕の所有物と思って僕の机に乗せたのだろうと思う。それしか考えられぬ。祖母の誤解を解き、品行方正な中学生としての僕を再認識してもらいたい気持ちと、この僥倖を逃がしてはならないという焦燥感の間で揺れ動いた僕は、「祖母は本を開いてはいないだろうからこの内容については知らないはずだ」というどう考えても甘い仮説のもと、その本を隠匿することにした。僕はその本を開いてみて瞬時に硬化した。サンドラ・ジュリアンと言われてもわかる世代は限られているだろう。興味があったら検索してみてくれ。たくさんの資料がWeb上にある。そのサンドラ・ジュリアンの東映映画「徳川セックス禁止令」からの写真が掲載されていたのである。叔父のものであろうその平凡パンチは、僕の机の奥底に仕舞われ、人々が寝静まってからの密かなあんま時間の重要資料となったのである。同時に、活字によるイメージ喚起訓練は一時中止となってしまった。しかしサンドラ・ジュリアンの効用が薄れてくると、今度は富島健夫先生の『女人追憶』という新たなテキストを用いた勉強が始まったわけだが。これじゃ、青春と読書じゃなくて、青春と瀆書になってしまうな。
 さて、秘密の脇道の話が長引いてしまったが、本流としてはムツゴロウこと畑正憲も、僕のヒーローになり始めた。その辺の読書経験については、5月の原稿でまとめることにしようと思う。