新潮社の季刊誌『考える人』は、今春、多くの人に惜しまれながら休刊のやむなきに至ったが、創刊以来掲げ続けた「plain living & high thinking」のモットーどおりに、考えるということを様々に体現してみせてくれた雑誌だった。平成十四年(二〇〇二)からは、新たに設けられた小林秀雄賞の発表誌としての役割も担った。今にして思えば、「plain living & high thinking」は、小林秀雄を表す言葉でもあった。小林秀雄こそは、考える人であった、質実に生きて、毎日考え続けた人であった。
 昭和三十年代の半ば、『新潮』にベルグソン論「感想」を連載していた頃の『朝日新聞』に、「小林秀雄氏の近ごろ」と題したインタビュー記事が載っている。昭和四十年(一九六五)から始める「本居宣長」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第27・28集所収)の助走となった「本居宣長――『物のあはれ』の説について」ももう書いていたが、「宣長は、実証主義者だと言われるが、彼の頭の中にそんな考えはない。今日の実証主義は学問が分化して出てきたものだ。宣長の中ではすべてがひとつになっている」と言い、ベルグソンもそうである、人間の精神はひとつである、にもかかわらずその精神をめぐって科学や哲学や宗教がそれぞれの真理を主張する、おかしいではないか、ベルグソンは科学と哲学をひとつにしようとしたのだ、と語った最後に、現代の哲学の不振、思想の貧困をどう思うかと訊かれて言っている、――僕なんぞがベルグソンを書いているのも、誰もまじめに考えないからだ。生きている以上、考えなければしょうがないじゃないか……。
 生きている以上、考える……。小林秀雄は、小説を読めば小説を考え、音楽を聴けば音楽を考え、絵を見れば絵を考えた。すべてそれらは、人生いかに生きるべきかを考えることであった。「ドストエフスキイの生活」、「モオツァルト」、「ゴッホの手紙」、「近代絵画」、「本居宣長」等、作品はいずれも小林秀雄の代名詞ともなっているが、これらは皆、人生いかに生きるべきかを、ドストエフスキーに、モーツァルトに、ゴッホに、本居宣長に問いかけ、その問いに応えて彼らが返してきた言葉を記したものなのである。

 日頃、考える、とは、私たちも気軽に言っている、だが、しかし、どういうふうに頭を巡らせば、考えたことになるのか。小林秀雄は、昭和三十四年五月、『文藝春秋』で「考えるヒント」のシリーズを始め、三十七年二月、「考えるという事」(同第24集所収)を書いた。六十歳になる年だった。
 今日、私たちの間では、「考える」という言葉はほぼ次のように使われている。――今夜は何を食べようかと考えている。――今度の連休、どこへ行こうか、みんなで考えようよ。――この問題は、どの公式を使うかを考えればすぐ解ける……。つまり、レストランのメニューであったり、地図上の地名であったり、教科書の記述内容であったりと、いずれもすでに明白に存在し、誰もが知っているはずのデータを適宜に取り出し、それらを比較し取捨して当面の課題の結論を導く、多くはそういう頭の操作をさして「考える」と言っている。
 しかし、小林秀雄は、「考えるという事」で、本居宣長の説から出発し、現代の「考える」とは真反対の向きの「考える」を指し示す。
 ――彼(宣長)の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」と解する。……
 この宣長の説は、彼の随想集「玉勝間」の八の巻にあるのだが、「かれとこれとを、比校へて思ひめぐらす」とは、二つのものを向いあわせ、両者の関係について思いをめぐらすということである。
 宣長の説は、そこまでである。小林秀雄は、これを承けて、宣長の言う「考える」の元の意味の「あひむかふ」を敷衍して言う。
 ――それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。実際、宣長は、そういう意味合いで、一と筋に考えた。……

 以上、小林秀雄の言うところを、もうすこし精しく辿り直してみると次のようになる。
 現代語「考える」の古語は「考ふ」であるが、「考ふ」は、元々日本にあった言葉「かんがふ」に、意味が通じるということで中国から来た漢字「考」を充てたものである。漢字が中国から日本に渡ってきたのは一五〇〇年前ともそれ以上前ともいわれるが、漢字が伝来するはるか前から日本列島には日本人が住み、やまとことばを話していた。そのやまとことばのなかに「かんがふ」はあった。
 そしてその「かんがふ」は、古くは「かむがふ」とも表記されていた。漢字が伝来するまでのやまとことばは、話し言葉であった。話し言葉に音便はつきものである、それを考慮すれば「かんがふ」は「かむがふ」の音便形であると言え、話し言葉には清音と濁音の交替もあるから、「かむがふ」は「かむかふ」でもあったとの推測が成り立つ。そこで「かむかふ」の語頭の「か」であるが、この「か」は発語と見ることができる。発語のことは、「本居宣長」第三十三章で「かんがふ」に再度言及し、そこで言っている。発語とは、言葉の調子を調えたり、軽い意味を添えたりするために加える接頭語である。語意そのものを大きく左右することはない。現代でも「かぼそい」とか「そしらぬ」とかと言う、その「か」や「そ」が発語であり、これに倣って「かむかふ」の「か」も発語と見なせば、「かむかふ」の原形は「むかふ」であったと想定できる。向かい合う、対面する、あるいは向かい合せる、対面させる、の意である。
 その「むかふ」は、さらに原初へ遡り得ると小林秀雄は言うのである。「む」は「み」すなわち「身」の古い形である。「かふ」を「交ふ」と解せば、「むかふ」は「身交ふ」となる。単に向かい合うだけではない、全身で交わる、交流するのである。つまり、「考える」の本義は、現代の「考える」のようにすでに持合せている知識を取り出し、それらを組合せて当座をしのぐことではなかった、今はまだ見えていないものを見、感じられていないものを感じるために、相手と全身でつきあうことだったのである。

 前に引いた「考えるという事」では、考えるとは物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ、物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう、と言っていた。この言葉は、そのまま小林秀雄の「ドストエフスキイの生活」を、「モオツァルト」を、「ゴッホの手紙」を、「本居宣長」を、思い起こさせる。先に、小林秀雄は人生いかに生きるべきかを、ドストエフスキーに、モーツァルトに、ゴッホに、本居宣長に問いかけ、その問いに応えて彼らが返してきた言葉を記したと書いたが、「考える人、小林秀雄」により即して言えば、小林秀雄はドストエフスキー、モーツァルト、ゴッホ、本居宣長らと何年も親身に交わり、彼らを外から知るのではなく彼らを身に感じて生き、彼らとともに生きたその経験を書いたのである。 

「考えるという事」を含む「考えるヒント」のシリーズも、「本居宣長」への助走であった。「本居宣長」は、奈良時代に成って以来一〇〇〇年以上、誰にも読めなかった「古事記」が、なぜ宣長には読めたのかを探る本であったとさえ言ってよいのだが、宣長の秘訣は、ひとえに、宣長が「古事記」を介して三十五年もの間、古代人たちと身交ったところにあった。小林秀雄は、「本居宣長」第三十三章で、――古人について考えるというのも、その本義はという事になれば、古人と出来るだけ親身になって交わり、その交わりを思い明らめるという事になろう……と書いている。

(第十五回 了)

★小林秀雄の編集担当者・池田雅延氏による、
   小林秀雄をよりよく知る講座

小林秀雄『人生の鍛錬』を読む
5/11(木)18:30~20:30
新潮講座神楽坂教室


 「小林秀雄『人生の鍛錬』を読む」と銘打ったこの講座では、新潮新書『人生の鍛錬――小林秀雄の言葉』をテキストとして、小林秀雄の名言名句を素読します。素読とは、文章中の単語の意味を調べたり、文章の意味を解釈したりすることは一切せず、何人かが集まって声に出して何度も読む、それだけで書いた人の思いや訴えたいことを身体で感じ、察知するという、小林秀雄が強く勧めていた読書法です。
 小林秀雄の活動時期を3期に分けて、第1期は24歳~37歳、第2期は38歳~51歳、第3期は52歳~80歳とし、講座の前半は池田講師がそれぞれの回に該当する時期の小林秀雄について語ります。後半はそれと同じ時期の小林秀雄の言葉を『人生の鍛錬』から出席者に選んでいただき、全員で素読します。
 さあ、この素読でまた、小林秀雄がいっそう身近に姿を現します。一般には難しいと言われている小林秀雄が、実は簡潔、明快で、生きるパワーをふんだんに与えてくれることを知って背筋が伸びる、この講座はそんな感動と驚きの120分です。
 4月から始まった3回シリーズは次のとおりです。
 第1回 4月 6日(木) 第1期(24歳~37歳)
 第2回 5月11日(木) 第2期(38歳~51歳) 5月のみ第2木曜日です
 第3回 6月 1日(木) 第3期(52歳~80歳)

小林秀雄と人生を読む夕べ
【その6】〈文学を読むIII〉『対談・大作家論』

5/18(木)18:50~20:30
la kagu(ラカグ)2F レクチャースペースsoko

 平成26年(2014)10月に始まったこの集いは、第1シリーズ<天才たちの劇>に<文学を読むⅠ><美を求めて><文学を読むⅡ><歴史と文学>の各6回シリーズが続き、今回、平成29年4月から始まった第6シリーズは<文学を読むⅢ>です。

*日程と取上げる作品 ( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」の所収巻
第1回 4月20日 文学と自分(13) 発表年月:昭和15年11月 38歳
第2回 5月18日 対談・大作家論(16)対談者=正宗白鳥
                       同23年11月 46歳
第3回 6月15日 中原中也の思い出(17) 同24年8月 47歳
第4回 7月20日 「白痴」についてⅡ(19) 同27年5月~ 50歳  
第5回 8月17日 人形(24) 同37年10月 60歳
第6回 9月21日 生と死(26) 同47年2月 69歳
☆いずれも各月第3木曜日、時間は18:50~20:30です。
 
 第1回は「文学と自分」です。昭和15年8月、朝鮮と満州で行った講演がもとになっています。日中戦争を強く意識しながら、表現とは、言葉とは、伝統とはと、嚙んで含めるように語った小林秀雄名講演の一つです。
 第2回は、昭和23年(1948)46歳の年に行った正宗白鳥との対談「大作家論」を読みます。小林秀雄は生涯にわたって3人の作家に最大の敬意を払い続けました。志賀直哉、菊池寛、そして正宗白鳥です。白鳥の場合は、たとえば島崎藤村の小説のツボをぴしっと押えて読みぬく直観力、そしてその島崎藤村という人間の急所をさっと見て取りさらっと描きだす文章力に特に感じ入り、編集者として籍をおいていた創元社から白鳥の「作家論」2冊を出して大好評を得るなどしました。この対談「大作家論」は、そういう小林秀雄が単刀直入に正宗白鳥の本音を聞きだし、自分の本音もさらけだした奔放な対談で、小林秀雄は文学のどこに眼をつけ、作家の何を面白がっていたかが手に取るようにわかります。
 第3回「中原中也の思い出」は、若くして逝った天才詩人、中原中也との間で織りなした悲劇と友情に思いを沈めます。あの日、中原とふたりで見上げた海棠(かいどう)は美しく哀しく、そして今、悔恨の穴は深くて暗いと記す小林の心が心にしみます。
 第4回の「『白痴』についてⅡ」は、20年もにわたって苦闘したドストエフスキーの作品論のうち、小林自身が一番よく書けたと言っている力篇です。クライマックスの原文はすっかり頭に入っていて、まったく原文は見ないで書いたといいます。
 第5回の「人形」は、400字詰め原稿用紙でわずかに3枚、しかし、感動の大きさは計り知れません。ある時、私は大阪行の急行の食堂で遅い夕食を食べていた、前の席に六十格好の老人夫婦が腰を下ろした、細君は、人形を抱いていた、その人形は……。
 第6回の「生と死」も講演文学の白眉です。死は前からではない、後ろから迫るのだと言った「徒然草」の兼好、また亡くなったばかりの志賀直哉の骨壺、獅子文六の牡丹などを引いて、それぞれの死を得るさりげない工夫を小林秀雄もさりげなく語ります。

◇「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、上記の第6シリーズ終了後も、小林秀雄作品を6篇ずつ、半年単位で取り上げていきます。