やれやれ、前回は眠いのを押して無理矢理エッセイを書いたら「青春と読書」のつもりが「青春と涜書」になってしまったよ。でもむしろそのくらいのほうが人気が出るようで、「人気の話題」で細野晴臣先生を抜いて堂々4位である(5月1日、午後10時現在)。今回は気持ちだけは「打倒! 万年1位の村井理子先生」で行こうかなと思う。あ、涜書って言葉は筒井康隆の『みだれ撃ち涜書ノート』に敬意を表して使わせてもらっています。

 向学心の強い読者のため、「例のあんま」の出典を教えます。太宰治の「思い出」です。何回か出てくるから、探してみるといいよ。たとえば、「ある夜、傍に寝ていた母が私の蒲団の動くのを不審がって、なにをしているのか、と私に尋ねた。私はひどく当惑して、腰が痛いからあんまをやっているのだ、と返事した。母は、そんなら揉んだらいい、たたいて(ばか)りいたって、と眠そうに言った」。もう恥ずかしくてしょうがないね。この話題で引っ張るのも考えものなので、このへんにしておこうな。

 僕の青春のヒーローであったムツゴロウこと畑正憲の本について書こうと思う。はじめてムツゴロウものを読んだのは中学2年生のときだった。『ムツゴロウの獣医修業』だった。1973年の出版である。出版されてすぐ買ったのだ。
 動物が好きで、犬や猫はもちろん、亀、ハムスター、山羊、シマリス、文鳥、ヤドカリなどさまざまな動物を飼ってきた僕にとって、獣医さんはあこがれの職業であった。小学生のころ、もらってきたハムスターが突如8匹もの子供を産んだ。もらってくる前に交尾してあったのだろう。生まれた子供たちをお母さんハムスターはよく世話をし、子供たちはすくすくと育って2ヶ月たったころだろうか。ある日学校から帰ってくると、お母さんハムスターが子供全部をかみ殺していた。いや、1匹だけ息をしていた子供がいた。僕は近所の獣医さんに連絡して、家まで来てもらった。獣医さんは瀕死の子供に謎の軟膏を塗り、「ネズミの親子は、乳離れしたらすぐ別々に飼わないと駄目だよ」と指導してくれた。生き残った1匹は少しずつ回復し、その後2年生きた。ハムスターとしては寿命を全うしたほうであろう。謎の軟膏は恐らく抗生物質であったのだろうが、小学生の僕には獣医さんが魔法使いに見えた。
 このことがあってから、獣医は僕のあこがれの職業であった。だから、『ムツゴロウの獣医修業』は獣医になるにはどうしたらよいのかが書いてある本であると思って買ったのだ。実際にはそのような内容ではなく、ムツゴロウこと畑正憲が、自分の飼っている動物は自分で治療しようと考えて獣医から教えを請いながら、生命を救うことと奪うことについて考えている本であった。獣医になることは生命を救うだけではなく、その修業の過程で多くの生命を奪うことになる。また、獣医となってからも、生命を奪うこと自体が仕事の一部であり続ける。これらのことを僕は学んだ。そして自分にはそうした勇気は恐らくないだろうこともわかった。
 この本によって畑正憲を知った僕は、ムツゴロウシリーズを読み続けた。動物好きとして読み始めたムツゴロウシリーズだったが、むしろ畑正憲の生き方そのものに惹かれていった。だから今でも手元においてあるのは『ムツゴロウの青春記』と『ムツゴロウの結婚記』である。中学2年のときにはじめてラブレターを書いた女性と生涯連れ添うことになったムツゴロウのような人生を、僕は生きたかった。そのころすでに中学3年であった僕は、とり急ぎ恋人を見つけなければならなかった。好きになった女の子は何人もいるけれど、自分の気持ちを伝えることができなかった。『青春記』で主人公が恋人と抱き合いながら「内から固く圧するもの」の取り扱いに当惑するような体験を読みながら、自分ひとり硬化していた僕は、勇気のない弱虫で、スポーツは何もできず、勉強も抜きんでているわけではなく、容姿にも全く自信がなかった。『ムツゴロウの青春記』を読むことで、自分がとうてい到達できない青春を代理体験していたのである。
 そのような僕にも、中学の卒業式の日に、「セックスしよう」と誘ってくれた女の子がいた。中学2、3年と同じ組に属していた子で、なんでも気安く話し合うことができ、それなりに可愛らしかった。その子も僕も当然セックスはしたことはなく、気が合うのだから、卒業記念に「とりあえず実験として」してみよう、という話になったのだと思う。待ち合わせの場所と時間に、しかし僕は行くことができなかった。僕はそれを、ムツゴロウ的な純愛の観念を重んじていたからだと考えたが、これもやはり単に勇気がなかっただけである。そして「とりあえず実験として」という提案をした彼女の、もしかしたら強い勇気と強い気持ちがあったかも知れない誘いを、僕は受けることが出来なかったのである。ああ、なんて意気地なしだったのだ僕は。

 ムツゴロウこと畑正憲氏には、後年会う機会があった。アメリカ留学から戻り、上智大学で博士研究員(ポスドク)をしていたころだから、29歳前後のころだ。そのころ、研究室に資産家のお嬢さんがおり、「今日うちにムツゴロウさんが来るけど、岡ノ谷くん来る?」と誘ってくれたのである。ムツゴロウさんが来るご家庭があることにそもそも驚いたのだが、ありがたく招待を受け入れ、その会に参加した。僕が「さよならどんべえ」の話をすると(どんべえというのはムツゴロウさんが飼っていたヒグマである)、ムツゴロウさんは自分をどんべえに見立て、ムツゴロウさん役を僕に課して、どんべえがムツゴロウさんに求愛してお尻を向けてきたときの「種を超えることができない恋愛」の切なさを、実演によって教えてくれた。そんなふうにムツゴロウさんに触れ合うことができるとは全く思っていなかった。中学時代、僕はこの人の人生に死ぬほどあこがれていたのだと懐かしかった。僕はムツゴロウさんに、アメリカ留学中に書いた自信作の論文を謹呈した。「近交系カナリアにおける聴覚閾の上昇について」と題したその論文は、ムツゴロウさんに謹呈するのには全く見当外れだったと思う。しかし、その論文は、ムツゴロウさんにあこがれながら、ムツゴロウさんとは全く異なる青春を歩んだ僕の、青春の記念であったのだ。ムツゴロウさんは読んでくれたであろうか。