つまらない

 ものが詰まって滞るのはよくないことなのに、その反対の意味であるはずの「つまらない」が、いい評価でなく悪い評価を表すのは不思議だ。どうしてでしょう。そんな質問を受けました。
 なるほど、分かるような気もします。質問者は、「ああ、つまらない」と言うと、まるで「ああ、滞りがない」と言っているような、おかしな感じを持つのでしょう。
 違和感の原因は、「つまる」ということばが多義語、つまり多くの意味を持つ語だ、という点にあります。
 国語辞典には「つまる」の意味がたくさん載っています。超大型の『日本国語大辞典』第2版では、10の意味が並んでいます。そのほとんどは〈ある空間に物がいっぱいになる〉〈穴、通路などが奥でつかえる〉など、どちらかと言えば、よくない意味です。
 ところが、終わりに近い9番目には、いい意味も載っています。
〈決着がつく。筋が通る。なっとくできる〉
 今では使わない意味ですが、これならば、否定形にすると「決着がつかない。筋が通らない。納得できない」と悪い意味になります。「つまらない」の意味と矛盾しません。
「つまる」が、この9番目の意味で使われた具体的な例を、少し詳しく見てみましょう。狂言の「地蔵舞じぞうまい」という作品に出てきます。
 ある旅の僧が宿に泊まろうとします。ところが、なぜか「一人旅の客を宿泊させてはならない」というお触れが出ていて、宿の亭主は宿泊を拒否します。
 そこで、僧は、「この笠をあずけとうござる」と、被っていた笠を座敷に置いてもらいます。「笠だけならいいですよ」と、亭主はもらい受けます。
 すると僧は、あずけた笠の下に、体を丸くして潜り込みます。座敷の中で、笠が占めている空間は、笠が借りたものである。その笠は自分のものだから、笠の下ならば自分がいる権利があるというわけです。なるほど、いいアイデアのようですが、そんな狭い場所にいつまでもいられるわけがありません。亭主はあきれて言います。
〈もっともことわりにつまったが〔=話はよく分かったが〕、さりながら、笠より外へ出たらば何とせうぞ〔=笠の範囲から体がはみ出た場合はどうしますか〕〉
 ここで「つまる」が出てきます。「理につまる」は、「理屈が分かる」という、いい意味のフレーズです。亭主は「あなたの言う理屈は分かったが」と言っています。
 僧が「笠からはみ出た部分は、たたこうがどうしようが好きにして」と言うので、この後、亭主は面白がって僧の体をあちこちたたく、という展開になります。
 この「理屈が分かる」という意味の「つまる」が、否定形「つまらぬ」になると、「よく分からない」という反対の意味になります。これも実例を見てみましょう。
 江戸時代の浮世草子「御前義経記ごぜんぎけいき」で、主人公の男は、生き別れになった母や妹の行方を捜しつつ、遊里を渡り歩きます。ある女郎屋の遊女から母のことについて証言を得るのですが、居場所までは分かりません。そこで主人公は言います。
〈ありかの知れぬおはなしにて、少しつまらぬところあり〔=母の居場所が分からないお話で、少し納得のいかないところがあります〕〉
 ここで言う「少しつまらぬ」は、「少し面白くない」ではなく、「もうひとつよく分からない、納得がいかない」ということです。
 さらに、「つまらぬ」は、「納得がいかない」から意味変化を遂げて、「決着しない。このままでは困る」の意味でも使われます。
 江戸時代の『鳩翁道話きゅうおうどうわ』という一般向けの心学(今で言う倫理学)に関する本に、この「つまらぬ」が出てきます。これも例を見ましょう。
 ある貧乏な一家の亭主がいました。よくよく生活に困って大根売りを始めますが、一日売り歩いても儲けがありません。その日も、売り上げがまったくなし。
〈財布の中には、まだ一文の銭もたまらず、これはつまらぬ〉
 この場合の「つまらぬ」は、大根が売れなくて面白くない、ではなくて、「困った」とほぼイコールの用法です。ものごとが決着しなければ、困るのは当然です。意味変化としては自然な流れです。
 亭主は困り切った挙げ句、魔が差して盗みを働きます。でも、すぐに見つかり、死ぬほどの恥ずかしさとともに心を入れ替えるという、心学の本らしい結末になります。
 ここまで意味が変化すれば、現代語の「つまらない」までの距離はごく近くなります。ある映画を見ていて、その完成度にどうも「納得がいかない」、楽しめなくて「困る」という場合、その気持ちが「つまらない」なのです。
 まとめると、「つまる」には「滞る」などのよくない意味以外に、「分かる」といういい意味がありました。その否定形「つまらぬ」は当然悪い意味で、「納得できない」「困る」などの意味で使われました。現代の私たちの使う「つまらない」(=面白くない)の中にも、そのもとの意味である「納得できない」「困る」という要素は入っています。ごく大雑把ですが、これが「つまらない」の歴史です。
 明治時代には、「納得できない」「困る」という元の意味はすでに意識されにくくなっていたようです。国木田独歩は「ツマラ無い」と当て字をしていますし、「つまらなき」と書く人もいました。「つまらない」の「ない」は否定の助動詞であり、「無い」とは別なので、「つまらぬ」とは言えても「つまらなき」とは言えません。

くだらない

「つまらない」の話をしたので、ついでに「くだらない」の話もしましょう。つまらん、くだらんと言わずにおつき合いください。
「くだらない」の語源が忘れ去られている度合いは、「つまらない」と同じか、それ以上です。ネットの情報では、いろいろとんでもない語源説が現れています。
 朝鮮半島に昔あった国「百済くだら」と関連づける説があります。「百済にないものは品質が劣る、『百済にない』から『くだらない』なのだ」というわけです。
 おかしいことはすぐに分かりますね。「くだらぬ」と言える以上は、「くだらない」は「くだる」の否定形です。「百済」説は、一瞬で消えました。
 もうひとつ、根強く信じられている説があります。それは、江戸時代の酒に起源を求める説です。
 当時、上方から地方に下る品物のことは「下り物」と呼ばれました。酒にも、上方から江戸に送られる「下り酒」がありました。ここまでは本当です。
 ところが、ここから先があやしくなります。上等な下り酒に対して、下り物でない江戸の酒は下等でまずい、そこで、品質が悪いことを「くだらない」と言った、と説明されることがあるのです。著名な作家の文章で見たこともあり、テレビでこれまた著名な江戸風俗研究家が紹介しているのを見たこともあります。
 これも、実はすぐに否定されなければならない説です。というのも、下り物の現れる以前の江戸時代初期、またはそれ以前に、「くだらぬ」の使われた例があるからです。
 たとえば、江戸時代の最初期に出た日本語・ポルトガル語の辞書『日葡にっぽ辞書』に、
〈この経の義がくだらぬ〔=このお経の意味が分からない〕〉
 と記されています。つまり、「くだらぬ」は、「意味が分からない」という意味で、昔から使われていたのです。意味の分からないものは評価が低くなります。そこから今の「取るに足りない」という意味の「くだらない」につながるのです。
 おや、あることばの意味変化とそっくりですね。そのとおり、これは「つまらない」がたどった道筋と同じです。「つまらない」も、「分からない、納得がいかない」という意味が変化して「面白くない」という意味になりました。分からないものの評価が低くなるというのは、一般性があるわけです。
 私の携わる『三省堂国語辞典』第7版では、「くだらない」の項目で「下り酒」説を否定しています。そのためも多少はあるのか、この間違い説は、以前に比べて聞かれなくなったような気がします。