ふいんき

雰囲気ふんいき」のことを「ふいんき」と発音する人がいます。昔、私が学校に通っていた頃の友人にもいました。彼は「正解」を知って、「えっ、『ふんいき』なの。『ふいんき』じゃないの」と驚いていました。
 ――あれは小学校の頃だったか、中学、高校の頃だったか。今となっては記憶が曖昧です。「発言者は、あいつだったかな」という候補が、小中高それぞれの時代にいて、確定できません。誰の発言だったかによって、私が「ふいんき」を最初に聞いたのは1970年代だったのか、80年代だったのかが変わってきます。
 こういうことは、辞書を編纂へんさんする上では大問題です。昔の自分に会う機会があれば、「変わったことばを聞いたら、すぐにメモしておけよ」と忠告してやりたい。「大人になった時、仕事にすごく役に立つからな」。まあ、未来の自分にいきなりそう言われても、少年の私は実行しなかったでしょうが……。
 井上史雄ふみお鑓水兼貴やりみずかねたか『辞典〈新しい日本語〉』によれば、「ふいんき」という語形についての報告は、すでに86年にあるそうです。北海道・新潟・四国各地・熊本に点在していたとのこと。香川県の高校を86年に卒業した私が、地元で「ふいんき」を聞いたことがあったのは、報告の内容と矛盾しません。
 この「ふいんき」という語形は、90年代には日本語研究の分野でよく取り上げられはじめ、2000年以降には一般の人の話題にも上るようになりました。
 古いほうはどこまで遡れるでしょうか。1973年に出版されたある学術書に〈親しみのかんじられるふいんき〉というフレーズがありました。研究者が「ふいんき」を使っている! 驚いて、初出の学術雑誌を確認してみると、こちらはちゃんと「ふんいき」となっていました。誤植だったんですね。
 この例では、73年のある日ある時、誰かは分からないけれど、植字工が「ふんいき→ふいんき」と活字の順番を間違えてしまったらしい。うっかり手元が狂っただけなのか、それとも、その植字工が普段から「ふいんき」と言っていたのか。もし後者ならば、70年代の「ふいんき」の例になるのですが。
 ともあれ、「雰囲気」ということばは、遅くとも80年代には「ふいんき」とも発音されるようになっていました。どうしてそうなったのか、興味が湧きます。
 もともと「雰囲気」は、幕末の物理学書に出てくることばです。意味は、地球を取り巻く「大気」ということ。単に「雰囲」とも言います。「雰」は、霧とかもやとかいう意味なので、「雰囲」とは「もやもやした周囲の物質」というくらいに考えていいでしょう。すると、「雰囲気」はさしずめ「もやもやした周囲の空気」です。そこから「その場の空気」の意味が発生しました。
 このように、漢字の意味が分かっていれば、けっして「ふいんき」という発音にはなりません。ところが、漢字を知らない人もいた。特に、戦後、日常生活で使用する漢字が制限され、「ふんい気」と書かれるようになると、これを何となく「ふいんき」と読んでしまう人も現れた。これが考えられる説明のひとつです。
 戦後すぐの46年に「当用漢字表」というものが内閣によって告示されました。これは、できるだけこの表の範囲内で漢字を書くようにせよ、という制限的色彩の強いものでした。「昆虫」の「昆」も、「洗濯」の「濯」も表にはなくて、人々は「こん虫」「洗たく」と書いていました。「雰」も表には入っていませんでした。
 これでは毎日の生活が不便だというわけで、81年に新たに「常用漢字表」が告示され、95字が表に追加されました。表の性格も、「これをひとつの目安にしてください」と、制限色が弱くなりました。「雰」の字はこの時に追加されたのですが、遅きに失したかもしれません。
「ふんいき」が「ふいんき」になった理由は、音声面からも説明できます。これはちょっとややこしいのですが、ざっくり説明しましょう。
 普通にローマ字で書くと、「ふんいき」は「fun-i-ki」です。ところが、実際にこれを発音する時、私たちは独特の発音をします。nの前後の母音は、ちょっと鼻に掛かるのです。甘えて「ねーえ」と言うと、鼻声になりますね。母音があの感じになります。
 鼻声になった母音(鼻母音)を[ ]で表すと、こんな感じです。
   f [u] n - [i] - ki
 つまり、「u」も「n」も「i」も全部鼻に掛かった音、ということは、きわめて似た音になってしまうんですね。
 そのため、ちょっと試していただきたいのですが、「ふんいき」を早口で何度も発音すると、「u」「n」「i」のあたりが非常に聞き取りにくくなります。「フーイキ」とも「フイキ」とも「フイーンキ」とも聞こえます。この聞き取りにくさが、「ふいんき」を生み出したと考えられます。
「ふんいき」は、どんな漢字を書くか頭に浮かびにくいし、発音しても途中が鼻に掛かって聞き取りにくい。こうなると、「ふいんき」という変異形が生まれるのはごく自然だったとも言えます。
「雰囲気」と漢字で書いてあった場合、さすがに、これを「ふいんき」とは読みそうにありません。でも、「山茶花さざんか」だって、漢字をそのまま読めば「サンザカ」なのを、現代日本語では「サザンカ」と読んでいます。そのうち、「雰囲気」と書いて「ふいんき」と読むのが標準形にならないとも限りません。

サザンカ

「ふいんき」ということばが「雰囲気ふんいき」から生まれた理由について、「花の『サザンカ』が、『サンザカ』から変化してできたのと同じことだ」と、しばしば説明されます。冬に庭に咲くあの花は、本来「サンザカ」と言ったらしいんですね。
 こんなふうに前後の音がひっくり返る現象を、専門的には「音位転換」と言います。私が学生の頃は「音位転倒」と習いましたが、まあ、どっちでもいいです。
 音位転換は、似た音同士の間によく起こります。NHKのニュースを聞いていたら、アナウンサーが「ゴマフアザラシ」を「ゴマフアラザシ」と言っていました。「ザ」「ラ」の発音は、口の形も舌の位置も似ています。言い損なうのもむべなるかな。
「ふんいき」の場合、前に述べた理由で「ふいんき」にも聞こえるので、そのように発音する人が現れるのは理解できます。一方、花の名前のほうは、本来「サンザカ」と言っていたとして、それはどう聞いても「サザンカ」にはならないはずです。「サンザカ」「サザンカ」は、耳で聞いた印象がはっきり違います。
 それなのに、どうして音位転換が起こったのでしょうか。
「サンザカ」は、漢字の「山茶花」の読みです。「山茶花」は、中国語ではツバキを指します。山に咲く、茶の仲間の花(どちらもツバキ科)という意味。これが日本語に入ると、見た目がツバキに似た別の花(すなわちサザンカ)を指すようになりました。
「サンザカ」の発音が「サザンカ」になるためには、互いの音がよく似ている必要があります。現代語の発音では両者ははっきりと違うのですが、その昔、両者の音が紛らわしかった時代があったと考えられます。
 ちょっと話は飛びますが、東北方言では、「まずまず」と言うとき、「マンズマンズ」のように弱い「ン」が入ります。「窓」は「マンド」で、やはり弱い「ン」が入ります。このように、方言では「g・z・d・b」の前に弱い「n」が来ることがあります。実は、江戸時代初めまでの日本語では、この東北方言のような発音が一般的でした。
 当時、「あざ」と言おうとすれば、弱い「ン」が入って「アンザ」のようになったはずです。ぼんやり聞くと、「痣」なのか、「安座あんざ」なのか、紛らわしかったでしょう。
「山茶花」の発音も、当時の人にとっては、「サンザカ」なのか、「サザカ」なのか、両者の発音が現在よりも近かったために、紛らわしかったと考えられます。それで、「サンザカ」が「サザンカ」に変化しやすかったんですね。
「サザンカ」ということばが成立したわけを考えることで、昔の日本語がどう発音されていたか、その一端を推測することができるのです。