セレンディピティから生まれたプラスチック

 そんなプラスチックがどのように作り出されてきたか、順を追ってみてみよう。よくプラスチックのことを「合成樹脂」と呼ぶように、樹脂(松ヤニなど、木の樹液を乾燥させて得られる固体)は人類が最初に利用したプラスチック様物質であった。といっても用途は接着剤や滑り止めなど、限られたものでしかなかった。

 漆も、こうした樹脂の一例に当たる。ウルシノキから得られる樹液を、木材などの表面に塗って乾かすと、含まれるウルシオールという成分が酸化され、互いにつながり合って高分子となる。いわば漆器は、プラスチックの遠い祖先に当たるといえよう。

ウルシノキ
漆(Wikipedia Commons / CharlieHuang)
漆器


 人工的なプラスチックが生まれるのは、時代もだいぶ下った19世紀後半になってからのことだ。プラスチック第一号の発見のきっかけを作ったのは、スイスの化学者クリスチアン・シェーンバイン(1799-1868年)だ。1845年、彼が家の台所で実験を行なっていたところ、硝酸と硫酸を床にこぼしてしまった。家での実験は妻に禁止されていたため、彼はあわてて妻のエプロンで床を拭き、それをストーブの上に吊るして乾かそうとした。とその瞬間、エプロンは炎を上げ、一瞬にして燃え尽きたのだ。

クリスチアン・シェーンバイン


 これはエプロンの成分であるセルロースが硫酸の作用で硝酸と化合し、ニトロセルロースができたためであった。この化合物はよく燃えるため、後に「綿火薬」として戦場で活躍することになる。

 1856年、イギリスのアレクサンダー・パークス(1813-1890年)は、このニトロセルロースに20%ほどの樟脳を混ぜると硬化することを発見する。ジョン・ハイアット(1837-1920年)はその簡便な製法を工夫して実用化し、「セルロイド」と名付けて売り出した。

ジョン・ハイアット


 自由に成形可能でありながら硬く丈夫という、それまでにない性質を持ったセルロイドは、メガネフレーム、入れ歯、ピアノの鍵盤、刃物のグリップなどに広く用いられ、爆発的な売れ行きを示した。これら商品の多くはそれまで象牙で作られていたから、セルロイドの発明は象の密猟を激減させ、多くの象の命を救う結果にもなった。

 1889年には、イーストマン・コダック社がセルロイド製の映画フィルムを開発し、1950年代ころまで広く使用された。セルロイドは、20世紀の文化の重要な担い手ともなったのだ。

コダックの創業者ジョージ・イーストマン


 ただしセルロイドの弱点は、前述のように極めて燃えやすいことであった。セルロイド製のビリヤード球がぶつかり合った瞬間に衝撃で爆発が起き、銃声と勘違いした男たちが撃ち合いを始めたという逸話さえ残っている。その他、映画のフィルムも映写機や照明の熱で発火しやすいために何度も火災の原因となり、多くの人命を奪っている。

 このためセルロイドは製造・貯蔵に厳しい規制がかけられ、より扱いやすいプラスチックが出現した現在では、見かける機会が少なくなった。今やセルロイドはほとんどお役御免となっているが、材料の歴史において果たした役割は極めて大きかったといえる。

悲劇の天才たち

 このあと1907年には、化学者レオ・ベークランド(1863-1944年)が、フェノールとホルマリンから硬い固体を作り出せることを見出し、「ベークライト」と名付けて売り出した。これは完全な人工合成プラスチックの第1号といわれ、今も電気製品の絶縁体として用いられている。

レオ・ベークランド


 こうした状況を受け、学問的な面からの理解もようやく進み始めた。1920年には、ドイツのヘルマン・シュタウディンガー(1881-1965年)によって、巨大な分子、すなわち高分子の概念が提出された。しかし、当時は原子数が数十から数百程度の小分子しか知られていなかったから、彼のアイディアはあまりに突飛と受け取られた。中には「親愛なる友へ。大きな分子などという考えは捨てたまえ。巨大分子などというものは存在するわけがない」と、わざわざ手紙で「忠告」する同僚さえいたほどだ。また、平和主義者であったシュタウディンガーがナチ政権から迫害を受けたことも影響して、巨大分子説はなかなか広く認められるには至らなかった。

ヘルマン・シュタウディンガー


 この説を実験の面から証明しようと考えたのが、アメリカの化学者ウォレス・カロザース(1896-1937年)であった。彼はもともとハーバード大学に籍を置く研究者であったが、その才能を見込まれて1928年にデュポン社に引き抜かれ、企業の利益に直接結びつかない基礎研究を行なう部門を統括することとなった。ここでカロザースは、高分子の合成を試みることとしたのだ。

ウォレス・カロザース


 彼の考えた方法はこうだ。Aという原子団とBという原子団は、反応させると互いに結合してABとなる。電車の連結器のようなものだ。では、分子の両端に連結器となる原子団を取りつけたもの、すなわちA-AとB-Bを混ぜ合わせれば、-AB-BA-AB-BA-……と、長い編成の列車のように、どこまでも細長くつながった分子ができるのではないか、というものだ。

 こうして1934年までに、いくつかの高分子らしきものが作られ、基礎的研究は進んだものの、製品に結びつきそうなものはなかった。たとえば、「連結器」としてアミンという原子団と、カルボン酸という原子団を用いる実験は比較的簡単で、筆者も中学校の時に化学クラブの活動の一環で試してみたことがある。しかしできたのはとろろ昆布のような物体で、何かの役に立ちそうなものにはとうてい見えなかった。

 ところがある日、カロザースの部下の一人が、この塊を棒につけて引っ張ってみたところ、長く伸ばせることに気づいた。彼らはカロザースが留守の日に、どこまで長く伸ばせるか試そうと、部屋中を走り回りながら引っ張ってみたところ、絹糸に似た丈夫な繊維ができていた。これが合成繊維第一号である、ナイロンの誕生であった。

ナイロンの3Dイメージ図(Wikipedia Commons / Michael Ströck)


 カロザースが合成した高分子は、アジピン酸とヘキサメチレンジアミンという2種の分子が交互に連結し、長い鎖のようになっていた。しかし合成直後の分子はただスパゲティのように絡まり合っており、その真価を発揮できない状態にある。しかしこの鎖を引っ張ると、多数の分子が一方向に揃えられ、互いに引きつけあってまとまりのよい束になる。これが、「とろろ昆布」が丈夫な繊維に化ける秘密だ。

 このように高分子の性質は、分子個々の構造というより、分子同士がどう寄り集まるかが大きく影響することが多い。高分子を長く引っ張る手法は「冷延伸法」ともっともらしい名前がつけられ、丈夫な繊維を作る手法のひとつとして定着しているが、もとは研究者のお遊びであったわけだ。

 ナイロン製のストッキングは1940年にアメリカで発売され、「石炭と空気と水からつくられ、クモの糸より細く絹よりも美しく、鋼鉄よりも強い繊維」のキャッチフレーズで大きな評判を呼んだ。現在隆盛を極める、合成繊維の時代はここに幕を開けたのだ。最初から製品化を目指した研究ではなく、純粋に学術的な研究からこうした成果が生まれたことは興味深い。

ナイロン製のストッキングを眺める女性(Wikipedia Commons / Erik Liljeroth, Nordiska museet)


 しかし、この歴史的な成果を挙げたカロザースは、強度のうつ病に悩まされ、ナイロンの製品化を見ることなく1937年に41歳の若さで自ら命を断っている。生きて永らえていればさらなる大きな成果を出すこともありえたであろうし、1953年のノーベル化学賞を前出のシュタウディンガーと分け合っていたのではとも思える。科学史に残る天才の、あまりに惜しすぎる死であった。

王者ポリエチレンの誕生

 プラスチックの種類は多様だと書いたが、ポリエチレンはその王者といえる存在だ。いわゆるポリバケツやポリ袋など、身近で使われるプラスチック製品の多くがポリエチレンでできている。生産量でいえば全プラスチックの約4分の1を占めており、今後もその地位が揺らぐことはしばらくないだろう。

 このポリエチレンも、発見には偶然が関わっている。カロザースがナイロン研究に取り組んでいたのと同時期の1935年、イギリスのインペリアルケミカル工業(ICI)社において、エチレンガスをベンズアルデヒドという物質と反応させる実験が行われていた。異変が発生したのは、1400気圧、170度という高温高圧をかけたある日の実験後のことだ。反応容器を開けてみると、内部が白いワックス状のもので覆われていたのだ。

ICIが作ったポリエチレン製のピルケース(Wikipedia Commons / Geni)


 やがてこれは、エチレン同士がたくさんつながり合った物質、すなわちポリエチレンであることが判明する。では狙ってこれを作るにはどうすればいいのか?これを作ろうとする実験の際、偶然の女神は再び彼らに微笑んだ。装置内にエチレンを注ぎ足す際、微量の酸素が一緒に入りこんだのだ。この酸素は、エチレン同士が連鎖的に次々とつながり合う反応を起こすスイッチ、すなわち「触媒」として働く。純粋なエチレンだけでは、何も起きなかったはずだ。

 こうしてポリエチレンの製法が確立され、生産プラントが動き出したのは1939年、すなわち第二次世界大戦の始まった年だ。このタイミングは、世界の歴史にとって決定的に重要であった。ポリエチレンは、レーダーの設計に革命を起こしたのだ。

 この時期、レーダーの開発に各国がしのぎを削っていたが、艦船や航空機への搭載はまだ不可能であった。しかし、軽量かつ電気絶縁性に優れたポリエチレンの登場により、アンテナなどの部品デザインの自由度が一挙に増したのだ。

 1941年には、英軍はレーダーを搭載した夜間戦闘機を開発し、ドイツ軍の夜襲を封じた。また、第一次世界大戦の時代から、ドイツ軍に数々の戦果をもたらしてきた潜水艦「Uボート」も、レーダー出現後は、これを搭載した英軍潜水艦によって次々と撃沈されてゆく。イギリスはレーダー技術を友邦アメリカにも供与し、これが太平洋戦争の戦局を変える大きな要因ともなった。ポリエチレンの出現は、日本にとって、また世界にとって実に運命的であったとしかいいようがない。

英軍の夜間戦闘機モスキート


 実はポリエチレンの発見は、これ以前にもなされていた。古く1898年には、ドイツのハンス・フォン=ペヒマン(1850-1902年)が、ジアゾメタンという化合物を作る際に偶然白いワックス状物質ができたことを観察し、これを「ポリメチレン」と名付けている。しかし当時の技術では取り扱いが難しかったのか、これ以上の進展はなかったようだ。

ハンス・フォン=ペヒマン


 また1930年には、米国のカール・マーベル(1894-1988年)の研究室で、エチレンガスを使った実験が行なわれた際に、やはり副産物としてポリエチレンができていた。残念ながら彼らはこれをあっさりと捨ててしまい、世紀の大発見を逸している。後に彼らは「あのワックスが何かの役に立つなど思いもしなかった」と語っている。もしICI社の研究陣が、マーベル同様にポリエチレンの価値に気づくことなく捨ててしまっていたら、果たして世界はどうなっていただろうか。

 述べてきた通り、プラスチックの歴史は偶然の発見の連続だ。たとえばテフロンもまた、テトラフルオロエチレンという気体に高圧をかけた際に偶然生まれたものだ。ポリカーボネートは、望みの試薬の在庫がなかったので、化学者が手近にあった似た化合物を試しに使ってみたところ、予想外に高性能なプラスチックができたという経緯で生まれている。各種プラスチックの生産性と質を飛躍的に高めた、チーグラー・ナッタ触媒の発見も、実験装置に残った汚れによる予想外の結果を、徹底的に追求した結果生まれたものだ。

 
カール・チーグラー(1898-1973年)(左)と
ジュリオ・ナッタ(1903-1979年)(右) 
 


 プラスチックは、それまで自然界になかった物質であるため、その発見や改良には既存の方法論が通用しなかった。紆余曲折を積み重ね、まぐれ当たりに恵まれながらの前進であったのは、未開の荒野に道を切り拓いてきた苦闘の結果だ。

 しかし現在では、多くのノウハウが積み重なり、様々な機能を持たせたプラスチックを設計できる段階に入っている。白川英樹博士(1936年- )らの開発した導電性プラスチックなどは、中でも大きなマイルストーンであった。現代では、発光や発電といった機能を持つプラスチックさえ登場しつつあり、今後我々の暮らしを支える存在となっていくだろう。

 豊富にある石油などの原料から作られ、汎用性も高く、優れた機能も持たせうるプラスチックは、現在材料の基礎にして花形、そして前衛でもある。人類の創造した材料の最高傑作は、今後なお進化を続け、文明の伴走者の地位を譲らぬことだろう。