幸田文に「勲章」という比較的よく知られた文章がある。半世紀以上まえに書かれたものだが、その文章を20世紀末に、老年後期に足を踏み入れた鶴見俊輔が読み、ここにはいまの私につうじるなにかがあるぞと、なかの一行をじぶんの備忘録「もうろく帖」に書き写した。

書ければうれしかろうし、書けなくても習う手応えは与えられるとおもう。

 ――と前回、そう紹介しながらも、ちょっと気になったことがある。
 鶴見さんは、というよりも私は、ここで幸田文さんの「書ければ」や「書けなくても」の「書く」を「文章を書く」ことと理解し、かの女の「習う手応え」を、そのまま鶴見さんの「知る楽しみ」にかさねている。でも、ほんとにそれでいいのかね。書くうちに、そのあたりの判断がしだいにあやふやになってきたのだ。
 ――具体的な目標があっての読書ではなく、ただ「知る楽しみ」をもとめて本を読みつづけるうちに、いつのまにか、じぶんがこの世から消えていた。
 鶴見老が、もしくは私が、みずからの老人読書についてそう考えるのはいいのですよ。でも、この「勲章」という文章を書いたころの、まだ40代だった文さんまでがおなじように考えていたというのは、ちょっとむりがあるんじゃないかな。
 鶴見さんはさておき、私についていうと、幸田文に「勲章」という作品のあることは知っていたし、いちど読んだという記憶もある。
 父・幸田露伴が、長岡半太郎や佐佐木信綱や横山大観とともに第1回の文化勲章を受けた。それが1937年4月。私の生まれたのが38年の4月だから、そのちょうど1年まえ。当時、新川の清酒問屋の息子と結婚していた文さん(ほどなく離婚)は、8歳の長女(青木玉)をかかえて日々の重労働に追われていた。姑の冷たい目。自分勝手な夫。すぐに父をたずねて祝いをのべる余裕も与えられない。そうしたあれこれを戦後しばらくたって書きとどめた長めの随筆だったと思う。
この随筆を鶴見さんは岩波書店からでた『幸田文全集』で読んだらしい。私? 私はたぶん文庫判『ちくま日本文学』の「幸田文」の巻で読んだんじゃなかったっけ。
 そこで手持ちの同書をめくってみたら、予想どおり、ちゃんと巻頭に収録されている。ところが、ありゃりゃ、かんじんの1行がどこにも見当たらないじゃないの。

ちくま日本文学・幸田文』では、「勲章」のラストはこんなふう。
 

 すこしあわてて地域の公立図書館のサイトに接続し、蔵書検索のページでしらべると、『幸田文全集』の第12巻に、たしかにもうひとつ、おなじ「勲章」というタイトルのごく短い文章のあるのがわかった。図書館に行って現物に当たると、さきの「勲章」の成立過程を回想する、いかにも幸田文らしい、さばさばした口調の短文である。巻末の「後記」によると、1962年3月、『朝日新聞』朝刊の「わが小説」というコラムにのったものだという。
 正確にいえば、こちらは「わが小説」=旧作「勲章」について語る主旨のものなので、作品名にカギ括弧がついている。とすれば、ここでは括弧をふたつ重ねて「『勲章』」と表記すべきなのだろうが、なんだかごたごたしそう。思い切って、ふたつある「勲章」の前者を「勲章a」と、後者を「勲章b」と呼ばせていただく。
 で、その「勲章b」によると、前者の「勲章a」が『文学界』1949年3月号に掲載されたさい、小説として扱いたいという編集部の上林吾郎と、「いつもの通り」の作文を「小説と銘うたれたら」「さぞ気ぶっせいなことだろう」とこばむ文さん(当時44歳)とのあいだで、ちょっとした対立があったらしい。けっきょくは文さんがじぶんの「」を押しとおすのだが、あとですぐ後悔した。どうせ「微々たる短文章なのだから、上林さんほどのひとに小説といわれたら、なぜ素直に小説にしておかなかったか」――いやな女だなァ、と自嘲し、そしてこうしめくくる。

こちらが、『幸田文全集・第十二巻』(岩波書店)の「勲章」。

 六十の手習いということがある。あれはごく自然なのか、とおもう。(略)行儀のよくないのも、ぞんきなことをやってしまうのも、我の強いのも説教好きなのも、それはそれとして、そろそろ手習いをする時間かもしれない。書ければうれしかろうし、書けなくても習う手応えは与えられるとおもう。

――おやおや、こんなところにあったのか。ホッとしましたよ。

「ぞんき」とは「無愛想」を意味する江戸ことば。それもふくめて「行儀のよくない」から「説教好き」まで、すべてがじぶんのやっかいな性癖へのなげき。このコラムにかぎらず、たとえば文さんは、ある昔なじみの編集者(矢口純)との対談でも、ざっくばらんにこう語っている。
「あたし若い時からね、女らしいとか優しいとかって言われたことないの。強い、強情っぱり、そいから頑張り。(略)頑張りっていうの、父はあんまり好きじゃなかった。〝偉い〟っていうのは、イライラするの『イラ』から出ていて、その『イラ』には、 とげがあるって言うんですね」(『増補 幸田文対話』)
 そんな私をいやがって父さんがフンとそっぽを向く。ことほどさように私は業の深い女なのよ。どうやら日ごろ、そんなふうに文さんは感じていたようなのだ。
 そして「手習い」は習字、つまり「文字を書く練習」のこと――。
 ただし、この「勲章b」を書いた1962年には、かの女はもう半シロウトの物書きではなく、すでに『流れる』や『おとうと』などの代表作をもつ、れっきとした小説家になっていた。したがって、ここで文さん(当時57歳)が「書ければうれしかろう」としるしたときの「書く」は、文字ではなく文章、とくに小説をさしていたことになる。まずは心を落ちつけて、いっそう「小説を書く練習」にはげみ、あわせて我がつよく無愛想なじぶんの さが めなおそう、まだおそくはないぞ。いささかわかりにくいけれども、おそらくそんな意味合いだったのだろうという推測がつく。
 ――ふうん。でも、もしそうなら鶴見さんは幸田文の小説修行という本来の文脈を無視し、問題の一行を、70代もなかばをすぎたじぶんの境遇に合わせて、むりやり老人読書の話にしてしまったことになるぜ。それでいいの?
 ――だからさ、私もそのことがちょっと気になっていたのよ。
 そう答え、いや待てよと、さらに考える。ただね、いちおうはそうなのだろうが、かならずしもそれだけじゃないかもしれんよ。

 ではなぜ「それだけじゃないかも」なのか。
 さきにのべたように幸田文が「勲章a」を書いたのが1949年3月号。そしてその2年まえ、1947年7月には露伴が満80歳で没している。
 その直後から、それまで文章を書こうなどと思ったこともなかった文さんが、編集者のすすめもあって、最晩年の父とその死をめぐる一連の随筆を発表しはじめる。「雑記」「終焉」「葬送の記」など。それらが評判を呼び、以来、新聞や雑誌の求めに応じて、娘の目から見た老文豪の暮らしのスケッチを、切れ味のいい文体で書きつづけることになった。「勲章a」も、じつはこの流れのなかで、文さんいうところの「いつもの通り」の作文として書かれたものだったのだ。つまり文さんは、この段階ではまだ、じぶんをただのアマチュアと見なし、プロの作家だなどとは考えてもいなかったのである。
 もし生前の父が私のなかにそんな気配を感じたら、なにをいわれたかわかったもんじゃない。想像しただけで気ぶっせい(うっとうしい)。だからこそ彼女は、じぶんの作文を「小説」にされてしまうことに、あれほどかたくなに抵抗したのだろう。
 そして、そのことと関連してもうひとつ――。
 のちに「勲章b」の末尾に「書ければ」とか「書けなくても」としるしたとき、文さんの頭には、まずじぶん自身の「書く」があった。それは既述のとおり。しかし、でも、たぶんそれだけじゃないな。あのよるべない日々を回想しながら、かならずや文さんは、じぶんが見守るまえで、あっというまに書くことも読むこともできなくなっていった父のすがたをも、あわせて思いだしていたにちがいないのだから。
 露伴の心身のおとろえは、すでに70代にはいるころから顕著になっていた。文さんも、さきにあげた「雑記」という随筆で、父は「古稀の頃から『年毎に老いを覚えて』と云っていたが、喜寿の頃には『月毎に磨り減って来る』と云った。今では日毎に感じているのではあるまいか」とのべている。
 膝や腰にガタがきて、急には立ち上がれなくなった。かがむこともできないし、手ぬぐいや布巾も満足にしぼれない、歯が「がくがく」して痛み、好物の、やわらかく塩蒸ししたアワビも噛めなくなった。のみならず視力がいちじるしくおとろえ、耳もよく聞こえなくなっている。

 眼は白内障だから、もはや眼鏡はおっつかないらしい。ものを読むことはもう諦めている。ツァイスの拡大鏡を使えばまだ読むことができた時分であるが、雑誌関係の或る人の請を断りかねて原稿の依頼を取次ぐと、「わたしはもうじき読めなくなる、しかも読みたい本はどっさりだ。書いている時間は無いよ」と云った。が、今はもう読みたい為にいらつくということは無く、心静かにいる。

 つまりはそういうこと。
 露伴が死んで15年。このころ「勲章b」を書く幸田文は、まだ、かつて住みなれた小石川の住居「蝸牛庵」を空爆で焼かれ、ようやく移り住んだ千葉県市川市菅野の茅屋 ぼうおくで、
「わたしはもうじき読めなくなる」
 とつぶやいた生前の父のすがたを忘れていなかった。
 その結果、文さんがしるす「書ければうれしかろうし」という一文には、あらためて「書く」をえらんだ気丈な娘のすがたとともに、とうとう「書く」も「読む」も不可能になった亡父の失われた希望のかたちまでが二重写しされることになった。意図してそうしたのかどうかはわかりませんよ。だがどちらにせよ、読む者はこの文章の背後に、読み書きの力をうばわれた老露伴のすがたがひそんでいることを、いやおうなしに意識させられてしまう。
 そしてこの「読む者」のうちには、とうぜん、さきの鶴見俊輔もふくまれる。鶴見さんは若いころから露伴の書くものが好きだった。老いた露伴が直面した苦境のことも知っていた。だからこそ文さんの「書く」を透かして見える露伴の「書けない」や「読めない」に、思わず知らず、じぶん自身の今後をかさねてしまった。そういうことだったのではないだろうか。
 ――あなたと同様に、私も書ければ(読めれば)うれしい。しかし、もし書けなくなった(読めなくなった)としても希望の最後の一片はのこるだろう。
 誤読? 
 もしかしたらね。しかし、もしそうだったとしても、もともと鶴見俊輔は、みずからいう「誤解する権利」を最後まで捨てずに生きた人なのだ。まちがいなくして発見なし。そういいきる確信的な「まちがい主義者」でもあった。とすれば誤読OK、もしそれがもうろく老人の誤読であればなおさら。そう考えていたとしてもふしぎはないと私などは思うのだが、どんなものであろうか。

幸田文(昭和48年5月)。『ちぎれ雲』に、「雑記」が収められている。
 

 幸田露伴の「最後の読書」について、もうすこし書いておこう。
 1943年から敗戦をはさんでの5年間、露伴の助手役をつとめた塩谷賛 しおたにさんという人物がいる。本名を土橋利彦といい、のちに中央公論社から『幸田露伴』という全三巻の大きな評伝をだす。それによると、この年のはじめごろ、白内障に苦しむ露伴が、じぶんに代わって読み書きしてくれる助手をさがす覚悟をやっとかためたらしい。そこでえらばれたのが、編集者としてしばしば露伴宅をおとずれていた土橋青年だった。

 白内障は全く見えなくなれば手術ができるが露伴はとにもかくにもまだ見えていたし、それに糖尿病があっては手術はかなわぬのだそうである。それでも手術がしてもらえるかどうかという確かめに、文子に連れられた形で東大へ行った。(略)診察を丁寧に受けたあと、「手術はやはりできませんですなあ」と言われた。(略)タクシーの便がないので眼科から正門まで歩かなくてはならなかった。露伴は治療のあと疲れたのでそろりそろりと歩く。初夏の日が暖かく朴の花が咲いている。その花も露伴には見えないのである。「そのへんに腰かけがあったら休みたいがな」と言う。露伴は額に薄く汗を掻いていた。そのくせ木蔭で休んでいると、「肌寒い感じがする」と言うのであった。そのとき、「目が衰えると気も衰えるものだね」と感慨を洩らした。

 書けないこともだが、それ以上に読めないことがつらい。文さんの随筆「結ぶこと」には、「眼もひどく薄くなってきているから、生きているうちの見える時間は有効に使いたい。書くより読むことのほうが大事 だいじでもあり、楽しい」という露伴のことばが記録されている。白内障が決定的に悪化するまえの内輪での宣言みたいなものだったのだろう。
 露伴は儒教や仏教思想や漢詩文などの「かたい本」にかぎらず、幼いころ熱中した絵入りの浮世草子や黄表紙にはじまり、白井喬二や中里介山や吉川英治や大佛次郎たちの新しい時代小説まで、かれがいうところの「柔らかい本」もさかんに読んだ。なかでも探偵小説や怪談や幻想的な魔法小説などの広義のミステリー本が好きで、じぶんでも「あやしやな」や「自縄自縛」にはじまり晩年の名作「幻談」まで、その手の小説をいくつも書いている。乱歩や小栗虫太郎がデビューした人気雑誌『新青年』も愛読していたという。送ってこないので、やむなくじぶんで買って読んでいたのだそうな。
 と、こう書けばおわかりのとおり。「好みの読書横町をそれからそれへと巡りあるくようだった」と文さんも「結ぶこと」で書いているごとく、鶴見さん同様、露伴もまた近代日本を代表するモーレツな雑書多読派のひとりだったのである。ただし年をとるにつれて、雑は雑でも、そのなかみは相応に変化してゆく。

 晩年の読書で少しばかり私が うかがって知っているのは、楽しく読むのが詩、読後あたまからそれが離れなくて、大好きなお酒を飲みながらも考えてしまうようになるのが金石の塡字 てんじ、おもしろがって読むのは地理書、それから医書、――これは齢をとって健康が案じられ、泥縄式知識を得ようとしたのではない、どんどん進化する外国医学を早く知りたがっていたのである。ことに心とか魂とかいうもの(原文傍点あり)を外国人がどう考え、どう取扱うかということなどである。

 古い石碑や金属器に刻まれた文字(金石文)を紙に写しとった拓本の欠字を一つひとつ推理して埋めてゆく。それが塡字。それと近所の日蓮宗の寺で買った法華経の二号活字で組まれた安価な経本。そのどちらかが「父自身が文字を読み、手に取った最後の本」だったのではないか、と文さんはいう。なるほどね、目が不自由なだけに、どちらも字が大きいや。晩年の露伴が「読みたい本はまだどっさりある」といったのも、あるいは、おもにこうしたものを指していたのかもしれない。
 そして、それに並行して、居間や書斎をかねる六畳の病室では、戦前期にはじまる『芭蕉七部集』の注釈作業がようやく終わりに近づいていた。
ただし露伴にはもう読み書きする力がない。書けない、話せない、でも読める。それが最晩年の鶴見俊輔だったが、視力を失った幸田露伴の場合は、読めない、書けない、でも話せる。――そこで口述筆記。それと調べ物とを助手の土橋にゆだねることになった、と幸田文の「雑記」にある。

 時々土橋さんに本を読ませて聞く。内容が気に入らない時にはおもしろい。「君、その著者は頭が悪くていかんね。どうしてそういう論が成立つ」と声に張りをもって来ると、そこにいる土橋さんは当の著者の代用品にされた形で、盛んに反撃を受ける。本物ではないから、はあ、そうですかなんてのんきにやっているが、七部集の時は仕事であり勉強であるから、(土橋さんは)一しょう懸命である。荷兮 かけいになったり支考になったり大童で説を立て論拠を構えるが、(略)「この句甚だおもしろからず、愚句なり」などと斬捨てる。ハテ斬られてけりになったか……。

 荷兮は山本荷兮、支考は各務 かがみ支考。かれら数人の弟子たちが、師を中心とする俳諧連歌(連句)から七つの歌仙をえらんだ。それが『芭蕉七部集』である。
 そのうちで最後にのこった発句(俳句)の注釈が今回のしごと。新旧の研究書や歌仙参加者の発言の記録がのこされているので、それらも利用して稿をつくる。クセのつよい論をする者がいると、かれらになりかわって土橋が説明する。しかし寝たきりの露伴はそう簡単には納得してくれない。そのつど七転八倒させられる。なかなか楽なしごとではなかったのだ。
 それでもなんとか作業を終えたのが1947年3月。そして4か月後の7月30日、露伴逝去。その年のうちに岩波書店から『評釈ひさご』『評釈猿蓑』刊行、『評釈炭俵』『評釈続猿蓑』があとにつづいて1951年に全7巻が完結した。

塩谷賛『幸田露伴(下)
 

 それにしても、視力を失った晩年の露伴は、文さんがいうように、ほんとうに「読みたい為にいらつく」ことがなくなっていたのだろうか。父さんは感情を枯れ木のようにして水底に沈めてしまうことができた。そう文さんはいうけれども、そしてそれは事実でもあったのだろうが、「目が衰えると気も衰える」という心理的などん底状態にあって、なおも「心静かにいる」には、それだけではいささか対策が足りない気がする。
 だとすると、もしかしたら露伴は、
 ――ちょっとした助けがあれば、「読めない、書けない、でも話せる」私でもつかいこなせる、なにか具体的なしかけがほしい。
 そう考えて助手をさがし、再開にこぎつけたのが『芭蕉七部集』の注釈作業だったのかもしれんぞ。書くうちに、だんだんそんな気がしてきた。だから鶴見さんでいう「もうろく帖」みたいなもの。無理筋かね。でも私のようなグータラ男とちがって、露伴先生はアタマだけでなくカラダもよく動く「手の人」だったからさ。いかに老いたとはいえ、そんなていどのたくらみなど平気でやってしまいそうじゃないの。

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幸田文『ちくま日本文学・幸田文』筑摩書房、2007年
幸田文『幸田文全集・第十二巻』岩波書店、1995年
幸田文『増補 幸田文対話(下)』岩波現代文庫、2012年
幸田文『ちぎれ雲』講談社文芸文庫、1993年(「雑記」を所収)
塩谷賛『幸田露伴(下)』中央公論社、1968年