学校も夏休みに入った6月中旬の朝、ヴェネツィアの知人から電話があった。
 「これから海に行こうと用意していた矢先に、外出禁止令が出たの」
 幼稚園と小学生の幼子二人の母親は、怒っている。
 海へ行くために早起きして家事を終え洗濯物を外に干したところで、空の向こうに黒煙がモクモクと立ち上るのが目に入った。またか、と思う間もなく、携帯電話にメッセージが入った。
 <緊急警報! マルゲーラ市の化学工場で火災発生。すぐに窓を閉めて、子供は屋外で遊ばないようにしてください>
 午前中からぐんぐん気温が上がり、すでに30度を超えている。海へ行けないと知ってベソをかく子供たちを大急ぎで風呂に入れる。干したばかりの洗濯物を取り入れて、洗い直しだ。しかも、大量。
 「どこか遠くへ引っ越したいわ」
 繰り返し起こる工業地帯の事故に、知人はうんざりしている。
 一家は、何代も前から暮らしていたヴェネツィア本島から、大陸側にあるその町に一軒家を建てて引っ越したばかりである。あまりに多い観光客のせいで、ヴェネツィア本島では普通の暮らしが難しくなったからだ。
 とにかく一年じゅう混んでいる。水上バスに乗るのもひと苦労だし、路地を歩くのもままならない。足元に注意していないと、地べたで野宿している観光客を踏みそうになる。橋や教会前の階段は、ベンチ代わり。座って飲み食いしたり休憩したりしている観光客に塞がれて通れず、橋の袂や建物の入り口に通行人が溜まり、混雑にさらに輪をかけている。
 乳母車を押し、買い物袋を提げ、幼子の手を引いて、ヴェネツィアを歩くのは至難の技だ。保育園に始まり小中学校のクラス編成も、学童の減少で人数割れしているところも多い。疲れ切って、大陸側に引っ越していく人は後を絶たない。2016年は、とうとうヴェネツィア本島の住民数が55,000人を割った。最低数の記録更新である。住民登録だけ残し他所で暮らす人も多いので、実際に暮らしている人の数はさらに下回るだろう。このままの調子でいくと、2030年にはヴェネツィア本島の住民が皆無、という悲観的な予測も出ている。
 一方、ヴェネツィアを訪れる観光客は年々増えるばかりだ。昨年の復活祭には、2日間で訪問者数が30万人を超えた。大陸から干潟を越えて通る道路は閉鎖され、ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅から、人気の観光名所であるリアルト橋、サンマルコ広場への訪問順路は一方通行に規制された。立ち止まることもできない。あまりの混雑ぶりに、商店も開業しているものの店の入り口のドアを開けないありさまだった。 
 「2017年2月1日までに、過剰な観光客のせいで住民の日常生活が脅かされている現状を打開するための策が講じられないようなら、世界遺産認定を取り消し、『危機にさらされている世界遺産』として登録する」
 昨年7月、ついにユネスコがヴェネツィア市に対して警告を公示した。

写真提供:Vania Vianello
 

 昔からヴェネツィアを訪れる人は多かったが、ここまで悲惨な状況ではなかった。カーニヴァルをはじめ、ビエンナーレ国際美術展、映画祭、手漕ぎ船の競争、大晦日の打ち上げ花火など季節ごとの伝統行事がうまく散らばっていて、合間に美術展や歌劇、コンサートが組まれて、各人各様の訪問を楽しめた。
 ところがこの10数年で、<一人でも多く一ユーロでも多く>という町へ変わってしまった。普通の暮らしが消えて、ヴェネツィアは商売を回転させる入れ物と化している。人情が消えた空洞の町だ。
 高層ビルのような超大型客船は、数千人の客を乗せてサンマルコ広場の前を通って本島前を横断して南西端へ入港する。都度、岸壁に押し寄せる高波で、古都はさらに傷んでいく。水路空路に加えて、陸路ではヴェネツィア行きの特急電車が開通し、高速道路が整備され大型車専用の駐車場も増え、近郊の町から日帰りの訪問者も増えている。物価の高いヴェネツィアでの宿泊や飲食を避け、来て、見て、帰る。商店や飲食店はそういう客たちも取り込もうと、手軽なテイクアウトの軽食を次々と売る。町ごと、屋外食堂だ。立ち食いに歩き食い。ゴミ箱は常にあふれ、カモメが食い散らかし、町はゴミ溜めとなる。町の品格は下がり、それに合わせるように訪れる人の身なりも振る舞いも下卑てくる。
 「裏の路地の隅は、公衆トイレよ」
 「酔っ払ってリアルト橋から下着で運河に飛び込んで泳いだ若者がいたし」
 「サンマルコ広場の回廊にテントを張ろうとした外国人観光客もいたな」
 「昨日、リアルト橋手前で羊にリードを付けて引いていた男の人を見たよ」

 
 

 夏になると、ビーチサンダルにショートパンツ、上半身は裸もしくはビキニ姿も増える。
 老舗は格と歴史を失うまい、と価格をさらに引き上げる。より多く払える客が品格ある客、ではないのに。
 ヴェネツィアから出ていった住人たちは、代々からの家や店を貸す。厳しい法律の盲点を突くようにして生まれたAirbnbが、あっという間に町を席巻した。空き家や空き部屋は、ヴェネツィアにはもってこいの新商材である。現時点で市当局が確認しているだけでも、25,400の客室に47,229のベッド数の宿泊施設がある。さらに増え続けている。

 一日のヴェネツィアへの入場者数を決めて団体客を調整する、とか、入場税を設ける、若い夫婦や家族が本島に住めば減税措置を受けられる、建物の修復を低利で提供する、民泊は一年に90日間に限定するなど、諸々の提案はあるものの、具体的に実施されてはいない。
 ユネスコから最後通告を提示されて、市政にはまだ解決手段がない。
 ユネスコの第41回世界遺産委員会は、7月2日から12日の間、ポーランドのクラクフで開催される予定だ。
 さてどうなる、ヴェネツィア。