三原山のスライダー

 シラカワ氏持参の国土地理院の地図を見ると、ちょうど外輪山の切れ目になっている場所から島の西南、間伏(まぶし)方面へと下る登山道の表記があり、そこに「滑台(すべりだい)」と名前がふってある。
 こんな山の上に滑り台?
 そうなのである。ここにかつて滑り台があったらしいのである。
 正確には三原山滑走台といい、事前にネットで検索したところ、古い白黒写真がヒットし、そこには長いレールの上をカートのようなものに乗って下りてくる女性の姿が写っていた。滑り台というよりは、スライダーと英語で呼びたい感じの乗り物である。
 昭和10年に造られ、600メートルの長さがあったそうだが、太平洋戦争が勃発すると昭和17年には鉄の供出のため撤去されたという。たった7年間だけのレジャー施設だったわけだ。
 それにしても、こんな場所にかつて長さ600メートルのスライダーがあったとは。
 想像するだけでワクワクする。
 今となっては叶わない夢だが、その滑走台に私も乗ってみたい!
 今回ここを目指してやってきたのは、そんなスライダーの在りし日の面影を追ってみようと思ったからだった。
 地図上で「滑台」とある登山道の終点、外輪山の切れ目にたどりつくと、そこにはコンクリートでできた土台が残っていた。横には壁らしきものの残骸もあって、全体として原型がどうなっていたのかはっきりとはわからない。
 一枚の大きな台座が麓に向かってせり出したその正面の海に、三角形の利島(としま)が浮かんでいる。当時もきっとあの島影を眺めながら滑り出したのだろう。ここにスライダーを設置しようと考えたのは、この眺めも関係していたにちがいない。

大きな台座。建物の基礎のようだ。(撮影:シラカワ)
海の向こうに見える三角の島が利島。利島めがけて下降していったのだろうか。(撮影:シラカワ)


 見下ろすと一面緑に覆われていて、いったいどのへんに600メートルも軌道が敷かれていたのかはわからなかった。
 だがどこを下ったのであれ、この斜面を車輪のついた乗り物で滑り出せば、相当なスピードが出ただろうことは想像できる。写真を見ると、はじめはいろは坂のようにくねくねとスピードを殺すコースレイアウトになっているが、途中から一直線に下っており、結構スリルがあったのではなかろうか。
 カートにはブレーキがついていて、それでスピードを制御しながら下ったのだそうだ。
 んんん、面白そうではないか。乗ってみたい。
 今からでも復活してくれないものか。
 実は最近、海外のスキー場などでは、これと同じような斜面にレールを敷きカートに乗って下りてくるアトラクションが増えていて、夏場の観光資源となっている。
 ネットにはそうしたカートが人を投げ出しそうなほどスピードを出している映像もあがっていて、見れば見るほど乗ってみたくなるが、やはり危険もあるようだ。この三原山滑走台でも二度事故があったという記録が残っている。
 もし復活したなら、まずは若いムラカミ氏を乗せてみて、大丈夫だったら私が乗ろうと思うが、残念ながら現在の日本は、そういう危険を伴う遊戯施設の建設には厳しい基準があり、同じようなものを作ったとしても、かなりスピードを抑えた迫力のないものになりそうである。
 いずれにせよ、この場所にかつて人の営みがあったことがたしかめられた。今の茫漠たる風景からは想像するのも難しいが、それをあえて想像してみると、その光景はどこか異世界じみていて、不気味なような悲しいような、せつない思いが胸にこみあげたのだった。

中学生による研究「三原山滑走台の謎に迫る」

 しばらく風景を眺めたら、われわれは表砂漠を縦断して一般の登山口である御神火茶屋まで出、そこからバスでホテルに戻った。
 日本唯一の砂漠と珍しい滑走台の面影を見ることができて、はるばる来た甲斐があったというものだ。私としては大満足で、あとは海にでも行ってプカプカ浮かびたいぐらいに思っていたところ、シラカワ氏が耳寄りな情報を仕入れてきた。
 三原山滑走台について、地元の中学生が調べた記録があるというのである。
 滑走台が使用されていたのはたったの7年間、それも戦争直前から開戦後までの操業とあって、当時の資料はほとんど残っていない。それを平成になって地元の中学生が自由研究で調べたらしい。やはり地元でも気になる物件であったのだ。
 その記録が、元町港に近い木村五郎・農民美術資料館に残っているというので、見せてもらいにいくことにした。
 訪ねてみると、木村五郎・農民美術資料館は、藤井工房という名前の喫茶店と同居というか喫茶店そのもので、店主が伊豆大島に関するさまざまな資料を集めて展示しているプライベートなスタイルの資料館だった。
 ここには島に関する多くの資料が揃っており、中学生の自由研究まで保管してあるからすごい。
 さっそく三原山滑走台に関する資料について尋ねると、平成17年の第2中学校地域研究発表会というファイルを出してくれた。当時の中学2年生5人が調べたというその記録は、タイトルもそのものずばりの「三原山滑走台の謎に迫る」。
 新聞や図書館の資料を漁るだけでなく、当時を知るお年寄りにも聞き取り調査をして、中学生とは思えないほどの綿密な調査を行なっている。
 今から10数年前の調査であり、今では亡くなっているお年寄りもあるだろうから、かなり貴重な資料といえるだろう。
 さっそく読んでみた。
 それによると、滑走台を経営していたのは埼玉からやってきた事業家らしい。当時は川端康成の「伊豆の踊子」が大人気で、その余波で伊豆大島にも観光客が多く詰め寄せ、島は観光ブームに沸いていたそうだ。
 滑走台が、メインの登山ルートと離れた間伏地区に設置されたのは、ひとつはやはり眺望の良さと、もうひとつは傾斜の緩やかさも理由だったらしい。軌道は3レーンあり、ひとつはカートの引き上げ用で当初は人も乗せて引き上げるサービスが考えられていたが、地元の乗馬組合の反対で下りだけの営業になったという。その頃はまだ馬で人を運びあげる馬子たちがいたのである。
 それも最終的には休業補償をする形で決着したとあるから、まさにひとつの産業が衰退していく過渡期であったということだろう。
 事故はやはりあったそうで、霧のなかでの追突やスピードの出し過ぎが原因だった。とはいえ死者は出なかったようだ。
 中学生たちは、さらにブレーキの構造や、乗車料金まで調べようとしているが、それについては最後まで解明できないまま終わっている。
 それでもよく調べてあり、これを読んだことで、写真で見た以上に現場の雰囲気が感じられた。
 ちなみに坂口安吾が著書『安吾新日本地理』のなかで、このスライダーに乗ったと書いている。
 そこには間伏に滑走台が出来た理由として、眺望と傾斜以外に、この一帯だけ外輪山が途切れているため溶岩が流れ出しやすく、
〈外輪山から海へかけて全島ジャングルであるが、間伏の方だけ不毛の砂丘が四百米ぐらい垂れさがっていました〉
 とあるので、土地が不毛もしくは危険で手に入れやすかった、もしくはレールを敷きやすかった点もあるかもしれない。
 ただ安吾は、
〈私もそれを用いて降りたことがあったが、あんまり、よその大人はそのような降り方に愛着がないらしく、スベリ台で間伏の方へ降りようというヒマ人の姿を見かけなかったものさ。物好きのアベックでもやらんという実に色気のないものだったね〉
 と書いており、その言葉通りとするなら、滑走台はそれほど人気がなかった可能性がある。
 一般観光客にはお金の無駄と映っていたのだろうか。

火口探検のゴンドラ

 こうして伊豆大島で砂漠とともに訪ねてみたかった滑り台の内容を知ることができた。
 実に有意義なスペクタクルさんぽであり、これ以上この島に思い残すことはないと言いたいところだが、話はまだ続くのであった。
 というのも、なんとわれわれは、さらにスペクタクルなものを発見してしまったのである。
 時間つぶしに訪れた火山博物館でのことだった。
 微妙にパルテノン風の立派な建物の手前に、緊急用のヘリポートにもなっている広場があり、その一角に奇妙なものが置かれていた。
 三角屋根のついた円柱形の鉄の箱である。
 全体に錆びついて誰も遊びに来ない児童公園の遊具のようだったが、屋根に「讀」の文字があり、「讀」といえば讀賣新聞だろうと思ったら、果たしてそうであった。説明板に次のような説明が書かれていたのである。

「三原山火口探検のゴンドラ
 昭和初期には三原山火口への自殺者が多かった。読売新聞社は自殺者がいかに悲惨な状態になるかを世に知らせるべく、また、火口内の状態を調査する目的で、有人ゴンドラを火口に入れる計画をたてた。」

三原山火口探検のゴンドラ(撮影:宮田珠己)


 火口内を調査する有人ゴンドラ!
 錆びてボロボロになっているこの廃棄物状の物体が、そんな一大スペクタクルなものだったとは。この腐食は火山ガスのせいだったのか。この程度のゴンドラで火口に降りるとは、無謀にもほどがあるのではないか。
 「入念な検討と学者の協力を得て、クレーンによる吊り下げ方式により、昭和8年5月29日に当時の社会部次長 岩田得三が375メートルの深度まで降下することに成功し、続いて写真課長 真柄秋徳も200メートルまで降下した。」
 ってすごい。火口がそんなに深いことにも驚きだ。375メートルって東京タワーより高いではないか。
「当時の三原山は火口底で頻繁に噴火を繰り返していたが、あらゆる困難を克服して火口内部の状態や火山ガスの採集等貴重な資料が得られた。このゴンドラは60年前の偉業を記念すべく、資料をもとに等寸大で復元したものである」
 ん?
 鉄の箱はレプリカだった。
 めちゃめちゃ錆びているのは、火山ガスのせいではなく、ただここでずっと野ざらしだったせいであった。おどかしてはいけないのである。
 まあ、そこは深く突っ込まないとして、気になることはたくさんある。
 まず説明書きに添えられた写真がすごい。
 火口の縁からクレーンが火口上にせり出し、そこから長いワイヤーでゴンドラが吊り下がっている。噴気がクレーン近くまであがっており、ゴンドラ内は相当な暑さだったろう。火山ガスの影響も考えれば、このような密閉されていないものに乗って375メートルも降りて生きて帰れる気がしない。
 仮に酸素ボンベをつけたとしても、この鉄のゴンドラ自体が、ものすごい高温になって乗っていられないだろうし、溶岩が飛んできたら逃げようもない。
 現在なら絶対やらないであろう無謀な試みであり、いったいどんな探検だったのかとても気になる。

「1930年代の三原山噴火口」(歴史写真会「歴史写真(昭和8年7月号)」より)。
 

狂気の火口探検

 火山博物館では十分な情報が得られなかったので、われわれは大島町図書館に行って文献を漁ってみた。
 そこで見つけた東京都島嶼町村会による「伊豆諸島東京移管百年史」によれば、事の始まりは、昭和8年1月、東京実践女学校の生徒が火口に投身自殺したことである。
 その後も投身する若者はあとをたたず、読売新聞の社説は、若者が前途に希望を失いかけていると書いている。後から考えればその後日本は戦争へとなだれこんでいくわけで、希望を失うのはもっともなことだった。
 読売新聞社ではこのことが話題となり、火口内部の現実の姿をさらせば自殺防止に役立つのではないかとの意見が出て実地調査を開始、同年5月29日に探検が決行されたとある。
 元小学校教諭の柴山孝一氏による編著「大島ガイド」に、「三原山悲話」(廣瀬武著)と題した資料が収録されており、そこには当時のさらに詳しい状況が書かれてあった。
 それによると、三原山火口への投身自殺者は、昭和9年までに男子117人、女子12人にのぼったというからものすごい。2年で129人も火口に飛び降りたのだ。
 昭和9年までにその人数ということは、昭和8年5月の探検は、とくに自殺防止に役立たなかったことになるが、探検そのものは大いなる快挙として号外が出るほど盛り上がった。
 いったいどんな探検だったのか。
 概要をまとめるとこんな感じだ。


 

ゴンドラの仕組み

 長さ千二百尺(約360メートル)のワイヤーに、重さ百五十貫(約560キログラム)のゴンドラを吊るし、それにひとりが搭乗して降下する。

ゴンドラ内の装備

 地上との連絡用電話、地上と電線で繋がれた高度計、温度計、湿度計、磁石。すべて座ったままで操作できるようになっている。

搭乗者

 搭乗者は、防毒マスクと圧搾酸素を身に着け、腰にロープを結び、刺し子の上衣、袴を着て、赤皮の脚絆に登山靴を履いて乗り込んだ。

当日の経緯

5月29日
午後2時30分
岩田社会部次長が降下を開始。
午後3時
四百尺(約120メートル)降下。ゴンドラを停止して火口内を探検。
「爆発する時は五彩の花火を見るが如き観なり」
同15分
千二百五十尺(約375メートル)に到達。
死体を発見するも救助はできず。さらに二百尺下に女の死体を認めたが詳細は不明。
呼吸困難で危険としてゴンドラを引き上げる。
同40分
帰還。
午後4時15分
第2探検者真柄写真課長がカメラを持って降下を開始。
同19分
爆発あり。
「灰降りかかり身体相当の熱さを感じたり」
同20分
ストップの電話。フィルムの交換。
呼吸困難を訴えるが降下継続。
同25分
四百尺降下。爆発しきり。
地上より上がってはどうかと打診。真柄課長哄笑して引き続き降下の返事。
同26分
六百尺(約180メートル)で停止して撮影。
同27分
3、4回の爆発。撮影を試みるも火口内暗闇にて撮影困難。
同30分
七百尺(約210メートル)まで降下。
呼吸困難。真柄課長さらに降下を電話するも、地上では聞き入れず引き上げ。
同35分
帰還。

 


 

 資料には当時の状況が淡々と書かれているが、気になるところはたくさんある。
 防毒マスクと圧搾酸素はいいとして、搭乗者が着ているのが刺し子の上衣って、そんなレベルで大丈夫なのだろうか。座ったままで降りていくようだが、果たして椅子は熱くならなかったのだろうか。ゴンドラ自体は鉄製であり、かなり高温になるはずだ。電話の受話器だって熱くなるのではないか。もしもしとか言ってる間に耳が火傷しそうである。
 だが、そのあたりの詳細は何も書かれていない。
 そして恐ろしいのは、火口内に倒れている死体だ。
 こんな場所に生身で転がっている死体を想像すると、まさに地獄絵図であり、何もこんなところに飛び込まなくてもと思ってしまう。
 第2探検者の写真課長を送り出したことは、さらに気がかりだ。
 実は第1探検者の岩田次長のゴンドラを引き上げる際、岩に引っ掛かって電話線が千切れたらしい。電話線でよかった。ゴンドラの写真を見ると大雑把にロープにぶら下がっているだけで、救助用の設備もなさそうだし、本格的に引っ掛かったらどう脱出するつもりなのだろうか。岩田次長が戻った時点でもうやめたほうがいい気がするが、探検は継続された。
 そして何より一番得体が知れないのは写真課長本人である。
 降下を開始してすぐに相当な暑さを感じ、途中呼吸困難を訴えているのにさらに降下し、もう上がっては? と地上から打診されて笑っている。
 笑ってる場合か。
 降下中に火口は何度も爆発している。溶岩が飛んできて当たったりしないのだろうか。
 さらに最も意味不明なのは、撮影しに行ったはずなのに、暗くて撮れなかったというところだ。
 何しにいったんだ写真課長。
 おまけに撮影できないにもかかわらず、もっと降下しようとしている。
 豪胆なのか狂っているのか。
 探検はとにかく無謀であり、スライダーとはちがってゴンドラにはとくに乗りたくならなかった。
 資料を読み終えてみれば、何にも増して心に刺さるのは、火口内に死体がいくつも転がっていたことで、さらにはそんな火口内の状況が世に知られてもなお、多くの人間が飛び降りていることである。
 無惨としか言いようがない。

「伊豆諸島東京移管百年史」によると、岩田社会部次長が記録した375メートルの火口降下は、フランス人キルナーが持っていたイタリア・ストロンボリー火口降下の記録240メートルを抜き世界記録だったとある。
 世界記録だの大探検だの騒ぎ立てるわりに、現在ではほとんど知られていないのは、こんな無茶をマネされてはいかんという後世への配慮だろうか。
 坂口安吾が最初に大島を旅したのが、スライダーが操業していた昭和10年から17年の間とすれば、昭和8年に行われたこの火口探検のことも多くの自殺者があったこともまだ昨日のことのように世間の記憶に残っていたはずだが、『安吾新日本地理』にはまったく触れられていない。
 帰京後、読売新聞社に問い合わせたところ、当時の写真の大半は戦火で焼かれて、残っていないのだそうである。こうなると歴史は瞬く間に忘れ去られていくということかもしれない。
 いずれにしても砂漠と滑り台を見にきたら、とんだエピソードを知ったものであった。
 東京から高速艇で2時間の島に、こんなにもいろんな風景と歴史があるとは思いも寄らなかったのである。

(おわり)

※三原山は今も活動している活火山です。お出かけの際は、各自で現地の最新情報や必要な装備を十分にお調べの上、ご準備ください。

(撮影・菅野健児)

※今回をもって連載終了です。長らくのご愛読、ありがとうございました。本連載をまとめた本を、新潮社から来年刊行予定です。