インタビュー 荒川洋治

寝ても覚めても文芸時評の十二年

打率は四割弱

 中学生のとき、林房雄さんの文芸時評と出会いました。ある朝、新聞を開くと、僕がそのころ詩を教えてもらっていた福井市在住の則武三雄さんの詩集『紙の本』が写真入りで紹介されていた。自費出版の詩集ですよ。文芸時評がいきなり身近になった。これには驚きました。
 林房雄さんの文芸時評は今ではほとんど顧みられませんし、一九六五年に桃源社から出た『文藝時評』という単行本もあまり読まれなかったかもしれない。でも僕は毎月楽しみに読んでいました。調べてみたら、昭和三十七年の十二月から三十九年の十一月まで、ほぼ二年間、朝日新聞に上下二回の文芸時評を書いていた。当時は文学が隆盛で、各作家が覇を競った時代です。しかも大衆小説の方からは松本清張なり水上勉なりがあらわれてきて、論争も活発だった。
 林房雄さんの文芸時評は、いわゆる普通の批評家の文芸時評とはちょっと違っていて、きょうは釣りに行ったけど釣れなかったとか、あそこはよく釣れるとか、こうすれば長生きするとか、いきなり日常が顔を出す。人の悪口だとか、どこそこに行ったらこんなことがあったとか、まあ、時評にはちがいないけれど(笑)、文芸からは離れていくこともままある。でもこれが大変に面白かった。闊達で、時評として生きている感じがした。林房雄さんが批評家として一流かどうかは別にして、読者を興奮させ、喜ばせる、とても人間味のある時評でした。
 僕の家には文芸時評の本のコーナーがあるんです。平野謙、山本健吉、江藤淳、河上徹太郎、そして林房雄、そういった人たちの本——ほとんどが『文藝時評』という題名ですが(笑)、それが十冊くらいならんでいて、僕は始終それを見ている。
 彼らが、例えば「楢山節考」が出たとき、どういう反応を示したか、あるいは示さなかったか。こんな名作を逃して! と後世の人が思うのは簡単です。ともかくすぐ反応しなければいけないのが文芸時評ですから、それぞれにくるいがある。なかには非常に正確な人もいますが、しかし間違っていても、あとから見てみると、それが面白い。
 間違ったり当たったり、打率はみんな四割弱くらいですね。イチローが目指すあたりのところ。三割五分か六分か、それでもかなりきびしい数字だと思いますよ。つまり相当、間違うものなんです。でもその間違え方も、その人の文学観や批評の姿勢を提示している。真剣に、間違っている。
「文芸時評」という言葉を最初に使ったのは大町桂月だそうです。新聞では、明治三十九年に正宗白鳥が読売新聞で「文芸時評」として登場したのが最初。その後、とくに昭和の初年代、十年代あたりの様子を見てみますと、作家たちがどんどん文芸時評を書いています。北原武夫、高見順、川端康成、そして田村泰次郎——あの人はフランス文学系で、ヴァレリーあたりから勉強した人ですから——も書いている。当時作家として出発した人たちは、かなり若い時期に文芸時評を書いていて、それが作家としてのデビューとつながっていた。文芸時評が表舞台にあったと思う。
 林房雄さんの文芸時評を読んでいたころは中学生でしたからまだ子供でしたが、高校生になって平野謙や山本健吉の時評を見かけるころになると、もうかなりあれこれ読んでましたね。梅崎春生の『幻化』や、高見順の『死の淵より』なんかをリアルタイムで読んでいた。文芸時評で褒められていたから読むというのではなくて、自分が読んでいたものがどう書かれているか確認して、やっぱりいいんだなと思ったり(笑)。伊藤整も活躍していたころです。
 新潮社の「日本文學全集」という、昭和三十四年から刊行された赤函に入った全七十二巻の全集がありましたね。あれがおばの家にあったので、中学時代、漱石、二葉亭あたりから、田宮虎彦、丹羽文雄、高見順、三島由紀夫と手当たり次第に読みました。中学一年のときには、作家別のノートを二十六冊つくった。高校生くらいになると、有名な作家たちが新作を出して文芸時評で取り上げられると、あの作品の作家だと照合できるようになっていました。それでますますおもしろくなっていった。

僕の文芸時評作法

 最初に文芸時評を書いたのは「日刊福井」という地方紙でした。二十代の終わりのころ、二年間の連載だった。一九七七年、七八年です。田中小実昌さんの、のちに『ポロポロ』にまとまる作品や武田百合子さんの『富士日記』などを紹介したのを思い出します。その二年後に、「週刊読書人」で二年間、それから一九九〇年、文芸誌「海燕」で一年間やりました。「海燕」は四百字で四十枚ほどの長いもので、『読んだような気持ち』(福武書店)という本にまとまりました。そして九二年、「海燕」の連載が終わった直後、産経新聞の田中紘太郎さんという方から文芸時評の依頼があった。二年ぐらいのつもりで始めたのが、十二年。連載が終わったのは〇四年三月です。最後は僕のほうから、もう息が切れたのでとやめさせてもらいました。
「新潮」「文學界」「群像」「すばる」といった文芸誌が家に届くのが毎月六日あたり。〆切は月によって違いますが、二十三、四日。その十日前くらいから読み始める。連載をのぞいて、全作品を読みます。目次をまず眺めて、ああ、今月はこんな感じかと思う。
 そして、お名前を出すとなんですが、三浦哲郎さんや河野多惠子さんのような大家が短篇の一つも書いてらっしゃると、今月は救われたなと(笑)。お二人のほかには、そうですね、先日亡くなった吉村昭さん。吉村さんが文芸誌でお書きになる作品は、いい味わいがあった。ほかにこれぞというものがなかったとしても、三浦さんや河野さん、吉村さんなどの作品があれば、ほっとするんですね。読まずして、もう大丈夫と思う。あまり言ってはいけないことかもしれないけれど。
 文芸誌には「一挙掲載」といって、そのまま本にできるまとまった原稿を一度に掲載する方式があります。これは、外れるとちょっと怖い。やはり最初はいちばん力を入れて読みますから、のっけから長いものを読んであまりよくなかったりすると、疲れてしまうんです(笑)。だから、まずは一挙掲載以外の中短篇、この辺から各誌ばらばらに読んでいきます。そして、あ、いい作品だなと思ったら、メモしておく、あるいは付箋を貼る。読みながら、用途別に色分けして付箋をどんどん貼っていく。
 それから、話題の大作が出て、おそらくあちこちの文芸時評がトップの扱いをするだろうけれど、僕はそれまで、その作家の作品をあまり認めてないというときがある。そして実際に読んでみると、やはりいいとは思えなかったとする。そういうとき、これを批判するのは難しいだろうな、いろいろあるからな、でも、やっぱりちょっと書いておこうかなと(笑)。
 新聞によっては、僕が執筆する二、三日前に読むことができるものもあるんです。朝日の夕刊でこの人のこれが取りあげられている、そうか、やっぱり、この調子でみんな褒めるのかな、というふうに思ったときは、ちょっと用心して、違う方向からの見方を用意する。みんなが同じものを同じ調子で褒めないようにしたい。
 批判というのは難しいですが、それでも、あえて書く。時評はその作家を理解するためのものではないんです。あくまでも目の前の作品をどう読むかですから、それぞれの作家の生き方とか、これまでの歴史とか、そういうものを背負う必要はない。作品を読んで、よかったらよかったと言い、つまらないと思ったら、素直につまらないという。ですから、僕の文芸時評は、一人の作家単位でみると、作品によって上げたり下げたりがずいぶんあると思うんですよ。でも、その作品に対してものを言っているという、それだけのことなんです。
 いくつか論争もありましたが、べつにその作家が嫌いなわけじゃない。いい作品のときは、手放しで褒めますよ。でも、その日会って話した作家の新作をその晩に読んで、批判を書いている可能性はありますね。それはこちらが小説の外側にいる人間だからというだけではない。僕はこれまで詩の世界でも、そうしてきたんです。詩の世界にもしがらみがある。でも、そのしがらみを断って事を行なっていかないと、自分自身の姿勢が汚れてくる。言葉も汚れてくるんです。
 僕は「文学は実学である」と思っています。文学というのは人間をつくりますよね。生き方に響いて、人間そのものをつくっていく。経済学や医学、工学、法学といった、これまで実学と思われてきたものが、あやしげなものになっている。文学が何をするかがたいせつになってくる。いまは、その文学を脇に追いやろうとする時代です。受け手の側は世の中に流されてもしかたありませんけれど、文学にかかわっている人たちが弱気になるのは、どうなのか。もっと自信を持って、文学は実学であるという姿勢を、何らかの形で示していくことが大事だと思います。

文芸時評と街の空気

 小林秀雄さんというのは「批評の神様」ですね。僕は本当にごく一般的な読者にすぎませんが、でも、会ったことがあります。大学一年生のとき、丸坊主で、何もわからないまま上京して、まず何をすべきかと郷里の先輩に聞いたら、東京および東京周辺を知ることだという。それで浅草と銀座に連れていってもらって、ああ、これが浅草、これが銀座か、と(笑)。
 それから五月になって、まだ友達もいなかったので、一人で鎌倉の鶴岡八幡宮までいってみた。境内を歩いていたら、むこうから、小林秀雄らしき人が歩いてきた。十メートルくらいまで接近したら、もうそれは確実に小林秀雄だった。サンダル履きで、ふつうの格好をしていました。僕はミーハーだから、緊張しながらも近づいていって、「小林秀雄さんですか」と訊いたんです。「はい」とおっしゃった。僕が「どちらに行かれるんですか」とうかがったら、「散髪に行きます」と言われた(笑)。「あ、そうですか」と言って、たまたま持っていた何も書いてない官製はがき、当時七円でしたが、それに万年筆でサインをしてもらいました。「荒川洋治様 小林秀雄」と葉書の裏に大きく書いてくれた。僕は「ありがとうございます」と言って……それだけです(笑)。
 小林さんも文芸時評をなさっていましたが、割と早くやめられましたね。毎月大量の作品とつきあっていかなければならないので、批評家が自分の批評と両立させるのはなかなか難しいことだと思います。文芸時評というのは、一年でも二年でもなさった方はおわかりでしょうけど、肉体労働に近い。僕も十二年間、町を歩いていても文芸時評、電車に乗っていても文芸時評、人と会っていても文芸時評でした。解放されたいまは、わが世の春を謳歌しています。
 深夜のファーストフード店で、見知らぬおじいさんと青年が、ランボーについて語りあうのを見たことがありますが、おもしろかったので、時評にもとりあげました(笑)。やっぱり街の生きた光景を見ること、直接は書かないまでも、街の空気を味わいながら文芸時評の筆を進めることが大事だと思いますね。書斎の中でつくりあげるようなものではない。文芸時評というのは、とても社会に近いところにあると思う。いわゆる文学論になると、何か高いものを築いていくというイメージがありますが、文芸時評というのは、同じ地面を踏んでいる感じ。きょう生きていること。自分もその一人だから、きょう生きている自分のことでもある。
 ぼくが「現代詩作家」という肩書きをはじめて使ったのは、文芸時評を書いていた、一九九六年春のことでした。最初はドキドキしながら使いましたよ。自分でつくったわけのわからない肩書きなんですから。それを少しずつ小出しにしていきまして、もういまは完璧にどこでも「現代詩作家」ということで、肩書きとしては成功をおさめています(笑)。詩人という名で詩を書いたり文章を書いたりするのは、なんだか不自由なんです。あ、詩人の文章だ、というふうに見られるんですね。だからそうではないところで、自由に書いたり読まれたりしたかった。

感動と感想

 産経新聞の文芸時評が終わって一年くらい経ったころ、本にしたいという人があらわれた。四月社の赤塚成人さんという方です。やがて題名はどうしましょうということになった。僕は『文芸時評』というタイトルにあこがれていましたから、そんな本が函入りで出たら最高だなと思っていたんだけれど(笑)、やっぱりちょっとおこがましい。そうしたら赤塚さんが『文芸時評という感想』という題を考えてくれた。「感想という世界」という一章もあるので、これでいいと思いました。
「現代詩作家」である僕は、分野の違う世界から自由にものを書かせてもらっている。でも批評を書く力は、僕にはないんです。勉強もしていない。この本を見ていただいてもわかるように、批評家が使うような言葉はほとんど見当たりません。皆さんが知っている一般的な言葉をいくぶん批評的に使っているだけです。だから批評という言葉はおこがましくて使えない。でも一方で、文学の世界には、素直な「感想」が必要なときもある。
「感想」についてもう少し言いますと、いまの読者は、すぐに感動を求めますよね。でも感動というのは、非常に短いものであって、むしろ感想の方が長持ちする。感動は、ああよかった、と思っても、自分の中での作品の命がそこで終わってしまう。読書が完了する。でも名作には、その人の成長に合わせて、精神の様相に合わせて、そのつど対話してくれる深みがある。本当の読書を続けていくためには、感想を積み重ねていくことが必要だと思うんです。そして時には、自分の感想を訂正してみる。そういう経験が、身になるのだと思う。それでこそ文学が、実学的に、頭に、体に、入り込んでくると思う。ですから、僕が文芸時評で取り上げた作品についても、時間がたつと、また新たな感想が生まれるかもしれない。それが楽しみですね。

(受賞者プロフィール)
1949年福井県生まれ。現代詩作家。早稲田大学第一文学部卒業。71年、22歳で第一詩集『娼婦論』(檸檬屋)刊行。76年『水駅』(書紀書林)でH氏賞を受賞。「口語の時代はさむい」などの詩句が話題に。その他の詩集に、『あたらしいぞわたしは』(気争社)、『渡世』(筑摩書房・高見順賞)、『空中の茱萸』(思潮社・読売文学賞)、『心理』(みすず書房・萩原朔太郎賞)など。『坑夫トッチルは電気をつけた』(彼方社)の「美代子、石を投げなさい」で宮沢賢治ブームを痛烈に批判。現代詩の世界にとどまらない問題提起をつづけてきた。『世間入門』(五柳書林)、『忘れられる過去』(みすず書房・講談社エッセイ賞)、『詩とことば』(岩波書店)、『ラブシーンの言葉』(四月社)など、評論・エッセイも多数。74年、個人出版・紫陽社を始める。おもに詩人の第一詩集の出版を手がけ、33年間に238点を刊行。伊藤比呂美、井坂洋子、竹久昌夫、蜂飼耳、日和聡子などの詩集を世に出す。(受賞当時)

 

● ● ●

 

選評

ユーモラスなもの

加藤典洋

 文芸時評というものは、やってみるとよくわかるけれども、そんなに小説が読めなくとも、またけっこう手抜きをしても、一応はそれらしく書くことのできる表現のジャンルである。でも、長く続けていると、けっきょくは嘘がつけない。その人のすべてが現れてしまう。そういう油断のならないジャンルでもあるような気がする。
 いったいいま、十二年もの間続いた文芸時評を読ませられて、それが読み物として面白い、批評としても、一つの方法的な達成たりえている、などということがありうるだろうか、と思うのだが、一九九二年から二〇〇四年まで、産経新聞に毎月書かれた荒川洋司氏の文芸時評をまとめる『文芸時評という感想』は、とにかく読んで面白い本になっているところ、批評としても、ただならぬ気構えを感じさせられるところが、すごいことだなと、思う。
 ここ十数年の文芸時評の趨勢は、その掲載回数が二回だったものが一回となり、その字数が軒並みに減少傾向にある。評判は低落の一途をたどっているし、面白い文芸時評は少ない。そういうとき、他の新聞の文芸時評がほめそうな有力な書き手を、けなす。誰もとりあげなさそうな作品に、光をあてる。文芸時評が扱わないようなものを、扱う。ジャーナリスティックな構えも見せ、はったりもかませ、しかも、品が落ちない。こういうことが可能なのは、書き手が自分の文学観について、ゆるぎない自信をもっている場合である。ゆるぎない自信があるから、ユーモアが生まれる。しかし、文学とは何なのか。いまはそのシンプルな答えが、なかなか見つからない。
 この文芸時評を書いている期間に、荒川氏は「詩人」であることをやめ、現代詩作家と名乗る。評される文学のほうも、文芸誌に載るだけの作品、単行本で刊行されるだけの作品であることをやめ、一度、ただのコトバに戻される。荒川氏の時評を読んでいると、文学は言葉で書かれたものだ、読者のものだ、という荒川氏の定義に納得させられる。本当にそうなのかどうかはわからないが、そういう気にさせられるのだ。でも、シンプルな定義とは、そういうものではないだろうか。
 筆者はこの本から、批評には量というものが大事だ、ということを教えられた。質よりも、量。量が少ないことが大事である。
 小林秀雄が、お金を受け取る批評の仕事としては、文芸時評から始めていることからもわかるように、このジャンルには、どこか、批評の原点といったところがある。批評というものは、きっととても卑小なものなのだ。その卑小さを否定せず、新聞という、ジャーナリズムの中でもっとも流れの激しい場所に身を置きながら、そこに、とても柄の大きな文学観と、スケールの大きな批評する人とが、生きている。ここには何かユーモラスなものがある。筆者は、こういう(ユーモアある批評の)本が今年の小林秀雄賞にふさわしいと思った。

胸元をえぐる、誠実に重たい速球

関川夏央

『文芸時評という感想』を読みはじめるまでに、ずいぶんためらった。荒川洋治の仕事ぶりは承知している。信頼している。しかし新聞の「文芸時評」、そのなんと十二年分がつまった量感にひるんだのである。
「文芸時評」とはごくせまい範囲で、熱心に、また怒りと冷笑をもって読まれ、月ごとに消費されるものと思っていた。書き捨てられて時間の地層に埋もれるものだと、自分も担当したことがあるのに(担当したことがあるから?)信じていた。二年も書けば疲労困憊して、しかるに報われること少ない。それを十二年、さぞ体と心に悪かろう。
 しかし読まねばならない。風呂場で晩夏の冷水をかぶって読んだ。
 驚いた。しみじみとおもしろかった。
 ここには、一九九二年から二十一世紀初頭まで、日本社会を底流した思潮の太い流れが見える。すなわち歴史が見える。文学・言語表現への飽かぬ批評精神があり、背後には、それをささえるぶあつい愛情がある。「文学は実学である」という荒川洋治の言葉の意味がよくわかった。
 彼は中学生時分(!)、林房雄の「文芸時評」を読んで、果敢さと目配りの周到さに衝撃を受けたという。その遺伝子は、たしかにここに生きている。私たちは孤立していない。歴史とともにあり、先人とともにある。さらに、先人のなした仕事を受継ぎ、それを力尽くして押し進める義務がある。そういう「感想」を持った。
 書中、こんなエピソードがしるされている。
 夜中にドーナツ屋に入った。「文芸時評」を書きあぐねていたときである。いつでも書きあぐねる、それが「文芸時評」なのだともいえるが。小耳にはさんだ二十代の店員と六十代の客の雑談が、なんのはずみからか文学の話題になった。ランボーの話になり、小林秀雄におよんだ。話す彼らは、年の差を超えてなんとなく嬉しそうだった。黙って深夜のドーナツを食べる荒川洋治も、ひそかに嬉しかった。文学は、世間話であっていい。
 もうひとつのエピソードは、彼が受賞の記者会見で語った。
 一九六八年、大学一年生のとき鎌倉へ行った。鶴岡八幡宮で、たまたま小林秀雄を見かけ、覚えず声をかけた。先生、どちらへ、と尋ねたら、小林秀雄は、散髪へ、とこたえた。見知らぬ青年にもていねいな人だった。
 荒川洋治は変化球投手ではない。正統派の速球投手である。その胸元をえぐる高目のストレートは誠実で重たい。三振にとられても、ほれぼれと美しい。
 このたび、そういう歴戦の剛腕投手に賞をもらっていただくことができたのは私どもの喜びである。散髪に行かれた小林秀雄先生も、無名の青年の三十八年後の達成に微笑されていることと思う。

「感動」を超える「感想」

堀江敏幸

 毎月毎月、ほぼとぎれずに生み出される文芸雑誌は、「時評」を任された批評家たちにとって、厳しい山にもなれば荒野にもなり、豊穣な海にもなる。素材の鮮度は、刊行日からあっというまに迫ってくる締め切りまでの、十数日ほどしかない。彼らはみな、その過酷な情況を渡りきるために、けっしてぶれない自分だけの方位磁石を体内に埋め込んでいるものだ。
 ところが荒川洋治氏の方位磁石は、他で見かけるものとかなりちがっている。なにを読み、なにを味わい、なにを言うのか。どこまでを言葉にして、どこから言葉でない言葉にするのか。その基準となる南北線じたいが微妙にずれているように見えるし、磁石をとり出して方位をたしかめる間合いが独特だから、こんなところでなぜ立ち止まるのかと、こちらが不安になることさえある。それほどに頑固で偏屈、ということなのだろうけれど、自身の偏屈さの扱い方が厳正かつ的確なので、その偏りがより大きな「文学」への愛と信頼によってもたらされていることが、しだいにあきらかになってくる。
 一九九二年、第一回の時評で、荒川氏は「誰にもわかる文芸時評」ではなく、「ぼくにもわかる文芸時評」をめざすと宣言してみせた。「ぼくにも」は、「ぼくだけに」の独善から遠いところに位置している。つまり「誰にもわかる」書き方は、「書いている本人だけがわかっていない」状態を生むことがありうる、と指摘しているに等しいからだ。
 書くことばかりではなく、読むことにも方位磁石は用いられる。読者は「誰にも読める」読み方を捨てて、「ぼくにも読める」ところから研鑽を積まねばならない。「作者以上に、読者には才能がいる」と氏は言い切る。真剣に書かれた作品を真剣に受け止めたときにはじめて、説明不能な「感想」が生まれ、その積み重ねが、一時的な「感動」を超えていくのである。
 荒川氏の方位磁石は、そのつどの「感想」がいつか辿りつくべき理想の場所を、遠く指し示している。「感想」をひとつずつ置き石にして、それらをむすぶ線が熟成するのを待つ。書き手と読み手が、目のまえの作品を尊重しつつ、それを超えたもっと広い意味での《実学としての文学》を共に心から愛したときにだけ、その「感想」は「感動」を超えるのだ。
『文芸時評という感想』は、書くばかりで読もうとしない者の浅さを憂い、読む力を過信して書く者への敬意と愛情を欠いた者の傲慢を突く。個々の作品の評価については全面的に賛同できないところもあるけれど、それは当然の話だろう。それよりも、本書を読んで、私はもう一度、読むことから鍛え直したい、より深く「文学」を愛し、いまを生きるための力にしていきたい、いや、していくべきだ、とつよく感じた。
 最後に、「文芸時評」をあたりまえのように本にしてみせた四月社の仕事に、敬意を表したい。

気持ちのよい選考

養老盂司

 よくもこれだけ長いあいだ、文芸時評なるものを書き続けたものだ。それがまず第一の印象である。その辛抱に敬意を表する。次に読みやすい。簡潔で、要を得ている。枚数が少ないから当然だろうという向きもあろうが、長さも含めて文章なのである。著者は現代詩作家という肩書きだが、たしかに詩には上手に言葉を節する性質がある。第三に、しばしば思い切ったことを書く。こんなこと書いていいのかなと思うが、表現が素直でイヤミではない。これも詩の性質かもしれない。
 全体を通読して、著者の像が浮かぶ。当のご本人にはお会いする機会がなかった。作品の印象と、ご本人がどう違うか、それが楽しみである。そういう意味での自分の誤解を正す機会は、そう多くない。
 小林秀雄賞に文芸時評が出るのは当たり前かもしれないが、入賞ははじめてであろう。この賞はさまざまな面を持っていると思うが、ともあれ文学批評は王道であろうから、門外漢としても嬉しいというか、安心という結果になった。
 当然だが、選考では他の作品も議論の対象になった。しかし今回は選考委員全体のほぼ最初からの合意だったから、その意味でも気持ちのよい選考だった。これで小林賞も新しい段階に入るのかな、と思ったりしている。

 


 

 
『文芸時評という感想』荒川洋治