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2009年10月4日 小林秀雄賞

第八回小林秀雄賞

『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』水村美苗

著者:

インタビュー 水村美苗

小説の歴史性というものを常に考えるようになりました。

漱石の未完の遺作を書き継いだ『續明暗』でデビュー、英語混じりの横組み日本語で発表された『私小説from left to right』、そして圧倒的な物語性に満ちた『本格小説』——。表現のたくらみを続ける著者の「小説とは何か」。

 私の父が、十三、四歳ぐらいのときに、父の父親——つまり、私の祖父が急死しました。父方は代々医者の家系だったんですけれど、政治にも手を出しており、祖父が急死したとたんに家は没落し、医院だった母屋は連判を押していた借金のかたにとられてしまいました。残ったのは小さな家作が二軒だけ。父は望み通りの教育を受けられませんでした。
 それでいて、父は英語を読めただけでなく、驚くほど流暢に話しました。今思うに、父があそこまで流暢に話すことができたのは、さまざまな形で独学したからではないかと思います。なにしろ勉強好きでした。学校の勉強は一番でなければならないという圧力を常に祖父から受けて育ってきた父ですが、もともと勉強が好きだったのにちがいありません。
 読書家でもありました。紺絣の着物を着ていると懐から本がバサバサッとこぼれ出てきたという話を聞いています。小説に限らず、詩や和歌、漢詩も少し読んでいたと思います。母ももともと夢見る文学少女でしたから、家では文学を読むというのはごく自然なことでした。
 母は複雑な育ちですが、それゆえ母の父親も厳しく、やはり学校の勉強はできなくてはという環境だったようです。父も母もそういう圧力を受けて育った過去が嫌だったのでしょうか。自分たちの子どもには同じ圧力を絶対にかけまいとしていたらしく、勉強をしろとか本を読めとかは言われた記憶はありません。
 姉と私が女の子でしたし。
 ただ、まだ日本にいる頃、眠る前にベッドタイムストーリーというんでしょうか、父が枕元で簡単な英語の物語をたまに読み聞かせてくれたりはしましたね。何にも分かりませんでしたが。姉をゆくゆくは海外にピアノ留学させたいと思っており、外国人の先生をつけて英語を習わせたりもしていました。勉強しろとは言いませんでしたが、娘たちにいつの日か英語ぐらいできるようになって欲しいという夢は、両親とも、漠然ともっていたように思います。でも、子供心にも、家が金持ではないのは分かりますから、現実的には思えませんでした。
 夢がふいに現実に近づいたのは、貿易会社を起こして失敗したりしていた父が、英語力を買われて、ある光学機器メーカーに拾われニューヨークに派遣されることになったときです。日本が輸出を軸に高度成長を始めるころのことです。家族全員でニューヨークのロングアイランドに越したとき、私は十二歳でした。
 これで娘たちは自然に英語をあやつれるようになるだろうと両親は思ったのでしょう。相変わらず、英語を勉強しろなどとは言わなかった。どちらかというと、日本語を維持することの大切さを言われるようになったぐらいです。でも、私たちぐらいの年齢になってしまうと、意識的に努力しないかぎり、自然に英語が上手になるなんてことはないんですね。そこが幼い子の場合とは違う。
 私はずっとアメリカにも英語にもなじめませんでした。外国人を家に招いたときのためにと、水墨画の描かれた洋食器のセットなどを船便で送りましたが、幸いそんなものの中に、旧い改造社版の「現代日本文学全集」が入っていた。ハイスクールに通いながら、私はひたすらそれを読んで現実から逃避しました。
 繰り返し読んだのは谷崎潤一郎とか、菊池寛とか、有島武郎あたりでしたね。二葉亭四迷の『浮雲』も面白かった。不思議と樋口一葉も理解できた。漱石は十二、三歳の子どもにはちょっと難しかった覚えがあります。それに改造社版の「現代日本文学全集」が編纂されたころは、いまほど漱石の小説の評価が高くなかったので、『吾輩は猫である』などが大きく扱われており、最初のあたりで挫折した記憶があります。漱石をくり返しくり返し読むようになったのは、もっと大人になってからのことでした。
 日本の近代文学は、異国で十代を送っていた私にとっての大きな心のよりどころでしたね。両親が私の日本語離れを危惧していたのはまったく杞憂に過ぎなかったということです。それどころか、近代文学の作品をくり返し読むうちに、日本語の「書き言葉」が私のなかで根深く育っていった。その代わり、英語のほうの進歩はひどいもんでしたね。

日本語を書くカタルシス

 日本に戻ってきたのは、イェール大学と大学院で一応フランス文学を修めてからのことです。大学院では益体のない論文ばかり書いてへとへとでしたので、終わってほっとするばかりで、日本語で小説を書きたいと思いつつも、いったい何を書きたいかもはっきりしない。そこへ新人賞に応募しないかと、どこかの文芸雑誌のほうから声がかかりました。
 すでに批評家のポール・ド・マン論の短いものを日本語で書いたりして、日本の批評家の方たちとのおつきあいもあり、私が小説を書きたいらしいというのが多分出版社に伝わったのでしょう。
 与えられた期限が短いものだったのでお断りしたら、また一年後に同じようなお誘いを受けたんです。アメリカでの経験を小説にというような、かなり具体的な要望も加わっていました。アメリカでの暮らしを小説のテーマにすることで他の作品との差異性を生むことができるという判断が、当時はまだ、出版社側にあったのではないかと思います。
 アメリカでの経験は書きたかったのですが、「アメリカ帰り」という差異性によって評価されるのは好ましくないと思いました。それに、仮に新人賞をいただいたとしても、日本のふつうの小説家のように、次々と作品を書けるはずはない。自分が日本の文芸ジャーナリズムのあのめまぐるしいペースに乗ってやっていけるような人間ではないことが、よくよくわかっていたんです。
 なにしろ大学院時代から物を書くのが大変でした。普通の学生が三年かけて終えるコースに五年ぐらいかかったのもそのせいでしたし、二十枚ぐらいでいい論文でも、書き始めるといつのまにか四十枚ぐらいになってしまう。私にとって書くことは、すらすらと簡単にできるようなものではなかったし、枚数制限のあるようなものは書けなかった。次々と書くなんて器用なこともできそうもない。
 それで、かえって、逆の発想をしました。長年アメリカで暮らしてきた人間がアメリカでの暮らしを書く、というのではなくて、アメリカでくり返し読んできた日本近代文学の蓄積をバネに、漱石を漱石の文体で書き継ごうと思ったのです。遺作となった『明暗』が、あのように未完のままで終わっているのは、どの読者にとっても、とても残念なことだと思うんです。かといって、すでにお名前のある作家にとって『明暗』を書き継ぐなんてことは、たぶんやりづらいだろう。私のような無名の書き手なら、こき下ろされたとしても失うものは何もない。しかも、次々と作品を書かずとも漱石に寄り添って、生き存えることができる。
 それで最初の作品が『續明暗』となりました。『續明暗』を書いて、日本語を書くことで得られるカタルシス、小説を書くことで得られるカタルシスを初めて経験しました。英語や仏語でいやいや論文を書くのとはまったく異なる経験でした。しかも、『續明暗』を書くことによって、初めて、この次は自分のアメリカ体験を書いてもいいという風に気持が動いていきました。そこで、次に書いたのが『私小説from left to right』でした。
『私小説from left to right』は横書きで、英語があちこちに混じるという形式で書かれています。アメリカでの二重言語生活を表現するための手段でもありましたが、もう一つ、私小説風に書きながら、言語についての考察という、抽象的な問題を、その英語混じりの形式そのもので表したかったんですね。そもそも、このような小説を手にとる日本の読者にとって、そこに出てくる程度の英語はなんとか読める。それは読者がフランス人であろうが韓国人であろうが同じである。フランス語に訳されても韓国語に訳されても、この小説で起こっていることもわかれば、バイリンガル性もそのまま読みとってもらえる。ところが、この小説は、英語にだけは訳せないわけです。英語がちりばめられていることの意味が、英訳したとたんになくなってしまいます。
 このことについては『日本語が亡びるとき』の第二章でも触れていますが、『私小説from left to right』は、英語に訳されることができないことによって、英語が現在の世界で基軸言語になっていること、英語とそれ以外の言葉が非対称性にあることを明らかにしています。さらには、こうして英語と日本語を一つの小説の中に並存させ、日本語という言葉がいかに英語とちがうか、視覚的な要素の強い言語であるかが、はっきり見えてくる。そのような言語についての考察と、家族の物語を織り交ぜながら書いたのが、『私小説from left to right』でした。

「本格小説」を書く困難

 次の『本格小説』は、タイトルどおり、「本格小説」という概念を意識して書かれた小説です。なぜいまさら「本格小説」かといえば、一つはもちろん「私小説」の対概念だからだということです。もう一つは、多くの日本の小説家が明治以来感じていたように、日本語で「本格小説」を書く困難を私自身感じていたからです。それで、恐れ多いとは知りつつ、一度は挑戦してみようと思いました。
 断片的な文章や独立した章を並べて作品にするのは、日本文学が得意とするところですね。私はそのような日本文学の特徴がとても好きなんです。でも西洋で言われるような「本格小説」を書く、すなわち歴史を入れながら、大きな物語のうねりがあるもの、しかもこれこそ文学でもあれば、これこそ現実でもあるというどっしりした感触を与えるというのは、日本文学はどこか苦手ですね。
 谷崎の『細雪』はもっとも好きな小説の一つですが、大きな物語のうねりのようなものは、ない。谷崎は物語づくりのうまい人で、たとえば『春琴抄』にはその力量が恐ろしいほど現れていますが、長篇になると、物語性の強さがぐっと後ろの方へと下がってしまう。どうしてなのかという思いもありました。
『本格小説』を書くにあたっては、『嵐が丘』を土台にしました。同じ「本格小説」を書くのなら、『嵐が丘』のように、読者を遠いところまで連れていける小説を書きたいと思っていたのですが、ふと、それならいっそ『嵐が丘』を土台にしてみればいいと。思えば、有島武郎が『或る女』を書いたときも、『アンナ・カレーニナ』を土台にしていた。日本近代文学はそもそも西洋の小説の翻案から始まったのですから、その伝統を意識的に踏襲するのも面白いと思ったのです。要するに近代文学史のおさらいをしながら、物語をつくってみたかったんですね。
 小説を読んでいたころは、たんに読んでいただけですが、小説を書くようになってから、小説の歴史性というものを常に考えるようになりました。文学、あるいは言葉というものは、自己表現ではなく、外部からやって来るものだという認識が強まってきたからだと思います。ですから文学表現の形式について考える。すると歴史的に考えることになる。私にとっては本質論的な小説は存在しないし、本質論的に美しい日本語というものも存在しないんです。歴史の流れのなかで、表現の形式が少しずつ変化してゆく。そのときどきに、さまざまな書き手が現れ、日本文学も少しずつ変化してゆく。必ずしもより高みに進むわけではありませんが、その歴史にどのように関わることができるか、という風に考えます。
 ですから、生きることに伴う苦しみとか悩みというものを小説のなかで表すのではなく、いつも小説の歴史性という課題があって、それとどう関わっていくかなんですね。その方法や枠組みをできるだけ考えた上で、今度は自分をどんどん出してゆく、という順番なんです。

絶望しつつ書き進める

 作家も動物や植物と同じ生きものなので、花が開けば閉じるときがやってきます。そもそも人生というものは、最後は体力勝負でしょう。『本格小説』を書き終えたときに、自分はもう長篇小説を書くのは体力的に無理だろうと思いました。長篇小説には厖大な記憶力が重要で、これもまた、広い意味での体力です。
 小説を書くときは、「既知」のことと「未知」のことを常に分けて考えなければならないんです。これは読者がすでに知っていることである、これは読者にとって新しい情報である、というふうに。その情報も重要なものとそうでないものがありますから、重要なものはそれとなく読者の注意を喚起する必要がある。そのためには書いたことすべてを覚えている必要があり、千何百枚という量になってくると、体力がなければとてもじゃないけれど覚えていられないんです。
 だから『本格小説』が終わったときは、「本格小説」よ、サラバ、という気持。実際に病気になってしまいましたし。『本格小説』が終わる前から次の企画がありましたが、それは、それまでに書いたエッセイを集めてまとめるというだけのものでした。これなら楽だし、簡単に終えられるだろうと考えていたのです。
 ところが、そのエッセイ集の巻頭に書き下ろしのエッセイを書いてほしいと言われ、それで書き始めたのが『日本語が亡びるとき』だったんです。もう体力がないから、最初はせいぜい数十枚で終えるつもりでした。ところがまたいつもの癖が出て、どんどん膨らんでしまった。ああもう嫌だ嫌だと思いながら書き続けるうちに、二年経ち、三年経ち、とうとう四年目に入ってしまった。投げ出したかったけれど、ここでこの仕事を放棄してしまったら、五十代の半分を丸々失ったことになると思ったんです。それで仕方なしに書き続けました。書き続けるうちに自分の言いたかったことも、どんどんと変わっていきました。
 書き始めた当初は、すべての言語が等しく大切であるという多言語主義の枠組み内で考え、英語に吸い込まれてしまわないよう日本語もがんばりましょうというぐらいの話を書くつもりでした。
 ところが、日本語というものにかんして集中的に考え始めると、どうしても歴史的に考えざるをえなくなる。そのとき、私のような経歴の者が、なぜ英語で書かずに、日本語で書くようになったかという、『私小説from left to right』で自問し続けていた問題が、もう少しはっきりと見えてくるようになりました。
 もし五歳ぐらいでアメリカに行くことになっていたら、どの国から来ようと、当然英語で小説を書くことになっていたと思います。それでは十二歳でアメリカに行ったら、どうなるか。日本語にかんして考え始めて気がついたのは、たとえ私のように十二歳でアメリカに行ったとしても、もしほかのアジアやアフリカの国から来たとしたら、英語で小説を書こうとした可能性がはるかに高いだろうということです。十二歳の私の上に、いかに日本近代文学の牽引力が強く働いていたかということにほかなりません。
 異国でも「現代日本文学全集」を読みふけることができた。だから日本語に戻っていきたいと思った。それがわかったとき、日本近代文学が存在したという事実そのものが、非西洋言語としては希有に近いということがわかりました。そこから日本に近代文学を可能にした地理的条件や歴史的条件を考えていくようになり、考えれば考えるほど、次に考えたり調べたりすることが出てきました。
 こんなに着地点が見えないままに書き進めた本は初めてでした。概念操作をするためにさまざまな図も描きました。頭の中を整理していかないと、次に進めないんですね。もちろんいろいろな本も読みました。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』は、英語で書いていることに無自覚であるのをのぞけば、非常に刺戟的な本で、『日本語が亡びるとき』の基本にあります。日本語や英語教育についての本も読みましたが、私のような視点で日本語を捉えている本は見あたらなかったので、絶望しつつも、やはり書き進めるべきだと思いました。福田恆存の『私の國語教室』を部分的に読み直したときは、涙する思いでしたね。

ブログの力

 暗い穴に入り込んで、出口が見えないときに、アメリカの大学から講演の依頼があったのが、いま思えば、幸いしました。まずプリンストン大学での日本文学学会の基調講演を頼まれた。偶然その二日後ぐらいに、母校のイェール大学からも講演依頼があった。それで『日本語が亡びるとき』の中心的な部分を一度かんたんに英語でまとめようという決心がついたのです。それを聞いたコロンビア大学からも声がかかり、結局三つの大学を回ってレクチャー・ツアーをしました。二〇〇七年の十一月のことです。
 理論的な部分だけ取り上げてまとめました。私がどのようにして日本語で書く作家になったか、そこにはどのような条件があったのかを整理して伝えようと思ったのです。つまり、私が日本語で書くことになったのは、日本近代文学があったからであり、日本近代文学があったのは、国語があったからであり、国語があったのは…という歴史的な話です。当然、もう一度自分の考えを英語で練り直す必要が生じました。英語で考えるときは日本語とはいったん切れて考える必要があったのか、英語で書くうちに考えがすっきりとまとまってくるような感触がありました。それから半年以上かけて、日本語の原稿の全体を書き直していって、ようやく本が完成したんですね。
 アメリカでの講演にはおもしろい反応がありました。私が冒頭で、これから国語の話をすると言うと、なんとなくどよめく感じになるんです。これから大いに笑ってやろうというような。つまり国語批判が始まる、と思うらしいんですね。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が、著者の意図に反して国語批判の書として読まれたせいだと思います。アンダーソンの本の根底には、「インターナショナリズム」を掲げる共産主義批判があったのに、いつのまにか、ナショナリズム批判、国語批判として読まれるようになってしまった。ことに、日本文学の学者内ではそうです。ですから、国語について話すと切り出すと、国語批判が始まるぞと期待されてしまう。大日本帝国の植民地支配の話やら、「国語」という概念に内在する排外主義ですね。ところが話が進んでいくと、期待とはまったくちがう方向に話が向かってゆくので、彼らは最初だいぶ戸惑ったようです。
 この本は「憂国の書」のように書かれています。とくに後半に入るとその調子が強くなります。檄を飛ばすようになってくる。悲愴な調子になってくるというか。体調が思わしくなく、悲愴な思いの中で書いていたというのもありますが、意識的に、ああいう書き方をしたというのもあります。ああ、なんとかしなきゃあという気持を読者にもってほしかったのです。メッセージを深く届かせるためには、そういう書き方もときには必要ではないかと思っていました。いずれにしても、学者的な記述の方法とは、ひと味もふた味も違うものにならなければ、という思いは明確にありました。
『日本語が亡びるとき』はいままでの私の小説の読者数よりも少数の読者を想定して書いたものです。それがこんなに読まれるとは思いもしませんでした。梅田望夫さんがブログで書いてくださったのが一番最初のきっかけでした。
 少し話がずれますが、ブログの力って驚くべきものですね。この本にかんしては、おかげさまで、最終的にはプラスに働きましたが、瞬間的にあれだけの言説がウェブで飛び交うのは、よいこと尽くめではないだろうと思います。
 いまは代表民主制ですけれど、もしウェブを使った直接民主主義となったら、国民がイエスかノーをクリックすることによって、国の政策が変わってくるような事態になるわけですよね。そうなるとポピュリズムの怖さがもっと露骨な形で現れてくる。ブログにはその怖さをちょっと感じさせるところがあります。

初めての新聞小説

 やっぱり、小説を書いているときのほうがずっと楽しいですね。でも『本格小説』を書いているときは、頭のある部分しか使っていないという感じがしていました。なんというか、夢を見ているような感じ。生きていても、この世界にいなくって、虚ろというか、気がぼおーっと天井近くに上がったままの興奮状態にいたんです。あのままでいたらちょっと馬鹿になってしまうような、ずっとハイになっているというか、脳が溶け出すような(笑)感じがありました。書き終えたときは虚脱状態で、頭のその部分だけが疲れ果てた感じがありました。今回の本を書くときに、脳のちがう場所を使ったのはよかったかもしれません。
 これから先の仕事について言えば、もう自分に残された体力と時間との戦いですからね。残されたもので何ができるかを考えながらやっていかないと。短篇小説を書くつもりはないのか、とたずねられることがよくありますけれど、私には向かないんじゃないかと思っています。やはり向き不向きがあるようです。
 短篇小説を読むのは好きなんです。志賀直哉などは明らかに長篇よりも短篇のほうが優れているし、幸田文も迫力がある。川端だってそう。日本の作家はいい短篇を書く人が実に多いですね。
 ただ、私はとことん散文的なんです。そして、日本の短篇は詩的なところが命だという面があるでしょう。長篇だと、散文的な文章の中に、おもしろい観察をいくらでも挟んでいけるんです。そうすると、たとえ骨格が通俗的でも、通俗に堕ちずにすむ。長篇は案外そういう細部の積み重ねが命なんです。だから私はやはり短篇よりも長篇だと思う。随筆はこれから書きたいと思いますが。
 次の仕事は、初めての新聞小説で、土曜連載です。全部で六百枚。長篇ではありますが、私にとってはいままでで一番短い小説になります。新しい経験をするおもしろさと、恐ろしさとが両方ありますね。もう長篇小説は書くまいと思っていたのですが、ついつい引き受けてしまったのには、日本近代文学の中で新聞小説が果たした大きな役割を考え、自分もその伝統の最後に連なってみたいという気があったからでしょうか。
 もうそのあとは、気ままに。
 いいものを残したいという気持がある反面、偶然に与えられた一回きりの人生でしょう。こうして書くだけで、命を削ってしまうのももったいない気がします。文学もいずれは消えてゆくものですもの。日本語どころか、人類も、地球も。この時代は、神学的にではなく、科学的に、さまざまな終わりが見えている時代です。それを見据えて、文学や人生の意味を考えていかねばと思っています。

(受賞者プロフィール)
東京生まれ。12歳で家族とともに渡米。改造社版「現代日本文学全集」を読んで育つ。イェール大学卒、仏文学専攻。同大学院修了後、帰国。のち、プリンストン大学などで日本近代文学を教える。1990年『續明暗』で芸術選奨文部大臣新人賞、95年『私小説from left to right』で野間文芸新人賞、2002年『本格小説』で読売文学賞を受賞。近刊のエッセイ集に『日本語で書くということ』および『日本語で読むということ』。まもなく読売新聞で新聞連載小説がスタートする予定。(受賞当時)

 

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選評

思いのたけ

養老盂司

 今回の選考では、いわゆる理系、文系を背景とした候補作がそれぞれ複数あった。文系ならこの作品と、私は決めてしまっていた。すでに世評に上り、毀誉褒貶があったはずである。でもそういうものは見ていなかったし、関心もなかった。論の巧拙や、正否もあまり問題にしなかった。要は著者の言葉、とくに日本語に対する愛着を買った。
 その裏は、言葉を業とする人たちの愛情をしばしば疑ってきたからである。いわゆる文科系、人文社会科学にとって、言葉は最大の方法であろう。またさまざまな記事や論説についても、それは同じである。しかし命とはいわないまでも、自分の業をそこに賭けるくらいの愛着はあってほしい。そう思うことがよくあった。
 私自身、若気の至りで、英語では論文は書かないと見栄をはったから、いわば自分の業を曲げてしまった。そういう思いがある。でもそれでよかったと思うしかない。私は元来は理科系だから、言葉にこだわるのはおかしい。仕事自体にこだわればいいのである。でも私が現役だったころから、英語が主流になっている。その「おかしさ」、ある種の安易さには、すでに触れたことがあるから、もう書かない。
 言葉はかならずしも伝達の手段ではない。でもそう思う人が、どれだけいるだろうか。やむを得ず外国語に本気で触れれば、どうしたって自国語に思いが寄る。その反応から、さらにさまざまな思いが生じる。いわばその思いのたけを著者は述べた。私はそう思う。書いているうちにどんどん長くなった。著者はそういわれた。そうであろうと察する。だからいわば情緒的な論にもなったので、情緒的な論に対しては、情緒的に反応するのが礼というものであろう。だから私も情緒的に反応することにしただけである。この作品からその先へ、さらに反応を超えた普遍性に至る次作を望みたい。

理路をゆるがす勢い

堀江敏幸

 水村美苗氏の『日本語が亡びるとき』は七つの章で構成されている。第一章と第二章でまずひとつ、第三章から第五章まででひとつ、最後の二章分でひとつの、三部に分けることができそうな書き方がなされているのだが、問題は、この「できそうな」という読み手の側の感触である。
 実際、アイオワ大学の国際創作プログラムで英語を「普遍語」として意識せざるをえなくなり、パリでの講演の折にそれがさらに強まっていく「私」の、理路がぶれているわけではないのに右往左往するような切迫感、焦り、苛立ちに似たものが支配的な冒頭部と、それをなんとか理論づけようとする中間部の、つとめて冷静であろうとする文体には、かなりのひらきがある。しかも最後の二章では、第二部で抑えたものが形を変え、ふたたび勢いを得てくるように見える。要するに、はじめから終わりまで計画立てて書いたというより、止むに止まれず一挙に書き上げてしまった感があって、その押し出しの強さを受け入れられるかどうかで、読み手の印象は大きくちがってくるのだ。
 しかし、本書の魅力は、まさに、この勢いがときに批評の理路をはみ出し、細かい箇所に対する読者の側の留保や不満を吹き飛ばして、大きな情念のかたまりとなって迫ってくるところにある。
 英語という「普遍語」と「現地語」のあいだに、高度な文学をも支えうる「国語」を位置づけ、「日本語」をその稀有な一例と見なしたうえで、著者は普遍語に取り込まれないよう、「国語」の基礎工事をしなおすために、いまこそあらためて近代文学の富を取り込むべきだと提案する。タイトルに「亡びる」という、誤解を招きがちな言葉が使われているけれど、著者はむしろ亡びないことを信じながら語っているし、また、近代文学を顕揚しているといっても、現在書かれつつある平成の日本語文学全体の成果を否定しているわけでもない。そもそも、全体の成果など、誰も明確に示すことなんてできないのだ。可能性のある平成の日本文学を支えるには、同時代の文学だけではなく、近代文学としてくくられている時期の作品群で鍛えられた日本語を取り込むのが望ましい。著者が言いたいのは、まずその一点である。
 日本語文学には、英語の勢力がどうあれ、外へと広がる力がある。たしかに、割合からすれば、わずかなものかもしれない。しかし、文学に話をかぎれば、英語で読まれなければ意味がない、という言い方にもあまり意味がない、と私は思うのだが、水村氏も、もちろんそうした見方があることを承知で、あえて強い言い方を選んだのだ。選ばざるを得なかった、というところに、私は共感したのである。

「日本のこと」しか分からない人間の思うこと

橋本治

 私は大学院の入試に二度落ちた経験がある。最初の志望は国文学科で、二度目は日本美術史学科だった。最初の時は知らず、二度目の落第の後に担当の先生から言われた——「私はあなたを入れてあげたいので、ともかく英語の勉強をしてくれ」と。私は「日本のこと」を知りたくて、「まだ知らない」と思っているから勉強をしたいと思った。でも、日本で必要なのは「その前に英語を学べ」だった。「そうしないと発表が出来ない」ということなのだろうが、私には呑み込めなかった。それで私はアカデミズムと無縁になってしまったのだが、別に後悔はしていない。
 私は「日本のこと」にしか関心がないし、私の書いたものが英語に翻訳されるとも思っていないので「国際化時代」には無縁の人間だと思っていたが、そうしたら何年か前、アメリカの大学から「日本のこと」を教えに来ないかという依頼があった。講義は日本語でもいいし、教えることは日本文学でも日本美術でも日本文化でもいいということだった。そういう依頼が日本の大学から来たことはない。「アメリカに行って“英語で思考する”という習慣がつくとやばいな」と思って断ってしまったが、そういうことを水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』を読んで思い出した。
 私の場合、「英語が出来ない」ということが、アメリカでさえ問題にならない。「日本のことしか分からない」ということが、日本では「どう扱っていいのか分からない」ということになるらしい。日本文学は、海の外では「主要な文学」になって、滅びないのかもしれない。しかし、日本では滅んでしまうのかもしれない。水村さんは、そういうねじくれた関係を、「日本の外」と「日本の内」の両方からはっきり照らし出してくれたと思う。
 このままでいけば、日本文学や日本文化は「過去に存在していた美しいもの」になってしまうだけかもしれないが、多くの日本人にとっては、それがピンとこない「遠い問題」でもあるのだろう。この難しい問題を、自身の体験、切実なる事実として提出してくれた水村美苗さんに感謝する。

一〇〇年の「憂国」

関川夏央

 一〇二年前、夏目漱石は『虞美人草』を書いた。一〇一年前に『三四郎』を書き、一〇〇年前に『それから』を書いた。一〇〇年は歴史のうえではかれば同時代である。
 近代日本語の「書き言葉」が成立したのは、だいたい一二〇年前である。漢文学的教養と成熟した話芸、すなわち江戸の文化遺産に欧州語の翻訳文という要素をとりいれ、近代文学の先人たちがつくりあげた。
 それは趣味の仕事ではなかった。日本語の書き言葉を「現地語」から「国語」に昇華させることこそが「世界参加」の条件だったからである。その最先端にあって、小説は「現代」をうつしとることができると実証した作家が漱石であった。
 そんな漱石の「同時代文学」を、いまの青年は読めないという。驚き、かつ深刻な悲しみを持つ。
 青年たちは、暗黙のうちに申し合わせて「ばか」になろうとしているかのようだ。その場合「偏差値」は落ちない。なのに知識量は全体に減少している。なによりそこには、青年期特有の「知への渇き」が見られない。善意から発した愚民政策、または、ほとんど信仰の域に達した平等主義が必然的にもたらした空虚な果実というべきか。
 そうしてネット上を大量の「情報」が光速で行きかう。情報の乗物は「英語」である。だが、情報は「知」ではなく、英語もまた「知」ではない。情報は利便性を高めるというが、実のところ私たちの生活の質は、それによって豊かさを増したとはいいかねる。精神の方は、むしろ停滞する。そう思い至るとき、私たちは肌寒さを感じる。
 水村美苗さんは、英語の環境のただなかにあって、改造社版円本文学全集に身をひたしながら長じられた。彼女が、日本語の「書き言葉」を成熟させた文学者たちを、たんに遠い昔に死んだ人ではなく、同時代の果敢な先輩と見るのは、その得がたい体験のためだ。
『本格小説』で、日本と世界の先輩たちの営為を受継ぎつつ、私たちに「物語のおもしろさ」と「書き言葉の力量」を存分に知らしめてくれた水村さんが、『日本語が亡びるとき』では、英語のツナミに溺れて「国語」から「現地語」へ、転落の淵にある日本語の「書き言葉」の現状を憂えられた。
 彼女が鳴らす早鐘の音に私はたしかに感応したので、銓衡の席上、そう強く訴えた。水村美苗さんに小林秀雄賞をもらっていただけたことを、心よりうれしく思う。

空転と人品

加藤典洋

 水村美苗『日本語が亡びるとき——英語の世紀の中で』の前半三章が雑誌『新潮』に載ったのはちょうど一年前のことである。来年の候補作がここにもう出ていますね、というくらいのことを私は一年前の選考会で口走ったかもしれない。それは生き生きとした問題作と私の目に映った。本になった後、この一年間に都合二回まで若い人と講読する機会をもったのは、そのためである。
 しかし、何かわだかまるものが特に後段四つの章についてあり、今回、なぜそうなのかを考えた結果、後段登場する「叡智を求める人」という重要なタームの理解が、どうも自分と水村さんとでは正反対になっていることに気づいた。
 江戸期の「叡智を求める人」は朱子学に行ったはずである。それがなぜ幕末、福澤諭吉のような訳のわからない人間が出てきて蘭学、洋学を修めるようになるのか。近代以前の西欧の知識人も「叡智を求め」ラテン語の図書館に出入りしたはずである。それなのに、なぜルネサンス期以降、ダンテ、デカルト、ルターなど、中で特に有力な頭脳が俗語(現地語)で書くようになるのか。それは、彼らが「知」をではなく「叡智」を求めたからである。もはや図書館の既存の「叡智」は「叡智」にあらず(「知」にすぎない)。そう考え、彼らは普遍語の図書館から外に出たのである。
「叡智を求める人」は普遍語の図書館をめざす、というのが水村さんの理解だが、私の理解では彼らは図書館に入った後、そこにあきたらず、そこを出る。その結果、「現地語」でも書き、これを「国語」に鍛え上げる。「叡智」は「二重言語者」とともに動いたのである。
 だからむろん、いま夏目漱石が生きていたら(あるいは生まれたら)彼は何語で書いただろうというこの本の問いの答えは私の場合、明瞭で、漱石は日本語で書く。英語で書いたら漱石にならない。
 ここに生ずる空転の結果、最後の二章は、憂国の情が披瀝されるが、明治期の文部省の場所と変わらないところに著者は行ってしまっている。しかし、その私から見ての空転を勘定に入れても、こういう面白い境遇の書き手が生まれるまでに、三代の母系の流れが必要であったことはよくわかる。その文の肌理は、特に前半に強く表れているが、憂国の後段にも、残っている。書き手の人品のしからしめるところだろう。
 この本の受賞に私も同意した。

 


 

『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』水村美苗

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

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