慶應義塾大学の教養課程は、日吉(神奈川県)にある。東横線は、今では地下に潜ってしまったが、俺が大学生だったころは、渋谷の地上にあった。俺は恵比寿から中目黒まで歩き、渋谷に出て、東横線に乗って日吉に通った。俺が住んでいた頃の恵比寿は決しておしゃれな街ではなく、ビール臭い蒸し蒸ししたところだった。駅から10分ばかり歩いたところにあった老夫婦の家の2階が、俺の大学生活の開始地点であった。2階には3畳ひと部屋、4・5畳ひと部屋があるだけだった。寛大な我が父母は、俺が4・5畳の部屋に住むことを許してくれた。当時の家賃は覚えていない。
 俺は大学生らしい生活を目指すため、父母に寝台をねだった。寝台を入れ、机を入れ、本棚を入れ、あれはなんて言うんだっけ、金属の枠組みにビニールをかぶせてジッパーで閉じる簡易洋服ダンス、あれを入れると部屋は満杯で、椅子を入れることが出来なかった。俺は寝台に腰掛け、机に向かい勉強することにした。多いときには1日8時間以上机に向かっていた。しかしそのほとんどの時間、俺は勉強をしていたのではなく、クラシックギターの練習をしていたのであった。

 うちの親父が寡黙な水道屋であったことは前に話した。中学時代の俺は、ぼちぼち仕事を覚えろと言われ、親父に工事現場に連れて行かれた。俺はひそかにポケットに文庫本を入れ、親父と数人の従業員が込み入った仕事をしている隙にそれを読んでいた。細切れな時間だったので、大方は遠藤周作のエッセイ集か星新一のショートショートであった。とはいえ、俺も力なしなりに肉体労働に励み、夕方疲れて家に帰り、従業員らと一緒にちょっとしたつまみを食べ、彼らはビールを飲み、そして俺は母屋に帰った。
 中学時代に4、5回ではあるが、夏休みに水道工事を手伝った後、何を思ったか親父は俺を足利市街にあるスナックに連れて行ってくれたことがある。スナックの名前は「天狗」と言った。そこで親父はマカロニグラタンを奢ってくれた。昭和50年前後のことだ。こんなうまいものがあるなんて、と俺はこのマカロニグラタンのために水道屋になるのも悪くないなと思ったほどである。親父はその店の女将さん(ママというべきか)のことを気に入っていたのだろう。その店にあるギターを弾きながら、石原裕次郎の歌を低く歌ったものであった。寡黙な親父だが、ギターを弾きながら石原裕次郎を歌うとずいぶんさまになっていた。
 世の中はその頃フォークブームで、ギターというものは鉄の弦が張ってありシャカシャカ鳴り、「結婚しようよ」とか「春夏秋冬」とかガナるのが流行であった。しかし田舎の商店街のスナックにあったギターはナイロンの弦が張ってあり、柔らかい音がした。音窓から中を覗くと「古賀」というラベルが貼ってある。これが「古賀政男」のことであるのは大学生になってから知った。俺はフォークは好きだったが髪を伸ばし「♪結婚しようよ」などと歌うには自意識過剰過ぎた。俺の中学は男子は坊主刈りだったので、坊主頭の連中がしんみりと井上陽水の「♪真っ白な陶磁器を」(「白い一日」)などと渋く歌うのは笑止千万だと思っていた。だから、弾くならこの柔らかい音が出るギターがいいなと思っていた。そのギターは何も歌をうたいながら弾かなくてもよく、「禁じられた遊び」という世界で一番難しい曲を弾けるようになると女子から人気が出るという噂もあった。この噂は前半も後半も虚偽であることが、大学に入ってわかった。「禁じられた遊び」は初歩的な曲であり、それが弾けても女子にはもてない。

 高校生になってすぐ、俺が家に帰ると、俺の部屋にクラシックギターが置いてあった。俺は親父にギターをねだったことがなかったので、これは親父のギターなのかな、と思っていた。だから、「これ、どうしたん?」と親父に聞いてみると、親父は「高校生になったらギターくらい弾くもんだ」と投げやりに言った。それ以上の説明はなかった。が、しかし、俺がギターを、しかもクラシックギターを欲しがっていたのはわかっていたのだろう。そのころ俺は、NHKでやっていた「ギターを弾こう」という番組を見ていたのだ。講師の荘村清志が「アストリアス」という曲を弾くときのかっこよさを見たら、俺には「♪僕はー呼びかけはしない」(「さらば青春」)などと歌うより、ギターにだけ歌わせるほうが似合っているだろうな、と思っていたのである。
 俺を水道屋にすることにかけてはゆずらなかった親父だが、俺がそのとき一番欲しかったものを何の予告もなく買って、しかも「高校生になったらギターくらい弾くもんだ」と言ったきりこのギターについては何の言及もしなかった親父は、ほんとに寡黙だった。だからこのちょっとした出来事と親父の一言がいつまでも忘れられないでいる。
 このギターはヤマハでもヤイリでもモーリスでもなく、音窓から覗くと「南海」というラベルが貼ってあった。南海? そんなギターブランドがあるなんて知らなかったが、俺はそれでもとても嬉しかったんだよ。
 俺はNHKの「ギターを弾こう」のテキストを買い、最初の曲から弾き始めた。俺は音楽の授業において常に劣等生であり、歌もわざと音痴に歌わないと迫害される田舎だったので、音楽の才はたぶんないなと思っていた。しかし不思議なことに、ギターだけはみるみる上達し、1年の後には古典派の名作、ソル作曲の大独奏曲を弾けるようになっていた。水道屋になる運命から逃れることをさまざまに画策し、獣医になることを夢見ていた俺は、ひょっとしたら俺の天職はギタリストかも知れん、と思い始めた。
 大学のギター部に入って本格的にギターの練習を始めた。大学に行く、ということはギター部の部室に行くことだった。ギター部の部室は日吉のサークル棟にあり、隣がワグネル・ソサィエティー・オーケストラという大学でいちばん大きな管弦楽団だった。ギターの音は柔らかく心に響く。しかしそれも、隣の部屋で管楽器が鳴り出すと全く聞こえなくなる。俺たちはそういうときには「うるせーワグネル」と怒鳴ったが梨のつぶてであった。
 クラシックギターというものはソロ楽器なので、徒党を組んでも意味がない。とはいえ、人は寂しがり屋なので、クラシックギターが好きな連中で集まってしまい、ギター部ができる。ギター部では徒党を組む意義を探し、そしてギター合奏という特殊な形態が生まれた。ギター合奏とは、管弦楽曲をギターの3ないし4部の合奏に編曲しなおして弾くことである。音楽的な意義については疑問がある。ギターの音は点だ。指ではじいた瞬間に鳴り、その後は急激に消えてゆく。だから始点が少しでもずれるとシャキッとしないのである。バラバラリンと聞こえてしまう。管弦楽の音は線である。鳴り続けることができるから、始点が少々ずれても大問題ではない。ジュワーンと聞こえる。
 それでも俺たちは、下手するとバラバラリンと聞こえるギターを持ってつどい、徒党を組み言い訳としてギター合奏を行う。俺は入部早々1年生合奏のコンサートマスターになった。要するに、合奏のメロディーパートのリーダーであり、合奏の中でソロを任せられる役割である。だから俺は、慶應のギター部でギターを弾き、家に戻ると寝台に腰掛け、机の上に楽譜を広げてギターの練習をしていたのである。とても忙しい。こんなので勉強なんかできるものか。

 いや、忙しいのはそれだけじゃない。大学にはなんと、異性がいるのだ。高校にはオスしかおらず、無駄に発情していた。大学には女性もおり、場合によっては発情が報われるかもしれないのだ。それどころか、発情した女性もいるかもしれないのだ。そんな世界があったのか。感動しっぱなしの俺は、ギターで鍛えた指捌きでいつか女性を高みに登らせることを夢見ながら、今日も恵比寿の下宿でギターの練習をするのだった。そして問題は、ギター部にも美しい異性がいたことであった。こんな状況で、俺に勉強する暇なんかない。