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岡倉天心 日本近代絵画を創った描かぬ巨匠

なぜ和辻は天心を書き落としたのか

 一八八四年の夏、フェノロサは文部省の命を受け、法隆寺に調査に向う。来日して六年後のことだった。フェノロサは夢殿に安置されている秘仏の公開を要請する。だが、僧たちは厄災が起こることを恐れ、申し出を拒んだ。仏像が安置されている厨子の扉は百五十年以上開かれたことはなかった。彼は扉を開けさせることに成功する。当時はまだ「救世観音」という呼び名も定まっていなかった。今日、正式には救世観世音菩薩という。

 一九一九年、天心が没してから六年後に記された『古寺巡礼』で和辻哲郎は、この秘仏公開にふれ、「この奇妙に美しい仏像を突然見いだしたフェノロサの驚異は、日本の古美術にとって忘れ難い記念である」と述べ、次のように書いている。

フェノロサは同行の九鬼氏とともに、稀有の宝を見いだすかも知れぬという期待に胸をおどらせながら、執念深く寺僧を説き伏せにかかった。そうして長い論判の末にとうとう寺僧は鍵を持って中央の壇に昇ることになった。数世紀間使用せられなかった鍵が、さびた錠前に触れる物音は、二人の全身に身震いを起こさせた。

 臨場感のある記述だが誤りがある。立ち会ったのはフェノロサと「九鬼」、すなわち九鬼隆一だと記されているが彼はこの場にいなかった。事実はフェノロサと天心、そして加納鉄哉の三人である。この記述は『古寺巡礼』の改訂版からの引用だが、初版には九鬼の名前すらない。「フェノロサは助手の日本人と共に」と記されているだけだ。確かに九鬼は、この調査の責任者だった。だが、彼がこの秘仏を見るのは後日のことである。和辻は何らかの資料を見て、補筆したのだろう。問題は天心である。なぜ和辻はここで天心にふれなかったのか。

 このとき天心がフェノロサに随伴していたことは多くの天心論でふれられている。だが彼の生前は、少し状況が違った。救世観音の発見はフェノロサ個人の功績で、天心は偶然そこに居合わせた程度に思われていた。現代の天心論ですら、秘仏発見において天心が果した役割は「脇役」に過ぎないと記すものもある。和辻が天心にふれなかったのもおそらく意図的ではない。天心がその場にいたことを知らなかった可能性が高い。そもそも和辻と天心の関わりが薄いのであれば、彼が天心に言及しないこともさほど大きな問題にはならない。だが、和辻にとって天心は特別な存在だったのである。

 東京帝国大学で学んだとき和辻は、天心の講義「泰東巧藝史」を受けている。漠然と聴講していたのではない。むしろ、天心の姿に強い衝撃を覚えている。後年、和辻は、講壇から語る天心の姿にふれ、「好学心ではなくして芸術への愛を我々に吹き込むようなものであった」(「岡倉先生の思い出」)と書いたのだった。

 ある時期、和辻は漱石の門下にいた。このことが象徴するように、和辻はその出発点において芸術と哲学の間で揺れ動いていた。先の一文で和辻は、天心の姿を想い出しながら、こう続けている。

先生がある作品を叙述しそれへの視点を我々に説いて聞かせる時、我々の胸にはおのずからにして強い芸術への愛が湧きのぼらずにはいなかった。一言に言えば、先生は我々の内なる芸術への愛を煽り立てたのである。

 この回想文を書いたとき、和辻は四十六歳である。すでに哲学者として確固な位置を築いていた。小品といってよい一文で繰り返される「芸術への愛」の一語を見るとき、和辻における天心の影響がいかに強いかを思わずにはいられない。「芸術への愛」こそ、他の哲学者たちと彼を峻別するものだからだ。そうした心情がもっとも先鋭的に示されている著作が『古寺巡礼』だった。

 だが、そうした思いを天心に抱いている和辻ですら、救世観音発見の際、フェノロサの横に天心がいた事実を知らなかったのである。それほど、法隆寺の秘仏発見という出来事は、フェノロサ個人と深く結び付いていた。現在もそれは続いているのかもしれない。
『古寺巡礼』には、秘仏発見をめぐって記されたフェノロサの言葉が引かれている。

この驚嘆すべき、世界に唯一なる彫像は、数世紀の間にはじめて人の眼に触れた。それは等身より少し高いが、しかし背はうつろで、なにか堅い木に注意深く刻まれ、全身塗金であったのが今は銅のごとき黄褐色になっている。頭には朝鮮風の金銅彫りの妙異な冠が飾られ、それから宝石をちりばめた透かし彫り金物の長い飾り紐が垂れている。

 引用に際し和辻は、原典の名前を記載していない。原著はEpochs of Chinese and Japanese Art: An Outline History of East Asiatic Design(邦訳『東洋美術史綱』森東吾訳)である。この本が公刊されたのは一九一二年、和辻はこれを原書で読んでいる。フェノロサが亡くなったのは一九〇八年、彼の代表作は没後の出版だった。さらに、刊行が救世観音の発見から二十八年後だったことは注目してよい。この本が出た翌年、天心は逝く。清見陸郎によれば天心がこの本を手にすることはなかったという。

 この大部の著作で天心の名前が出てくるのは二度だけである。一度は天心をmy student「私の弟子」とあえて紹介している。日本における二人の交流の密度を考えれば、あまりに不自然に思われる。天心とフェノロサの交流は生涯を通じたものにはならなかった。いつとは断定できないのだが、少なくともフェノロサの帰国を契機に二人の間には溝ができて行く。

 とはいえ、フェノロサも日本人の固有名を記すことはなかったが、秘仏を自分だけで見つけたとも書いていない。「われわれは一見して、この像が朝鮮作の最上の傑作であり、推古時代の芸術家特に聖徳太子にとって力強いモデルであったに相違ないことを了解した」と述べ、現場に複数の人間が立ち会っていたことには言及している。また、この一文をよく読むと、救世観音と朝鮮文化との関係、あるいは聖徳太子との関係を認識するに至ったのもフェノロサ個人の営みではなかったことが伝わってくる。

 一八九〇年から三年間、天心は東京美術学校で「日本美術史」を講じる。同年、フェノロサはアメリカに帰国している。この講義で天心は、秘仏公開に立ち会ったときのことを語った。最新の全集(一九八〇)に収録されている原文は文語体だが、次に引くのは聖文閣版の天心全集(一九三八)である。編者の岡倉一雄によって講話体に書き直されていて読みやすい。この記録はもともと、聴講していた学生の手記で天心自身による記述ではない。以下に引く一雄によって書き直された文章の方が、当時天心が語った状況に近いと思われる。「余は明治十七年頃、フェノロサ及び加納鉄斎〔哉〕と共に、寺僧に面してその開扉を請うた」と述べ、天心はこう続けた。

寺僧の曰く、これを開けば必ず雷鳴があろう。明治初年、神仏混淆論の喧しかった時、一度これを開いた所、忽ちにして一天搔き曇り、雷鳴が轟いたので、衆は大いに怖れ、事半ばにして罷めたと。前例が斯くの如く顕著であるからとて、容易に聴き容れなかったが、雷のことは我等が引受けようと言って、堂扉を開き始めたので、寺僧はみな怖れて遁げ去った。開けば即ち千年の欝気紛々と鼻を撲ち、殆ど堪えることも出来ぬ。蛛絲を掃って漸く見れば、前に東山時代と思われる几案があり、これを除くと、直ちに尊像に触れることが出来る。像は高さ七、八尺ばかり、布片、経切等を以て幾重となく包まれている。人気に驚いたのか、蛇や鼠が不意に現われ、見る者を愕然たらしめた。軈て近くからその布を去ると、白紙があった。先きの初年開扉の際、雷鳴に驚いて中止したというのはこのあたりであろう。白紙の影に端厳の御像を仰ぐことが出来た。実に一生の最快事であった。

 同質の記述はフェノロサの本にも記されている。だが、天心の講義はフェノロサの著作が世に出る二十年以上前に行われている。また、フェノロサは日本語がほとんどできなかったことも想い出すべきだろう。天心はフェノロサの通訳でもあったが、同時に日本の美をよみがえらせようと企図する協同者の立場にいた。それは先の臨場感あふれる記述から伝わってくる。先に引いた一節のあとにフェノロサは次のように書いている。

正面から見るとこの像はそう気高くないが、横から見るとこれはギリシアの初期の美術と同じ高さだという気がする。(中略)しかし最も美しい形は頭部を横から見た所である。漢式の鋭い鼻、まっすぐな曇りなき顔、幾分大きい―ほとんど黒人めいた―唇、その上に静かな神秘的な微笑が漂うている。ダ・ヴィンチのモナリザの微笑に似なくもない。

 推古時代の仏像と古代ギリシア文化との関係は天心も「日本美術史」の講義で語っている。ただし、フェノロサと意見は微妙に異なる。天心は、ギリシアからアジアへ一方向的に文化が推移するという西洋にとっては常識的な考えを取らない。交流は常に相互的だと考える。フェノロサと天心は幾度となく、この事象に関して論議を重ねたのだろう。ここで再考したいのはモナ・リザをめぐる見解の出所である。

 救世観音は静かな微笑みを湛えていて、フェノロサはモナ・リザの微笑みとそれを比している。こうした解釈を引きながら和辻は、「このフェノロサの発見はわれわれ日本人の感謝すべきものである。しかしその見解には必ずしもことごとく同意することができない」と書いている。彼はフェノロサの考えに必ずしも同意しないが、モナ・リザと秘仏を比較するという視座はフェノロサ独自のものであると考えている。

 秘仏発見のときすでに、フェノロサはモナ・リザを見ている、と和辻は思っているのだろう。だが事実は違った。一八八七年、天心とフェノロサは国の命を受け、ともにルーブル美術館を訪れている。もちろん、天心にとってはじめての渡欧、ルーブル訪問だった。しかし、状況はフェノロサも変わらなかったのである。

 天心の『全集』には、この視察旅行のときに書かれた手記が「欧州視察日誌」として収録されている。しかし、ここで問題になっているパリの部分が欠落している。天心らがパリを訪れていることは複数の天心伝でふれられている。だが、資料がないことから、その意味は、改めて問われないまま今日に至っている。

 二〇〇八年、天心がパリ訪問時のことを書いた手記が発見された。自身のためのメモだから日時は記されていない。だが、語られている事実から考えるとフェノロサと旅したときのものである可能性はきわめて高い。手記に刻まれている強い感動を述べる筆致からは、待ち望んでいた何かにようやく出会った者の実感があふれている。そこで天心はモナ・リザをめぐって次のように書いている。

「此像ハ是レ一個人ノ肖像ナルニ過ギズト雖モ(一部削除)當時基督教ノ神髄ヲ得タル一名筆ナレバナリ」。一人の女性の姿を描いた肖像画に過ぎないが、描かれた当時のキリスト教信仰の精髄を伝える名品だというのである。さらに天心はその微笑みにふれ、「眼中ニ涙ヲ含ミ口辺ニ微笑ヲ帯ビタリ、豈心ニ暗愁ヲ懐テ笑テ世人ヲ慰ムルノ意ナルナカランヤ」と記している。天心は、モナ・リザの目に涙を見ている。苦しみを生きながら、微笑む女性の姿は、見る者の胸に秘められている悲痛をも慰めているという。

 他者の苦しみをわが身に引き受けながら、顔には静かな笑みを浮かべる。それは観音菩薩の微笑みである。菩薩とは、自身はすでに救われている身でありながら、衆生のために苦界に留まる者をいう。天心は同質の悲願をモナ・リザに見ている。そうでなければ彼の眼に、モナ・リザの涙は映るまい。

 秘仏とモナ・リザの間に、時代と文化の差異を超え、考察すべき問題があることをフェノロサに語ったのは天心ではなかったか。

 モナ・リザをめぐってだけではない。この手記には芸術とはついに高次な意味における「宗教」芸術となることを熱く語る天心の言葉が記されている。先章でふれた狩野芳崖の名前も書かれている。判読が難しいのだが、モナ・リザをはじめとしたヨーロッパの宗教画を見ながら天心は、芳崖の作が勝るとも劣らない霊性の表現たり得ていることを確信したのだろう。

 仮に、何らかの理由で、この手稿が異なる時期のものであることが特定されたとしても、この視察旅行で天心がフェノロサと共にルーブル美術館を訪れ、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品を見た事実は動かない。帰国後、二人はこの旅を報告する講演をしている。そこで天心は、ダ・ヴィンチに言及する。同志を前にした講演会で天心は、次のように語った。もちろん、この場にフェノロサもいた。

リヲナルド・ダビンチは気韻幽遠にして李公麟の風采あり、フラ・アンゼリコは高雅沈密にして春日基光の後身ならんか、ペルヂノは清潔にして梅花の骨相を含み、ボテチヱリは温淳にて春雲の岫を出るが如し。ラヒエルの秀逸、マイケルアンジヱロの豪健活潑にして龍の大地に蜿蜒するが如きは、皆吾人の愛敬貴重の念を喚起するものなり。

 李公麟は北宋の画家、春日基光は奈良時代の絵師である。天心はダ・ヴィンチやフラ・アンジェリコをはじめとしたルネサンス絵画に東洋との親近性を認めている。

 この講演こそ、天心がフェノロサの代弁者としてではなく、一個の思索者として語り始める契機になった、と語るのは高階秀爾である。彼は「『欧州視察日誌』の意義」で「それまで、思想的にはフェノロサとほとんど一心同体であった」天心がこの講演ではフェノロサと「微妙な違いを見せている」と述べている。

 救世観音発見の軌跡を読み重ねるほど、天心とフェノロサの関係の深さが浮かび上がってくる。天心はフェノロサから大きく学んだ。このことを過小評価することはできない。フェノロサとの邂逅がなければ私たちの知る天心は生まれなかった。だが同時に、フェノロサもまた天心から深く学んだのである。このことをめぐっては未だ、論究する余地が大きく残っている。

 一九〇八年六月、およそ七年半ぶりにフェノロサと天心は偶然出会うことになる。場所はルーブル美術館だった。フェノロサは、先にふれた著作の調査のためにフランスに来ていたのだった。

 およそ十年間にわたってフェノロサと天心は交流を深めた。二つの肉体で一つのことを探究していたかのような密接な関係にあった。だが、あるときから状況は変化する。清見陸郎をはじめとして複数の人々が再三にわたって原因を究明しているがいまだ、確固とした見解に
は至っていない。だが、そもそも明示できるような理由はなかったのかもしれないのである。

 フェノロサが行動を共にし始めたとき天心は、熱情と叡知を兼ね備えた、しかし、無名の人物だった。だが、年を経るごとに天心は日本美術界のみならず、同時代の思想界において重要な役割を担ってゆく。同時代とは、日本だけをさすのではない。彼の活動はアメリカ、ヨーロッパ、インドへと広がっていた。天心の英文著作『東洋の理想』(一九〇三)や『茶の本』(一九〇六)も、おそらくフェノロサは手にしていただろう。フェノロサは、天心よりも十歳年長だった。後ろを走っていたと思っていた者に、疾風が吹くような勢いで追い抜かれるのはつらい。疎遠になるには十分な理由だろう。

 だが、ルーブルで声をかけてきたのはフェノロサだった。天心は驚き、フェノロサにどこに泊まっているのか、どれほど滞在するのかと尋ねる。パリに着いたばかりで三、四日後には、ベルリンへ行く、ホテルが決まったら連絡するとフェノロサは言ったが、天心に改めて連絡が来ることはなかった。これが二人の最後の出会いとなった。三ヵ月後、フェノロサはロンドンで病のため客死する。二人にとって再会の、そして最後となった面会の場所がモナ・リザを蔵しているルーブル美術館だったことには何かの機縁を感じる。

「此の美は恐ろしい」高村光太郎の慧眼

 古寺調査を通じて、天心が経験したことは別にもある。「日本美術史」で彼はこう語った。「然し、秘仏を開いて却ってその価値を損じ、寧ろ開かないで優れたものにしておくに若かざる事がある」。すべての秘仏が公開されるべきだと天心は考えていない。この態度において彼はフェノロサと異なる視座に立つ。

 ある寺で秘仏の調査をしているときのことだった。幾重にも包まれた布を開けてみると火事で燃えた秘仏の木片と思われるものが出てきた。こんなもののために長時間を費やしたかと思うと残念でならない、と天心は語る。だが、その語感には複雑な思いがにじんでいる。造形美を基準に考えるとき、そこには何も見るべきものはない。その一方で天心は木片になってもなお、秘仏として拝む人々の思いが生きているのを感じている。むしろ、そこに強い畏怖の念を覚えている。そうでなければ、扉を開かないで「優れたものにしておく」という発言にはならないだろう。

 後続の者の中にも同質の感慨を深く抱く者がいた。木片となっている秘仏だけではなく、当の救世観音もまた非公開の秘仏に戻るべきだと強く語った者がいた。高村光太郎である。光太郎のなかで天心はある強度をもった存在として認識されていた。二人には浅からぬつながりがある。光太郎の父は、彫刻家高村光雲である。光雲は東京美術学校で天心と同僚だった。天心が光雲を招いたのだった。一八九八年、日本美術院の設立にあたり、天心が東京美術学校を後にするとき光雲は、一たび天心と道を共にする意思を表明するが、説得され、もとの場所に戻った。このことは光雲が、心情的には天心に近かったことを示している。東京美術学校予科に光太郎が入学したのは一八九七年、天心が東京美術学校の校長職を辞する前年である。光太郎は天心ときわめて近かった橋本雅邦に日本画を習っている。また、この間に光太郎に美学を講じたのは、天心が招聘した森鷗外だった。光太郎が天心と面識があったかはわからない。しかし、彼が校内で天心の姿を見たことがあることは「美術学校時代」と題する光太郎の随筆からうかがえる。

「美の日本的源泉」と題する一文で光太郎は、救世観音像にふれる。この像には、古都に数多ある仏像とはまったく異なる何かがあるのを感じる。聖徳太子の死に耐えかねた人々の思い、さらには万民を救おうとする太子の悲願が、死してなお、この像には宿っていると述べ、こう記している。

まるで太子の生御魂いきみたま が鼓動をうって御像の中に籠り、救世の悲願に眼をらんらんとみひらき給うかに拝せられる。心ある者ならば、正目には仰ぎ見ることも畏しと感ぜられる筈であり、千余年の秘封を明治十七年に初めて開いたのがフェノロサという外国人であったという事であるが、これは外国人だからこそ敢て為し得たというべきである。

 この像は生きている、魂を感じる力を持つ者はこの像を正視することはできまい、と断じるのは彫刻家高村光太郎の慧眼である。この一文は一九四二年、天心の死からおよそ三十年後に書かれている。ここでも秘仏はフェノロサひとりによって発見されたことになっている。さらに光太郎は、作者はこの像をいのちを賭して、「絶体絶命」の境地で作り上げ、出来上がってしまえば本人ですら、見ることを恐れた像ではなかったか、藤原時代、すでに秘仏となって厨子に入り、固く扉が閉じられたというのも理解できる、この仏像には「あらゆる宗教的、芸術的約束を無視した、言わばただならぬものがある」と述べたあと、次のように続けている。

 私は今日でもこの御像は再び秘仏として秘封し奉る方がいいのではないかとさえ思っている。たしかに太子が推古の御代を深くおもい給い、蒼生そうせい の苦楽をあわれませられ、更には衆生の発菩提心ほつぼだいしん に大悲願をかけさせられる生御魂がここにおわすのである。多くの美学者によって言われるような、強勁きょうけい とか厳正とか自若とか慈悲抱擁とかいうようなものだけでは余りよそよそしくて、この御像の真を伝え得ない。もっとあらたかな、おそろしいものがあることを感ずべきである。

 この一節ほど天心が感じていたことに肉薄している文章を知らない。光太郎は幼いころからすでに、光雲によって仏師の薫陶を受けていた。その上で彼は、フランスでロダンに出会い、彼独自の彫刻の道を見つけて行ったのだった。光太郎が訳した『続ロダンの言葉』(一九二〇)には次のような一節がある。「内へはいる。私は身ぶるいする。此の美は恐ろしい。私は夜の中へ踏み込んだ。どんな秘法が―古代宗教のどんな残酷な秘法が行われているか知れないと思われる生まな夜である」。さらに、こうも記されている。「芸術と宗教とは同じものである。二つながら愛である」。

 東洋を愛し、美は東洋からよみがえると感じていたロダンの精神は、天心と深く、強く共鳴する。天心にとっても美と宗教は不可分なものだった。それは『東洋の理想』、『茶の本』を貫く根本思想だと考えてよい。美の実現はついに一種の求道の域に達するという視座は、天心が狩野芳崖、橋本雅邦といった先人から継承した、もっとも重要な精神だったのである。

形而上の画家、芳崖と雅邦

 まったく性格も画風も異なる芳崖と雅邦だったが、彼らの間には傍目から見る者には容易に感じることができない信頼関係があった。二人はともに狩野雅信ただのぶ の門下だった。一八八八年、芳崖が逝く。彼は亡くなる五日前まで「悲母観音」を描き続けた。未完だったこの絵の仕上げを引き受けたのも雅邦である。彼は芳崖の没後、友と共に担うはずだった役割を一身に背負うことになる。

「橋本雅邦」と題する随筆で天心は、同時代の優れた芸術家を語るのは慎重でなくてはならない、なぜなら、その業績は時代を経てはじめて理解され得るからだ、また真の画家は、単に技量に秀でているだけでなく、その人格が高みになくてはならないという。さらに雅邦の代表作の一つ「釈迦十六羅漢」にふれ、天心はこう書いている。

紫雲靉靆あいたい たる処、光明十方を照らし、唯見る至尊の金容、蓮上に儼然として円満の法界を現ずるを。十六の阿羅漢、其の神生きるが如く、箇々の画貌は箇々の精神を顕わすものなり。洞然妙悟するもの、豁然大観するもの、端然たるもの、毅然たるもの、笑うもの、黙するもの、拱くもの、捧ぐるもの、或は眉を捻じ、或は法鉢を弄す、皆な既に人界のものにあらず。

 紫雲とは、浄土への扉を意味する。「靉靆」とは雲がたなびく様である。描かれているのは、「皆な既に人界のもの」ではなく、「円満の法界を現」じさせる。そう語る天心にとって雅邦は、芳崖と同じ秀逸な形而上画家として認識されていた。彼らは異界とこの世界が交わるところを描こうとする。そうした雅邦を語るとき、見過すことができないのが「龍虎図屛風」である。

 この作品は一八九五年、第四回内国勧業博覧会に「釈迦十六羅漢」とともに出品された。「釈迦十六羅漢」はこの展覧会で入賞し、高く評価されたが、「龍虎図屏風」は違った。梅澤精一の『芳崖と雅邦』によれば、その「作風を異様とされ」評価されなかったという。だが雅邦は、この画に異常なまでの熱情を傾ける。依頼主から三百円で依頼されたが、さらに私費二百円を追加して仕上げたという。雅邦は竜虎を描きながら、フェノロサと天心を思ったのではなかったか。『易経』には竜虎をめぐって次のような記述がある。

「雲は竜に従い、風は虎に従う。聖人おこ りて万物 る」。雲はおのずと竜に引きよせられるように、虎があらわれれば風はおのずからその近くに吹く。世をあらた める聖人が現れるとき、万物はおのずからその姿を見ることになる、というのである。海を渡ってきたフェノロサは竜、大地の王である虎が天心だったのかもしれない。

 近代日本芸術の復興において、フェノロサの働きがいかに大きいものであったかを雅邦は、もっとも近く、また強く感じていた一人だった。フェノロサとの出会いがなければ、近代日本画名作の多くは生まれることがなかっただけでなく、雅邦と芳崖においては画を描き続けることすらできなかっただろう。だが、同時に雅邦は、フェノロサのそばにはいつも、若き天心がいたことを知っている。二人の親交は雅邦の死まで深まっていった。

「龍虎図屏風」が公になったときフェノロサはすでにアメリカに帰国していた。一九〇〇年に雅邦は、日本で理解されなかったこの図案を屏風という枠からはずして改めて描き、パリ万博に出品する。この作品はきわめて高い評価を得、日本画の存在を世界に知らしめることになったのである。


主な参考文献

梅澤精一『芳崖と雅邦』(純正美術社)
岡倉一雄『父 岡倉天心』(岩波現代文庫)
岡倉天心全集 別巻』(平凡社)
岡倉古志郎『祖父岡倉天心』(中央公論美術出版)
清見陸郎『天心岡倉覚三』(中央公論美術出版)
木下長宏『岡倉天心』(ミネルヴァ書房)
齋藤隆三『日本美術院史』(中央公論美術出版)
清水恵美子『岡倉天心の比較文化史的研究』(思文閣出版)
堀岡弥寿子『岡倉天心考』(吉川弘文館)

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

若松英輔

批評家、随筆家。1968年、新潟県生れ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。2007年、「越知保夫とその時代 求道の文学」にて第14回三田文学新人賞評論部門当選。2016年、『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』(慶應義塾大学出版会)にて第2回西脇順三郎学術賞受賞。2018年、『詩集 見えない涙』(亜紀書房)にて第33回詩歌文学館賞詩部門受賞。同年、『小林秀雄 美しい花』(文藝春秋)にて第16回角川財団学芸賞、2019年、第16回蓮如賞受賞。2021年、『いのちの政治学』(集英社インターナショナル、対談 若松英輔 中島岳志)が咢堂ブックオブザイヤー2021に選出。その他の著書に、『霧の彼方 須賀敦子』(集英社)、『悲しみの秘義』(文春文庫)、『イエス伝』(中公文庫)、『言葉を植えた人』(亜紀書房)、最新刊『藍色の福音』(講談社)など。

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