衣服とは魂の表象

 一八八七(明治二〇)年秋、天心らは年初からの十ヵ月に及ぶ視察を終えようとしていた。欧州を離れたあと、直接日本に向うのではなく、ひとたびアメリカへ寄った。そこで彼らは自分たちの才覚をいち早く認め、古寺の調査などを命じた九鬼隆一と出会う。
 当時九鬼は、公使としてワシントンにいた。天心は九鬼から頼まれごとをする。妻波津子を伴いつつ、帰国して欲しいというのである。波津子は病身で、かつ、妊娠していた。彼女が宿していたのは、のちに哲学者となる九鬼周造である。周造はのちに、このときのことを天心にふれながら、次のように述べている。


父が駐米全権公使をしてワシントンにいたのは後の斎藤総理大臣が海軍大尉で公使館附武官をしていられた頃だから一昔も二昔も前のことだが、父は何かの都合で母を岡倉氏に托して同じ船で日本へ帰らせた。私はまだ母の胎内にいたので母が日本へ帰ってから生れた。母と岡倉氏とはそれ以来の親しい間柄であって、私たちは岡倉氏を「伯父さま」と呼んでいた。(「岡倉覚三氏の思出」)

 帰路の船旅は三十余日間にわたり、閉ざされた空間のなかで天心と波津子の関係は急速に接近し、また深まっていった。隆一と波津子の関係は必ずしも良好ではなかった。隆一は有能な人物だったがその分、立場や力を得ることに貪欲で、周囲の人としばしば衝突した。師と仰いだ福澤諭吉との関係にも修復が難しいほどの亀裂が入ることになる。そうした人物に家庭を顧みない一面があったのは想像に難くない。天心と波津子の関係は、周造が生まれたあと、いっそう深まってゆく。このことは、隆一、天心それぞれの家庭にとって大きな問題になるだけでなく、黎明期にあった近代日本の美術界を揺るがす出来事へと発展するのである。
 もう一つ、この旅に関することで隆一と天心の間に起った不和にふれておきたい。それは衣装をめぐることだった。
 天心の写真は複数残っているが、そのほとんどで彼は和装をしている。写真を撮るときだけの正装だったのではない。和装が彼の日常だった。むしろ洋服で写っているとき、彼はそれを強いられてまとっている。彼は、好んで和装で過ごした。欧米の視察中でも同様だった。
 欧米視察に参加した天心の立場は、文部省の美術取調委員というもので、旅費はすべて国費で賄われていた。出発前に洋装があつらえられ、欧州ではそれを着るように命じられていた。行きの船上で撮影されたと思われる写真が残っている。そこで天心は洋服を着て写っている。だが、このときがこの旅で、洋服を着た最後だったのかもしれない。以後、彼は和装で通した。このことが、西洋化を促進する九鬼の強い顰蹙ひんしゅく を買うことになったのである。
 着飾るためのものか、あるいはそれは不可視な魂を包むものか、考えによって衣装の意味と役割は、大きく変わってくる。天心にとって衣装は、心身を包むだけのものではなく、むしろ魂の表象だった。それを安易に手放すことは、伝統という魂の源泉との関係を自ら打ち切ることになると彼は信じた。
 この問題にいち早く気が付き、自らの運動の根幹に据えたのがインドの革命家ガンディー(一八六九〜一九四八)だった。天心とガンディーは生年も近く、文字通りの同時代人だったが会うことはなかった。
 天心がインドを訪れたとき、ガンディーは南アフリカにいた。しかし、二人の思想はのちに詩人タゴールによって体現される。タゴールとガンディーは親交を深め、インド独立運動において重要な役割を担うことになる。後に改めてふれることになるだろうが、タゴールは天心に会うことがなければ、近代東洋の使命を背負った大詩人になることはなかった。タゴールの胸に革命の火を灯したのは天心である。そのことをはっきりと認識していたのは、ほかならないタゴール自身だった。
 イギリスからの独立を、非暴力革命によって実現しようとしていたガンディーは、人々に国産品の使用を強く促す。ことに衣服に関しては、イギリスから輸入された綿で作られた洋服を着るのを止め、自分たちで綿花の栽培から始め、糸を紡ぎ、インド人が着る衣服はインド人の手で作るべきだと訴えた。こうした国産品愛用運動をガンディーは、「スワデシー」と呼んだ。「スワ」は、固有なるものを意味し、「デシー」は、土地、国、大地を意味する。ある手紙のなかでガンディーは、スワデシーを実践する意義を次のように語っている。


スワデシーは、その究極的・精神的な意味においては、世俗の絆からの魂の最終的な解放を意味します。なぜなら、この地上の寓居いえ 〔肉体〕は、魂の自然な、あるいは永久の住処すみか ではないからです。それは、魂の旅路の行く手の妨げです。すなわちそれは、魂が〔他の〕すべての生類しょうるい と一体化する途上に立ち塞がります。したがってスワデシーの信奉者は、他のいっさいの創造物いのち と一体化しようと努めるなかで、肉体の束縛から解放されることを求めるのです。

 強いられた洋服を脱ぎ、自分たちの風土に根付いているものを着て、自由な魂に従って生きようではないかというのである。こうした思想の精神はかつてインドの国旗に刻まれていた。真ん中に描かれていた円形の模様は、チャルカーと呼ばれる糸車を模したものだった。
 衣服と精神の問題を、天心がいかに重く考えていたかは、彼が校長を務めた東京美術学校の制服から明かに感じることができる。東京美術学校の設置に関する勅令が発せられたのは、天心らの欧米視察が終りに近づいたときだった。むしろ、彼らの視察は、美術学校創設のためのものだった。帰国した三日後、天心は東京美術学校幹事となっている。以後、一八八八(明治二一)年の末、上野に校舎を構え、第一回の入学試験を行うまで天心は、学校創設のために奔走した。翌八九年の一月、第一回生六十五名が入学する。その一人に後の大観、横山秀麿もいた。
 天心が校長心得になったのは開校の翌年からだったが、開校当時から影響力は絶大だった。彼が校服として選んだのは西洋様式とは真逆の奈良時代の官吏の服を模したものだった。「制服は闕腋けってきほう にかたどった奈良朝ぶりのもので、帽子もそれにふさわしく、冠形の雅びやかなものだった」、と清見陸郎が天心伝に書いている。「闕腋の袍」とは、衣服の両脇の袖付けの下を縫い合わせず、開け広げたままの衣服を指す。そうすることで機能的には動き易くなり、着脱も簡単になる。見る者には威厳というより、尊厳を感じさせる様相になっている。
 明治時代でも、このような古式の衣服が抵抗なく受け容れられたわけではない。奇異な眼で見る人も少なくなかった。当時をふりかえって大観は次のように語っている。


たしか、明治二十二年の憲法発布の時のことではなかったかと思います。あの美術学校の校服が制定されました。今の司法官の法服と同じ式の、奈良朝そのままのような校服でした。私どももあれを着て、二重橋前の憲法発布の式典に参加したものですが、大学の人や世間の者が、何か異様の感をもって見ておりました。私はただ校則に従って着ておりましたものの、往来なんか歩いていると、人が奇異な目でじろじろと見廻すので、気の小さい者にはできる芸当ではありません。岡倉先生は、あれを着て、頭には冠をいただき、牛にのったり、白馬(若草)に乗ったりして、揚々として根岸のお宅から学校に通っていたものです。(『大観画談』)

 ここに見ることができるのは復古主義でも、ましてや国粋主義でもない。あえていうなら、もっとも高次な古典主義である。天心にとってこの旅は、西洋における美の伝統を胸の奥まで一杯に吸い込む経験となったが、そのあと、彼から放たれたのは、それへの礼賛の言葉よりも日本の伝統の復興と新生を訴える声だった。
 しかし、西洋文化に対する天心の態度は、出発するときから変わらなかったように思われる。彼にとって西洋に強く影響を受けることは内なる伝統をより深く認識する契機だった。伝統は時代に応じ、刷新されることによってよみがえる。そのことを彼はヨーロッパでレオナルドのモナ・リザをはじめ、ラファエロ、レンブラントなどの作品にまざまざと見たのだった。
 美術学校ではこの服を教師、生徒すべてが身につけた。生徒は黒色、教員は海松みる 色を、布の品質も生徒と教員は違うものを着た。さらに天心は海豹あざらし の皮で作った靴を履いていた。
「若草」とは天心の愛馬の名前である。道を行き来するだけで人々が自ずとこの学校を話題にした。もちろんそれは天心の目算のなかにあっただろう。天心の選択は単に、周囲の人々を驚かせただけではなかった。大観の言葉に「今の司法官の法服と同じ式」とあるように、このとき天心が選んだ様式は、のちに法曹の正装として採用されることになる。

美の霊性の輸出

 欧米の視察旅行から帰国後、天心とフェノロサが「鑑画会」で報告講演をしたことは先にふれた。鑑画会の創設は一八八四(明治一七)年、そこでは古美術の鑑定や同時代の芸術家たちの品評を行った。中心となったのはフェノロサやビゲローといった外国人だった。
 こうした活動は鑑画会が最初だったのではない。以前は「龍池会」と呼ばれる別な団体が同様のことをしていた。若き天心も一時ここに属していたことがあり、フェノロサも招かれて講演をしている。彼らは古美術の鑑定だけでなく、外貨獲得の手段として美術品、工芸品の製作を奨励していた。この団体は日本の近代化に歩調を合わせるように、いわば産業振興団体としての色彩を強めて行く。
 美は、人間の魂に直接語りかけ、それを目覚めさせるものである、と天心もフェノロサも信じていた。古美術を愛したところでは龍池会の人々と変らない。だが、天心らが試みようとしたのは古来の技術をよみがえらせることでも産業化することでもなかった。それは失われた美を取り戻すことであると共に、まったく新しい花を日本画の地に咲かせることだった。龍池会の人々と意見が異なるのは必然だった。
 鑑画会は発足当初、刀剣商の町田平吉によって率いられていたが、のちにフェノロサが主宰の任に就く。彼は内心に浮びあがるイマージュを画家に伝えた。通訳をしたのは天心である。このとき絵筆をとったのが狩野芳崖であり、橋本雅邦だった。鑑画会は例会を開き、討論を重ね、定期的に展覧会を実施した。フェノロサと天心の理想は、この二人の画家がいなければけっして実現されることはなかった。
 だが、芳崖、雅邦から見れば、鑑画会に連なることによって、長年の労苦から解き放たれ、画家としての生命をつなぎとめることができたのだった。二人が、鑑画会を通じて画家として世に出ようとした頃、日本画を巡る環境は、今日では考えられないほどに劣悪なものだったのである。
 明治の初め頃のことである。雅邦のもとに日本画の注文が来ることはなく、中国に輸出する扇子に文様を描いて生計を立てなくてはならなかった。百枚描いて一円の収入だった。当時の一円が今日のいくらに相当するかは諸説ある。仮に一万円だとしても到底一家が暮らしていけるような金額ではない。しばらくするとこの仕事も終り、彼は、三味線の駒を作ったこともあった。後日彼は、海軍兵学校で製図の教師になった。明治十年頃、雅邦は油絵に手を染めたことすらあった。このとき雅邦を襲った屈辱は、信仰者が棄教を強いられたときに似たものだったろう。
 問題は家計にだけあったのではない。彼の妻は精神を病んでいた。困窮のなか雅邦は、妻を家の一室に幽閉しなければならなかった。雅邦が製図教師として授業をしているとき、妻が家から抜け出し、騒ぎを起こしたとの連絡が入る。官軍の兵士の詰め所に檄文のような文書を投げ込んだというのである。あるとき妻は、家に火を放ち、娘の手を引き、一緒に死のうとしたこともあった。妻が亡くなったのは発病してから九年目、一八七九(明治一二)年のことだった。梅澤精一の『芳崖と雅邦』には、当時を雅邦自身が語った談話が収められている。次に引く一文は、一部漢字を平仮名に変え、送り仮名を補足している。


世はいよいよ騒しくなる、妻は発狂する、家計は苦しくなる、殆ど遣瀬のない程浮世の果敢なさが身に染みましたが、しかし私が思うようには、世の事と絵の事とは、まったくその縁を異にしているのである。一朝いっちょう 身の不遇をもってその素志を げるというような薄弱なことではならぬ。いやしくも画をもって天下に立とうと思う者が、それだけの覚悟がないようではかな わぬと、格別の親友であった芳崖と、日夜相往来して、互いに絵画上の事を談論し、相慰め相励んでおりました。

 画家雅邦の力量は、こうしたところで深化していった。芳崖は常にそれを支えた。年齢は芳崖が七歳上だった。二人は狩野派の同門であるだけでなく真の友でもあった。芳崖が順境にあったわけではない。彼も労苦の日々を送っていた。故郷下関から上京するとき芳崖夫婦は、衣服を売って旅費を工面しなければならなかった。東京に来ても画家としての仕事があったわけではない。道具屋の店頭を借り、当時流行っていた文人画に似せた画を描き、売ろうとしたことがあった。五十幅を描き、一幅二十銭を掛け表装したが、まったく売れない。結局はすべてを三円で売ることになる。
 あるとき芳崖は、砲兵工廠の図案課に勤務しようとして試験を受けたが、製図と日本画の技術はまったく異なり、採用されなかった。日給三十銭で、海外に輸出する陶器、漆器の下絵を描いたこともある。貧しい生活は芳崖の身体をむしばんだ。彼は肺病を病む。窮状を支えたのは妻である。彼女は周囲に懇願して資金を募り、店を開いて生活を支えた。
 一八八二(明治一五)年十月、農商務省の主催で第一回の内国絵画共進会が開催される。ここに雅邦と芳崖も出品した。雅邦の作品は銀章に選ばれた。だが、芳崖は認められない。彼が金章、銀章、銅章に次ぐ、褒状を手にしたのは第二回、八四年のことである。このとき芳崖が出品した「雪山暮渓図」に強く打たれた人物がフェノロサである。その近くには天心もいただろう。フェノロサは八二年の展覧会のときにすでに芳崖の作品に動かされ、翌八三年には天心と共に芳崖を訪れている。
 近代日本画の復興においてフェノロサ、ビゲローをはじめとした外国人が果した役割は大きい。画家たちを別にすれば、日本画の可能性を信じたのは、同時代の日本人よりも外国人たちだった。
 フェノロサとビゲローのほかにもう一人、この頃の日本画を考える上でふれておかなくてはならない人物がいる。画家ジョン・ラ・ファージ(一八三五〜一九一〇)である。天心とフェノロサとの縁は、いつからか薄くなっていったが、ラ・ファージは違う。天心との友情は生涯を貫くものとなった。一九〇六(明治三九)年、天心が四十五歳のときに刊行された『茶の本』(The Book of Tea)の巻頭には、To JOHN LA FARGE Senseiとの献辞がある。
 この画家の名は従来、ラファージと表記されていることが多いが、英語の表記にあるようにラ・ファージとするのがよい。彼は、敬虔なカトリックで教会のステンドグラスや祭壇画を多く手掛ける人物だった。来日の目的の一つには、ニューヨークにある昇天教会の壁画のモチーフを探すこともあった。アメリカの教会の壁画のモチーフを探すために日本に来る、一見すると理解し難い。だが、彼には自然な、また必然なことだった。ラ・ファージは、生前から高い評価を得ていた芸術家だったが、同時にアメリカにおけるジャポニズム(Japonism)研究の先駆者だったのである。
 今日では「主義」と訳される-ismだが、もともとは、特定の主張を示す言葉ではなく、「道」を表す表現だった。『茶の本』で天心は茶道を、Teaismと書いている。仏教はBuddhism、道教はTaoismと記されている。
 ジャポニズムは、浮世絵に代表される構図や色彩の輸出だったように語られることが多いが、それは表面上のことに過ぎない。それは日本から西洋にむけた、世界観の、誤解を恐れずにいえば美の霊性の輸出だった。このことは天心の周囲に集まった外国人たちには共通の認識だったのである。そうでなければフェノロサやビゲローも正式に仏教の戒を受けるところまでは行かないだろう。

時空を超えて続く叫び

 描くとは不可視なものに姿を与えること、それが東京美術学校の基本理念だった。この学校の創設にもフェノロサは深く関わっている。開校と共に雅邦は教授として迎えられた。直前に芳崖が亡くなったことは先にふれた。雅邦が、生徒たちに徹底的に教えたのは模写である。それは単に複写することではない。描くことで、歴史と交わることだった。模写する態度をめぐって雅邦が語った言葉にふれ、大観は次のように語っている。


橋本先生の言われた古画の模写というのは、いま考えても、とてもよろしゅうございますが、古画を見て、ただそれを写すとその精神を捉えることができない、だから古画を毎日掛けてはしまい、掛けてはしまい、一週間くらい何もせずにそれを見ていて、古画がすっかり脳裡に入ってしまってから、これを初めて写すというのです。私はそれを半年ばかりやって卒業しました。(『大観画談』)

 このとき、見ることは、単に図像を記憶することではなくむしろ、歴史の声を魂に写しとることだった。比喩ではない。大観は、先の一節に続けてこう語った。


古画模写の時は、いつでも菱田春草君と一緒に歩きました。春草君とも話し合いまして、在学当時いわれた通りのやり方で、「初めから写すとだめだぞ、魂の抜けた絵ができてしまうから、三、四日遊ぶつもりで絵とにらめっこしよう」というようなわけで、お寺に行ってもいきなり写さなかったものです。

 手を動かさず、仏画を見続けることで、描こうとする自意識が消えてゆく。それにしたがって美は、かえって画家たちの魂に充溢し、その手を動かす。画家に必要なのは優れた技術だけではない。美の器になり得る無私の精神だというのだろう。
 大観が行動を共にしたと語ったのちの春草、菱田三男治みおじ が美術学校に入学したのは一八九〇(明治二三)年、第三回生としてだった。九二年には専門教育を受ける専修科に進み、そこで大観と出会う。二人は文字通り刎頸の友になった。信頼は、相互の画家としての力に比例するように深まっていく。それは春草が三十七歳を目前にして亡くなるまで変ることがなかった。
 出会った翌年、大観は美術学校を卒業するが、その後も二人は行動を共にした。先の古画摸写も大観の卒業後のことである。彼らは九四年から九六年まで模写を続けた。間の九五年には春草も美術学校を卒業している。この学校では卒業制作を提出し、教授陣の審査を仰ぐことになっていた。このとき春草は、一年間ほどの準備期間を費やして「寡婦と孤児」と題する作品を描いた。
 描かれているのが同時代の光景でないことは、衣装、住まい、鎧など描かれているものを一見すれば分かる。今日の研究によると寡婦が着ている打掛けの模様や背景にある簾から、『太平記』の「北山殿御陰謀の事」にモチーフを得たと推定されている。
 この作品をめぐっては評価がはっきりと二分した。教授の一人福地復一は認めることに消極的だっただけではない。このような作品は画ではないと酷評した。
 一方、雅邦は絶賛した。「図するところ斬新の手法、独創の表現、当時において人の意表に出たもの」とされたと『日本美術院史』には記されている。雅邦の評価は自分の画風と似ていたからではない。むしろこの人物は、自らが考える画法、世界観と異なるものでも優れたものであれば認めた。雅邦は画家としてだけでなく、教師として秀逸だった。春草の作品をめぐる論議は四時間を超え、最後には校長である天心に任され、彼も高く評価し、春草の首席での卒業が決まった。違う結論が出ていたら、春草の人生だけでなく、近代の日本画も大きく変わっていただろう。
『太平記』との関係が指摘される以前、この絵をめぐって言われてきたのは、前年に起った日清戦争とその遺族に着想を得ているのではないかということだった。こうした記述を受けてだろう、近藤啓太郎は『菱田春草』で、「寡婦と孤児」を「反戦絵画」と呼んでいる。ほかでも同様の記述を目にするが、この画に描かれているのは反戦という表現とはおよそ異なることのように感じられる。
 画中に傷ついた鎧が描かれていることから乱世であることは分かる。女性は夫を戦で喪い、独り取り残され、不安にさいなまれ、慄いているように見える。だが、彼女の苦しみはそれで終らない。夫を奪った戦いが、いつの日か腕の中にいる子供のいのちを奪うことを憂いながら、戦乱という時代の風から、わが子を守ろうとしているようにも見える。
「寡婦と孤児」が描かれた十九世紀末、日本にはまだ、本格的な反戦運動は起っていない。二十世紀になってほどなく幸徳秋水によって、また日露戦争勃発後、内村鑑三によって唱えられた非戦論がはじまりだといわれている。日清戦争のときはまだ内村も「義のための戦争」(「日清戦争の義」)があると語っていた。
 だが、反戦と非戦は似て非なるものである。反戦とは、戦争を唱える人々に対抗する動きを指すのだろうが、非戦は違う。それは恒久的に戦いが止むことを祈ることである。この画に描かれているのは現代人が考えるようなプロテストではない。打ち棄てられ、誰も助けるところがいない場所で生きていかなくてはならない一人の女性である。この画に描かれているのは、反戦ではなく、非戦ではないだろうか。一人で行う反戦運動が功を奏すことは難しいだろう。だが、非戦の願いはいつも個の営みを淵源にする。画中の母親ははびこる戦に抵抗しようとしているのではない。そうした力は彼女にはない。ただ、無差別に命を奪い去るような争いがこの世からなくなることを祈っている。
「寡婦と孤児」を、春草が模写した古い仏画の横で見たことがある。この画が仏画を模写している期間に準備され、描き上げられていることは注目してよい。むしろ、仏画を模写するなかでなければ、この絵は生れなかったかもしれない。仏画の模写も、なまなましいまでに魂を写しとった名品だったが、「寡婦と孤児」にも時空を超え、『太平記』が書かれた室町時代から続く非戦の叫びが刻まれているように感じられた。「太平」が意味するのもまた、反戦ではなく、非戦に近い。春草は、画という言語とはまったく様式の異なる「言葉」で、近代日本の最初期に非戦を説いた人物として記憶されてよい。
 十一年後に書かれる天心の『茶の本』も非戦の願いが籠められた一冊だった。この本の本質が美と平和の書であることは今一度想起されてよい。天心は領土拡大に奔走する西洋諸国の迷妄を指摘しながらこう語った。原文は英語である。百年以上前に彼は西洋の人々に向かってこう語った。


もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。(村岡博訳)

 美は争わない。美はいつも人を和へといざなう。天心にとって「茶」とは、争いに融和をもたらす美の化身だった。非戦を説き、「わが芸術」と語るとき天心の念頭には、連綿たる東洋の伝統のなかに愛弟子春草の「寡婦と孤児」もまた、あったのではないだろうか。



主な参考文献

梅澤精一『芳崖と雅邦』(純正美術社)
岡倉天心全集 別巻』(平凡社)
清見陸郎『天心岡倉覚三』(中央公論美術出版)
清水恵美子『岡倉天心の比較文化史的研究』(思文閣出版)
齋藤隆三『日本美術院史』(中央公論美術出版)
鶴見香織編『別冊太陽 菱田春草』(平凡社)
中村愿編『岡倉天心アルバム』(中央公論美術出版)