天心が出した「懸賞仏画募集広告」

 長く読書に親しんだ人なら、自分が本を選んだのではなく、本が自分を選んだ、そう感じた経験が、一度や二度はあるだろう。書物はときに、見えない糸をたどるようにして読み手のもとへとたどり着くことがある。宗教哲学者ポール・ケーラスの『仏陀の福音』の訳書もそうした一冊だった。
 刊行されたのは一八九五(明治二八)年一月、訳者は鈴木大拙である。非売品だった。出版社から広く公刊されるのは六年後の一九〇一(明治三四)年である。この著作は天心のもとに届いただけでなく、彼の心を強く揺り動かした。天心が手にしたのは非売品の方だった。
『仏陀の福音』の初版が世に送り出された一八九五年の十月、『絵画叢誌』と『錦巷雑綴』に「懸賞仏画募集広告」と題する告知が出される。その冒頭には次のような一節がある。原文の送り仮名は片仮名だが、ここでは平仮名にし、一部の漢字の表記を改め、ルビ、句読点を補っている。


画数大凡おおよそ十枚を以って壱組とし、材料は博士ケーラス氏著、鈴木大拙居士訳『仏陀之福音』中に記載しある如き仏の伝記たること。ただし画種は墨画、あるいはクレェオン〔クレヨン〕画あるいは鉛筆画、あるいはペン画とす。

 大拙が訳したケーラスの『仏陀の福音』の世界観をもとに釈迦伝の連作の絵を描け、形式は問わないというのである。時宗の開祖一遍の生涯を描いた「一遍上人絵伝」に代表されるように日本には、優れた宗教者の生涯を連続した絵で描き出すという伝統がある。言語でなく、絵で描き出さなくてはならない何かがこうした人物の生涯にはあることに人々は気が付いている。天心は、同時代の画家たちに、この伝統的な形式を継承しつつ、ブッダの生涯を題材に試みよというのである。ただ、そのモチーフは、旧来の釈迦像ではなく、ドイツ人のケーラスが描き出した新しきブッダでなくてはならないというのだった。
 ポール・ケーラスは、一八五二年にドイツで、プロテスタントの牧師の息子として生まれた。彼は一八七六年に哲学の博士号を取得するが、次第にキリスト教の自らのみを真の宗教であると考える傾向に違和を感じるようになる。八一年、『科学における形而上学―倫理と宗教』を刊行、そこで説かれたキリスト教を絶対視しない自由思想のために強い非難を受ける。当時のドイツの哲学界でキリスト教に根源的な異を唱えることは、ほとんど追放を意味した。彼はイギリスに亡命する。
 八五年、ケーラスは『モニズムと世界改善論』を刊行、それがシカゴにあった出版社オープンコート社の経営者エドワード・へーゲラーの目に留まる。八七年一月二十一日にへーゲラーが招聘の手紙をケーラスに送ると三日後の日付でケーラスは承諾の返事を書いた。即決だった。三月にはシカゴに移住していた。当時のアメリカには「自由」をもとめる人々が集まっていた。ここでの「自由」は信教のそれよりも、むしろ、霊性の自由といった方が実状に近い。ケーラスはオープンコート社でヘーゲラーとともに思想誌『モニストThe Monist』の発刊にも携わることになる。
「モニスト」は、直訳すれば一元論者ということになるが、ケーラスらが見出そうとしていたのは宗派あるいは世界観の差異の彼方にある、一なるもので、その探究者を指す。「モニスト」は必ずしも宗教者や哲学者であるとは限らなかった。科学者のなかにも「モニスト」は出現した。ケーラスは、雑誌を刊行することで、世界に散在している「モニスト」の叡知を一つの場に集結させようとしたのだった。
 個々の宗教を認めながら、それらが高次に共鳴する場を探究しようとする動きは天心の心を揺さぶらずにはいなかった。のちに彼が、それぞれの国、文化の差異はそのままに、しかし「アジアは一つである」と『東洋の理想』で語り始める思想はすでにこのころの天心のなかに宿っている。東京美術学校で行った講義で天心はこう語った。


かのギリシアの彫刻は西洋人の誇称するところなれども、これに対するにわが奈良朝美術をもってせば、一歩も譲ることなきを信ず。ただこれを比較せんとすれば困難なり。その時代の宗教、文学等、二者その理想のよってもって原因するところを解せざるべからず。ギリシアは写生的にして、奈良は理想的なり。奈良朝において作り出せし人物像のごときも、容貌は婦人のごとくにして乳房なき、観世音等のごときあり。もし写生的の眼をもってこれを難ずれば、もはや彼我の比較をなすあたわず。しからばいかにせば比較しあたうか。写生を離れ宗教を離れ、一にそのぐうするところの神韻をもってせざるべからず。これを細かに味うにいたりては、わが奈良美術は決してかのギリシア美術に劣るものにあらざるべし。
(『日本美術史』)

 直接的に優劣を比較するのは困難だとはいえ、日本の奈良朝の美術は古代ギリシアのそれに勝るとも劣らない。美術を真に理解しようとする者は、どの作品にも「その時代の宗教、文学等、二者その理想」の影響が色濃く表現されていることを見過してはならない。外観にとどまることなく、その奥を見よ。古代ギリシアの写生的態度を離れ、奈良時代特有の宗教観を離れ、それらが「一にその寓するところの神韻」を感じなくてはならない。そうすれば奈良時代の日本に勃興した美の特異なる意味を理解するだろうというのである。天心は、キリスト教と仏教が―より精確にいえば、イエスとブッダが―「一にその寓するところの神韻」を絵画によって表現することを、先に引いた仏画募集広告で試みようとしたのだった。
 誌面上では広告主の名前は明らかにされていない。しかし、それが天心であることは広告文の最後に記された作品の送り先が、「図画届所は東京市下谷区中根岸町四番地岡倉覚三方とす」と記されていることから窺い知ることができる。
 さらに審査員をめぐって次のような記述がある。「鎌倉円覚寺管長大教師釈宗演氏、米国ボストン府米国美術発行者ルイ・プラン及び米国シカゴ府『ゼーモニスト』〔The Monist〕及び『ゼーオープン・カート』〔The Open Court〕の記者博士パウル・ケーラス氏とす」。作品はまず、天心のもとに集まってきて、釈宗演が見、その上で優れたものをアメリカに送ることにすると記されている。釈宗演は明治・大正期を代表する禅僧の一人である。若き日には福澤諭吉の慶應義塾で学んだという人物で、円覚寺の管長を務め、夏目漱石とも親交があった。彼は大拙の師である。「大拙」と名付けたのも彼だった。訳書刊行当時、大拙はまだ二十四歳の無名の人物に過ぎない。大拙はケーラスの著作を自分で見つけたのではない。翻訳を勧めたのは宗演だった。彼には仏教を日本あるいは東洋だけでなく、西洋世界においても語らねばならないという熱情があった。宗演は、一八九三(明治二六)年にアメリカ・シカゴで行われた万国宗教会議に参加する。
 万国宗教会議は、同時期にシカゴで開催されていた万国博覧会に寄り添うようにして行われた。シカゴ万博には日本も参加している。このとき日本の出展を取り仕切る、現場の総監督を務めたのが天心だった。彼は美の道を通じて、宗演が宗教の道によって世界と交わろうとしていた、その必然性を強く感じていた。
 会議の場には、従来の宗派の教義的、かつ閉鎖的な宗教の在り方に疑義をもった人々が世界から集まった。ケーラスもその場にいた。むしろ彼は、会議の中心的な役割を担った一人だった。ケーラスは東洋思想、ことに仏教がもつ宗教的可能性に強く魅せられていた。宗演は英語を話し、仏教を世界に向かって語り始めようとしていた。二人が心を深く通わせることになるのは自然だった。日本に帰るとケーラスから『仏陀の福音』が送られてくる。それを読み、宗演は、自分の近くで学道と修道の間に接点をもとめながら模索の日々を送る若き大拙に訳してみないかと語ったのだった。
 天心は、ケーラスの本に動かされただけではない。ケーラス自身とつながりをもっている。現存していないが、仏画の募集に際して天心が英語でケーラスに手紙を書き、彼による了承があったことは十分に推量できる。むしろ、そうした動きがなければ募集を行うことはできなかっただろう。また、釈宗演と天心の間に熱い対話があったことも容易に想像できる。募集期間は同年の十二月末までで、参加を希望する画家たちはおよそ二ヵ月強の期間で作品を完成させなくてはならなかった。
 賞金は一等百五十円、二等七十円、三等三十円だった。正確に現在の価値に換算するのは難しいが、中村光夫の『二葉亭四迷伝』によれば、一八八九(明治二二)年に二葉亭が内閣官報局雇員になったときの月給は三十円、瀬沼茂樹の『評伝 島崎藤村』によると一八九九(明治三二)年に島崎藤村が長野県の小諸義塾の教師として得ていた月給も三十円もしくは四十円だったが、のちに二十五円に減給されたと記されている。一九〇六(明治三九)年に石川啄木が代用教員として得ていた金額は八円である。これらを鑑みても、賞金がけっして少ない額ではなかったことは分かる。天心個人がそれを負担したとは考えにくい。背後にはフェノロサやビゲローといった天心の近くにいた裕福だった外国人の存在も見え隠れする。

美そのものになること

 先に見たように広告上で天心の名前は、格別に強調されてはいない。だが、そのことがかえって、この広告を見て反応するような人々にとって天心の存在が、いかに大きな意味を持っていたかを物語っている。当時、天心の名はすでに美術界において特異な存在として知れ渡っていた。一八九九年に、「九州日報」に掲載された記事には次のような記述がある。


岡倉君は画家にあらず、彫刻家にあらず、蒔絵師にあらず、去りとて鑑定家にもあらず。然れども彼れが美術上の学問と経歴に至ては、方今、他に其類を見ざるなり。否な彼れほど美術上のコンモンセンスを有するものなく、彼れほど美術其物に同情を有するものなし。彼れは殆んど美術其物なり。

 いわゆる表現者ではないが、鑑定家でもない。ここでの鑑定家には、今日でいう研究者、評論家といった意味合いも含まれている。特定の呼称で天心を把捉することの困難は彼の生前から周辺が強く感じていた。また、美において彼を凌駕するような人物は同時代には存在しないこともよく理解している。さらに記事では「彼れが半生の歴史は只だ美術界の中より一日も離れざるなり」と述べられたあと、次のように続けられている。
「否な目下の境遇は彼をして此界限の外に超脱する能わざらしむるほどの責任を有せるなり。九鬼隆一君の美術界に名あるも彼れの力なり、美術学校の今日あるも彼れの力なり、宝物取調の挙あるに至りしも彼れの力なり、古社寺保存法の設あるに至りしも彼れの力なり、帝室に技藝員を置くに至りしも彼れの力なり」。天心を見出した九鬼が現在の地位にいるのも、東京美術学校があるのも、今日でいう国宝、文化財の調査がはじまったのも、歴史的な神社仏閣の保護も、「帝室技藝員」、今でいう人間国宝、芸術院会員、あるいは文化功労者などに当たる、美の仕事に身を捧げた者を国が評価し、表彰する制度を作ったのも天心だというのである。天心はその人格によって近くに接した人々に強い影響を与えただけではなかった。この記事は、彼の社会的活動による影響が甚大であることもすでに同時代の人々の間に知られていたことを明示している。
 誰がこの記事を書いたのかは分からない。天心に好意的であることは一読して明らかだが、それだけで終わるものではない。記者は天心の核心ともいうべきものをしっかりと認識している。そうでなければ「彼れほど美術其物に同情を有するものなし。彼れは殆んど美術其物なり」との一節を書くことはできなかっただろう。
 ここでの「同情」はもちろん、憐れむこととは関係がない。この文章の作者にとっても美は生けるもので、人間の心と共振、共鳴する。そうした出来事を彼は「こころ」を同じくすることだというのである。そればかりか、天心は美術そのものだといっても過言ではないとすらいう。この記述は、のちに天心が『茶の本』に、茶の宗匠の境涯をめぐって書いた一節を想起させる。「茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である」と書いたあと天心は、「かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた」と語ったのだった。
 記者が先の文章を書いたときはまだ、『茶の本』は世に出ていない。それは七年後、一九〇六年まで待たなくてはならなかった。だが、芸術家とは、世に美を現出させるだけでなく、美そのものにならなくてはならないと天心が、しばしば口にしていたことは十分に考えられる。

仏教の新約聖書に類する一書

『仏陀の福音』は、単にケーラスの著作を訳しただけではなかった。「訳処の意によりて或は削除し或は改訂したる箇処少なからず」と訳書の「凡例」の項で述べているように大拙は、日本の読者によく読み解かれるようにと彼の視点での編集を施している。明治・大正期の本の「凡例」は今日のように表記の方法や引用した典拠を記してあるだけではない。むしろ「まえがき」に近い。本文に入れることはできないが、どうしても書いておかなくてはならないことがそこに記されている。そこにはこのような思いも綴られている。
「仏教の真理は千古不磨なれども、其真理を表詮する所以の方法に至りては時を異にするによりて自ら異ならざるべからず」。仏教を貫く真理は一なるもので、古びるものではない。しかし、その真理を表現する方法は一なるものとは限らない。時代、文化によって変化があるのはむしろ、当然と言わなくてはならない、というのである。これはケーラスの原著の本質を言い当ててもいるが、大拙の、生涯を通じて変わることのない宗教観でもあった。
『仏陀の福音』の原題は、邦訳通りThe Gospel of Buddhaという。Gospelはイエスによる福音と同時にイエスの生涯を描いた福音書を意味する。キリスト教の歴史には無数の神学、哲学を論じた著作があるが、畢竟、この一書に還ってくる。
 だが、仏教の歴史はそういった展開の進路をとらなかった。仏教の場合、福音書に類する一書はない。むしろ、その一書を何にするかによって、数ある宗派が生まれた。一点の書物に収斂しゅうれんするというより、どこまでも多様性を追求する方向に発展した。ケーラスは、仏教の心髄を感じ得る一冊の本の要請を強く感じていた。彼は、紀元一世紀に新約聖書の著者たちが試みたことをブッダの生涯、ブッダの言葉を通じて、十九世紀によみがえらせようとしたのだった。
 福音書とは、イエスが救い主であるキリストへと変貌してゆく軌跡が刻まれた物語だとも言える。『仏陀の福音』は、その構造を踏襲している。ゴータマ・シッダールタという人間が、ブッダ、すなわち目覚めた人へと新生してゆく道行きを描き出している。それだけでなく、不可逆であるはずの時間の制限を取り払ってイエスの生涯からブッダの一生を論じることで東西に分断された霊性の統合を実現しようとしている。
 この本は「音信おとづれよろこべ。吾曹われらの主なる仏は諸悪の根源みなもとを看出し給えり。吾曹に救いの道を示し給えり」との一節から始まる。初めて手にした者は、そこに語られていることと共に、福音書に似たその律動に驚いたかもしれない。この著作では、新約聖書で「愛」と語られているものが「真理」として語られている。違った形に語り直すことによって本質に近づくことがある。同質のことを天心は日本で、それも思想ではなく絵画を通じて現出させようとしたのである。先の広告にはこの企画の目的が次のように記されている。


この挙の目的たるや仏教に関しての嗜好を惹起せんがためのみならず、また、その範囲を拡張して、もって仏教的美術に一新刺撃を与えんと欲するにあり。

 日本人の血に眠っている仏教の伝統を呼び覚まし、いわば霊性を目覚めさせることによって従来の仏教美術に革命を起こすことを企図している、というのである。天心の中で美はいつも人間を超え出るものとのつながりを想起させるものだった。
 当時の日本には西欧化することが近代化だと信じて疑わない人々が多くいた。しかし、天心の認識は違う。彼が選んだのはヨーロッパにおける美の伝統を模倣することではなかった。むしろ、自国の文化に眠っている伝統を呼び覚ますことだった。一八九六年に『早稲田文学』に掲載された「東京美術学校の由来と方針」と題されている一文がある。作者の名前は記されていないが、天心の意向が強く反映されていることは論を俟たない。


若し日本古来の美術を王朝時代(藤原時代)、鎌倉時代(くわしくは鎌倉時代より足利時代に至るの間)、徳川時代(二百年以来平民的思想の発達せし時代)の三大期に区画せば、明治の今日は此の三期間の美術の悉く復興せられ混在せるの時代なり。今日はこれら美術の三元素の混沌として定形を得ざるの時也。今日此の三分子の基礎を固めずば恐らくは西洋美術に蹴ちらさるることあるべし。この故に我が美術学校にては此等過去美術の凡てを総合し、今日の知識をもて如何に之れを利用すべきかという問題を学生に与うるを目的とす。さればわが美術学校は、或論者の難ずるが如く、決して西洋画を排斥するものにあらず。むしろ先ず日本美術の歴史的根拠をかたくし、さて後西洋美術の精華をも参酌せしめんと欲する也。

 明治の今は、それまでの歴史をすべて背負っている。たとえ、それらが混然としていて定まった形をしていないとしても、それらすべてを混沌のまま受け入れなくてはならない。そこに自分たちが立つ場所を見出すことがなければ「西洋美術に蹴ちらさ」れてしまうだろう。この学校では歴史を統合し、それをいかに現代に蘇らせるかを教える。それは西洋画を排斥することを意味しない。むしろ、日本美術の歴史を深く認識することがかえって、西洋美術の精華を知ることにつながる、というのである。この一文が公になる前の年、天心はケーラスの訳書を手にしている。
 先に見たように『仏陀の福音』は、若き大拙にとって単なる訳業ではなく、思想的表明でもあった。類例は少なくない。小林秀雄がランボーの『地獄の季節』を訳したとき、人々は、ランボーという詩人の言葉としてだけでなく、小林の言葉としても読んだのである。同質のことは大拙の訳書にもいえる。
 これまで大拙と天心の交わりに関してはほとんど論じられてこなかった。大拙が口述の自伝で「岡倉天心という、あの人は偉い人でしたね」と語り、天心が『茶の本』でいち早く禅を世界にむかって語ったことの功績に言及している程度である。だが二人はきわめて高い可能性で会っていることは先の広告、そして自伝の語り口からも感じることができる。
 一八九七(明治三〇)年に大拙は、師釈宗演の命を受けて渡米し、ケーラスの秘書となる。「秘書」だったのは始めだけで、次第に大拙はケーラスの協同者の関係になってゆく。大拙もケーラスから影響を受けただろうが、ケーラスが大拙から受けた影響も小さくなかった。その証左は一八九八年に刊行された『老子』の英訳に共訳者として大拙の名が記されているところに見ることができる。天心と大拙には七歳の年の差がある。天心が年長だが、同時代人だと考えてよい。
 だが、二人がもっとも接近するのは、日本の思想を英語で書き記し、世界にむかって語ったことである。『老子』、『大乗起信論』、師宗演の著作など、翻訳だったが英文著作を先に出したのは大拙だった。大拙がアメリカで行った仏教思想の紹介が、天心の著作がアメリカで広く受け入れられる土壌を作ったことを見過すことはできない。だが、逆のこともいえ、あのとき天心が英語で著作を書いていなければ、その後の大拙はいなかったかもしれない。天心が自身の思想を『東洋の理想』(一九〇三)、『茶の本』(一九〇六)で語り始める。そして大拙は『大乗仏教概論Outlines of Mahayana Buddhism』(一九〇七)を書いたのだった。

キリストの復活のようにブッダを描く

 これまで見てきた仏画募集の結果がどのようになったのか、管見にして知らない。天心の意図は、短期間では充分に伝わらなかったのかもしれない。だが、天心が広告で述べていたことは『仏陀の福音』の前にも、あるいは後でも変わることがなかった。彼の企図はいつも、教典も教義も教祖も不在の、彼が『茶の本』の冒頭で語った真の意味での美の宗教の誕生にあった。
 一八九八年、天心は実質上、美術学校を退き、幾人かの有志と日本美術院を立ちあげる。美術院主催の第一回の展覧会に横山大観は、当時の天心の風貌を重ね合わせたような楚の詩人屈原を描いた作品「屈原」を出品する。このことにはすでにふれた。同じ展覧会にはもう一点、近代日本画の歴史に大きな影響をあたえることになる作品が出されていた。下村観山の「闍維じゃい」である。
 観山は大観とともに東京美術学校の第一期生として入学、のちに同校で教鞭をとることになる。彼が狩野芳崖に作品を誉められたのは十歳のときだった。十三歳の年には芳崖の紹介で橋本雅邦に弟子入りしている。美術学校に入ったのはそれから三年後のことである。観山の画量が秀逸であることは学内でもよく知られていた。観山は天心にもっとも愛された弟子の一人だった。また、彼が天心の思いを絵にもっとも忠実に表現し得た人物であることは自他ともに認めるところだった。
「闍維」とは、荼毘を意味する。この作品の中心には煙を上げた柩が描かれている。中に眠るのはブッダである。師が亡くなり荼毘に付されているのを十大弟子をはじめとした人々が取り囲む。祈る者、顔を両手で押さえて悲嘆にくれる者、あまりの悲しみにひざまずき、同志にもたれかかるように泣く者の姿も描かれている。
 当然ながらブッダの姿はどこにも描かれていない。しかし、見るものの心にもっとも強く、またはっきりと蘇ってくるのはブッダである。人間ブッダはもういない。しかし、姿を変えたブッダは、もう二度と消えることのない姿で人々の心に蘇っている。人々が悲しむのは、ブッダが消えてしまったからではないだろう。むしろ、かつてよりもいっそう烈しくその存在を感じながら、近くに接し、その謦咳にふれることができないことが悲しいのである。
 二年ほど前になる。観山の生誕一四〇年を記念する大きな展覧会ではじめて「闍維」を見た。当時、天心論を一冊書きあげたばかりだったが、そこに書き切ることのできなかったものをまざまざと見せつけられたように感じられた。この作品を貫通する精神こそ、天心があの仏画募集広告で試みたもののように思えてならない。広告には次のような一節がある。


けだし従来の仏像は、悉く皆仏の禅定に入りし一姿勢のみを摸写し、未だ仏陀の多端なる生涯を美術的に観察したるもの〔に〕あらず、是れ仏教的美術の一大欠点なり。基教〔キリスト教〕に於ては、ラフェールルーベンレムブラン諸氏の如き古名家の画はいうに及ばずシノールドールホフマン等の如き人々の手に成りたる耶蘇〔キリスト〕の生涯を表示する名画甚だ多し、今この挙たるやこの欠点に向て世人の注意を乞ばんか為めにして日本現今の進歩の程度においてこの欠点を補うこと、けだし容易の業たるべし。

 キリスト教では、イエスが十字架上で死ぬことによって、復活のキリストとして新生し、目に見えない聖霊として永遠の世界に働きかけると説き、西洋の宗教画がそうした存在の秘儀を現出させることに成功している。どうして日本人がそれをブッダを通じて描くことでできないはずがあろうか、というのだった。「闍維」によって観山は、天心の思いを描き出してみせた。彼は、ブッダの姿を描かないことによって、いっそう強くブッダの実在を感じさせることに成功している。先にみた『日本美術史』の冒頭で、天心は歴史という不可視な現実を描くことにふれ、次のように語った。


世人は歴史を目して過去の事蹟を編集したる記録、すなわち死物となす。これ大なる誤謬なり。歴史なるものは吾人の体中に存し、活動しつつあるものなり。畢竟古人の泣きたるところ、古人の笑いたるところは、すなわち今人の泣き、あるいは笑うの源をなす。

 歴史は記録のなかにあるのではない。私たちの魂のなかに生きている。魂で古人と対話せよ、そのほかに歴史を経験する場所はないというのである。過去を描くのではなく、今に生けるものを描き出さなくてはならないとする態度は、天心だけでなく、その弟子たちの美術観を決定している。
 同じ講義で天心は、「応物象形おうぶつしょうけいとはいわゆる写生にして、西洋画において必ず第一位に置くべきものなり。美術は写生によらずんば成立し得べきものにあらず。しかれども、写生をもって第一とするときは、写生には美は全くなきことあり。実物にも人心にも、美はともに存するものにして、この双美を合したるものは真美の精神なり」と語ったこともある。
 西洋では写生を絵の基盤に据えている。しかし、絵は必ずしも写生に依らなくても構わない。目に見えるものだけを描くのではない。むしろ、目に見えないものを描き出すのが美術の眼目だというのである。



主な参考文献

西村惠信『鈴木大拙の原風景』(大蔵出版)
『生誕140年記念 下村観山展』図録(横浜美術館)