仏師としての誇り

 近代日本画における天心の影響はこれまでもしばしば語られてきたが、彼の影響は絵画にのみ留まるものだったわけではない。天心の念頭にあったのはいつも美術そのものであって特定の様式ではなかった。彼が校長を務めた東京美術学校にも絵画、彫刻、陶芸、彫金、鋳金、蒔絵、刀剣、考古学などさまざまな分野の教授陣がいた。最初は日本画だけだった絵画の学科にも、のちに黒田清輝などが招かれ洋画の学科も開設されている。
 学科の別なく、天心が一貫して語ったのは経験の優位である。知識を習得することは教育の一端に過ぎない。むしろ、それだけなら二義的なことに留まると天心は考えていた。美術に関する知識は、制作する上でもなくてはならない。しかし、知識だけを積み上げても経験に至ることは決してない。経験が満ちるとき、知識は単なる情報ではなく、叡知に変貌する、それが東京美術学校における不文律でもあった。
 一八八九(明治二二)年三月、東京美術学校が開校して、さほど日が経っていない頃、天心の命を受けた、美術学校の教師で彫刻家でもあった竹内久一が高村光雲の自宅を訪れた。天心は、光雲を正式に美術学校の教授として招聘しようとしていたのだった。光雲は、高村光太郎の父である。だが、当時の光雲は、今日私たちが認識しているような近代日本を代表する彫刻家ではない。もちろん、教師でもなかった。むしろ、彼は近代教育とはまったく縁のない世界で生きてきた。
 もともとの名前は中島光蔵という。弟子入りしてからは幸吉と呼ばれることになる。のちに徴兵を逃れるため―光雲は自伝で「徴兵よけ」と述べている―師の姉の家系を継ぐことになり、姓を高村に改めた。光雲は、高村東雲を師とする仏師である。天心と会った当時はすでに仏師ではなかったが、同業の人には力量を認められていた木彫の職人の一人だった。
 光雲が仏師だった時代、仏師に禁忌とされていたのは自作を作り、売ることだった。職人は名を伏せたまま、寺の依頼にもとづいて仏像を造ることが本業で、作品に名を付して世に出すことは卑しいこととされていた。光雲の自伝『木彫七十年』には当時の常識を物語る、仏師の言葉が記されている。光雲の師が、その先達に聞かされたのだという。「いやしくも仏師たるものが、自作を持って道具屋の店に売りに行く位なら、焼芋でも焼いていろ、団子でもこねていろ」。
 今日の職業観とはまったく相容れないが、仏師とは、どこまでも美によって仏に仕える者であるという自負は伝わってくる。しかし現実は、こうしたことを言い続けていられるような状態ではなかった。寺はもう、ほとんど新しい仏像を造ろうとはしていなかったからである。廃仏毀釈の流れが、烈しさを増していたのである。
 明治維新が起こると政府は、神仏分離の政策を強化する。江戸時代にも同様のことが語られたことはあった。しかし、明治になっては、神仏の区別ではなく仏教への弾圧となった。国家によって神社の優位が語られたことになり、国学が盛んだったいくつかの地域では、仏教寺院は文字通り、大きな破壊を伴う迫害を経験することになる。僧のなかには還俗しなければならない人も多数出た。当時の状況を光雲が自伝で語っている。


神仏の混淆していたものが悉く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり神社を保護して仏様の方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、いままで枝葉を押し拡げていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際打ちこわされていきました。経巻などは大部なものであるから、川へ流すとか、原へ持っていって焼くとかいう風で、随分結構なものが滅茶滅茶にされました。奈良や、京都などでは特にそれが酷かったなかに、あの興福寺の塔などが二束三文で売物にでたけれども、誰も買い人がなかったというような滑稽な話がある位です。(『木彫七十年』)

 宗教は芸術の母胎である。宗教が盛んになれば芸術は必然的に栄えてくる。それは偶像崇拝を固く禁じるイスラームやユダヤ教においてもはっきりと見られる傾向で、仏教のような画や像によって布教を進めてきた宗派の場合、その結びつきは著しい。もちろん、凋落の方向に向かうときも芸術はそこに随伴する。
 権力による仏教への抑圧は、仏教芸術に甚大な影響を与え、その影響も長く尾を引いた。新潟に生まれた歌人会津八一は、奈良を愛し、その寺を訪れ、数々の歌を詠んでいる。廃仏毀釈のうねりはもう鎮まっていたが、傷は癒えていないままだった。法隆寺の壁画を見、その荒廃した光景を一九二四(大正一三)年刊の歌集で八一は、次のように詠った。


ひとりきてめぐるみだうのかべのゑのほとけのくにもあれにけるかも(『南京新唱』)

 一人で法隆寺の金堂の壁画を見た。美のうちにあった仏の国も無残にも荒れ果てている、というのである。天心がフェノロサとともに法隆寺を訪れ、夢殿にあった秘仏救世観音を見たのは、この四十年前である。彼らの時の方が、荒廃はいっそうなまなましかっただろう。
 先に、狩野芳崖や橋本雅邦が画家として、フェノロサや天心を知る以前に強いられた辛酸にふれた。光雲が天心と出会った頃、仏師もまた生活において大きな困難に直面せざるをえなかった。それまでは仏師にとって寺は、安定した依頼主だった。仏師は、自分たちで仕事を生み出す必要はなく、何を作るのかもおおむね決まっていた。しかし、腕はどこまでも磨かなくてはならない。それがもっとも重要な責務だった。
 だが、状況は変わって、何を、いつ、誰のために作るのかも自分で考え、交渉し、それを完遂しなくてはならなくなったのである。ある時期、まったく仕事がない光雲は、鋳物にたずさわる仕事に就く。いつも手にしている道具は使わない。二年ほどして、道具箱の抽斗を開ける。するとそこに赤くさびた小刀がある。これを見たとき、「なんともいえない慚愧悔恨の念が胸にこみ上げてき」た、と光雲は語っている。
 彫刻の職人は、彫ることがない日はあっても、道具の手入れだけは欠かさない。彼は、人間が道具を自由に使えるとは思っていない。彼にとって道具は、生けるもので、共に働くものだった。生活に困窮したとはいえ、もっとも大切な相棒を忘れて顧みなかったことをひどく悔む。
 この出来事を契機に光雲は、木で彫れるものなら何でも彫ることを決意する。何を作るかはまずは置き、木彫の職人であり続けることを生きることの中心に置いた。光雲の近くにいた同業の者たちは、象牙に装飾を施す「牙彫げぼり」の職に就く者も少なくなかった。牙彫の製品は、海外の人々に広く受け入れられていたのである。輸出品を作るのが主な仕事だった。
 木彫から牙彫への転身は単に技能を生かして、新しい仕事を始めたことを意味しない。牙彫に手を染めるとは木彫を棄てることであり、仏師として連なっていた美の伝統から、意志して脱出することだった。それは美の眷属であるという仏師の誇りを棄てることだった。彼らの心中にあったのは転身よりも棄教に近い感情だったのかもしれない。それは、踏み絵を前に、改宗を迫られた切支丹が感じたような、やるかたない怒りと悲しみに満ちた気持ちだったかもしれない。

あなたは「生きた教科書」だ

 あくまでも木彫職人であろうとした決断は、光雲を、仏像というモチーフから解放した。同時に彼の眼を西洋に開いた。光雲は新聞に掲載された画像などをたよりに西洋的な写実を独学で身に着けて行くようになる。
 のちに息子である光太郎が、あるいは同時代で西洋彫刻の流れを日本に持ち込んだ荻原碌山が直にロダンの作品にふれ、知ることを、光雲はそれに先んじて、比較にならないほど貧しい条件のなかで実践していた。光雲のなかにはすでに芸術家の精神が芽生えつつあった。彼が敏感に感じ取っていたものは、西洋との格闘なしには前に進めないところに来ている近代日本の宿命でもあった。
 このことは光雲と天心の邂逅を考えるときに重要な接点だったように思われる。西洋の影響を受容し、内なる伝統と融合させ、昇華すること、それは美術学校に集った人々を貫く試練だった。
 次第に光雲の作品は評価を得るようになる。一八八八(明治二一)年十二月、天心の命を受けた竹内に会う三ヵ月ほど前、東京彫工会の彫刻競技会に出品した「ちん」の置物が金賞牌を得るところまで来ていた。しかし、教師になるようにと伝えられ、光雲は驚く。彫刻家としての技量とそれを伝授することは別なことである。むろん、孤高の人であった光雲に近代教育の経験があるはずがない。光雲は申し出を断ろうとして天心と面会する。光雲から固辞する理由を聞いた天心はこう語ったという。


高村さん、それはあなたは考え違いをしていられる。学校をそうむずかしく考えることはいりません。あなたは字も習わない、学問もやらないから学校は不適任とおいいですが、今日、あなたにこの事をお願いするまでには私の方でも充分あなたのことについては認めた上のことですから、そういうことは万事御心配のないように願いたい。あなたに出来ることをやって頂こうというので、あなたの不得手なことをやって頂こうというではありません。多くの生徒につくことなどが鬱陶しいなら、生徒に接しなくとも好いのです。(『木彫七十年』)

 講義はできない、文献にあたって研究することもできない、勉強を教えることはできない、そう言って光雲は教職を辞退した。「考え違い」とは、世でいう学校は勉強を教えるところだろうが、自分たちのところは違うというのである。決まり切った講義は不要で、そればかりか、煩わしいなら生徒に接しなくても構わないとすら天心はいう。光雲は驚いただろう。
 このとき、天心が光雲に提案したのは、仕事場を美術学校内の敷地に移してほしいということだった。生徒は、ただひたすら光雲が彫る姿を近くで見ればよい。作品を作るところを見せる、それ以上の教育はないというのである。天心は光雲に、あなたは「生きた教科書」だと語ったという。光雲はこの申し出を承諾し、正式に美術学校の職員になった。
 その一週間後、光雲は、学校から派遣されるかたちで奈良へと向かう。廃仏の動きを乗り越えた仏像を見るためだった。不思議なようにも思われるが、このときが光雲にとって初めての奈良訪問だった。近代日本の彫刻は、天心と光雲の邂逅、さらに光雲の古都訪問を経て、やがて大きく変貌する美の種子を胚胎した。仏師は、表現者の役割を担い、仏教芸術も、一つの宗教の世界の中にしかあり得なかった造形から、独自の美の世界を生み出してゆく生命体へと姿を変えた。
 古都への旅の期間は十日間、諸経費として百六十余円を支給された。当時の貨幣価値は、およそ一万五千倍するとよいように思われる。不足がないばかりか、十分に過ぎる対応だった。この旅行から帰って、しばらくして光雲は美術学校の「教諭」として働くことになる。翌年には帝室技芸員、すなわち皇室から保護される芸術家になっていった。同じ年に「教授」に就任、年俸五百円が支給される。生活は安定しただけでなく、彼は一気に高い社会的地位を占めることになった。だが、このことはのちに在野で生きることになる天心と光雲の間をわかつ、遠因になってゆく。
 天心は確かに野の人だが、立身出世に関心がなかったわけではない。息子岡倉一雄の評伝『父 岡倉天心』には、「生涯の予定表」と題する帳面を後年に見つける逸話が記されている。天心が三十歳の頃に書いたものだが、そこには「四十歳にして、九鬼内閣の文部大臣となる」「五十にして貨殖に志す」「五十五にして寂す」と書いてあったという。その通りの生涯ではないばかりか、まったく別な方向に生きたのが天心の一生だった。
 天心にとって光雲は「生きた教科書」である以上に、生ける伝統だった。作る姿を若者に見せることで、彼らの血の中にある、日本の彫刻に流れる伝統をよみがえらせようとしたのである。血とは比喩ではない。美術学校での講義で天心は、美の伝統のありかをめぐってこう語ったことがある。
「薬師寺の薬師、法隆寺の壁画等に至りては、如何にして之れを作りしや、其の方法すらも知る能わざるも、所謂いわゆる天平式なるものは吾人の血中に存在す」(「日本美術史」)。歴史は個々の人間の精神のなかに生きている。芸術家とは、それをよりよく想い出し、それに姿や形を付与し得る技量を有する者だというのだろう。天心にとって「美術」とは、自ずと顕われようとする美に、人間が献身する様をいう。美術における主格は人間ではなく、「美」であると考えていた。


皆是れ奨励の法をあやまりたるものにして、美術奨励の必ずしも美術を興起すべきものにあらざること知るべし。近来、世人頻りに美術奨励の説をなすと雖ども、真正の美術は奨励を待ちて興起するが如き勢力薄弱なるものにあらず。発達の原因は美術自身にありて奨励にあらず。自ら進んで、世人をして美術を奨励するの方法を取らしむるなり。(「日本美術史」)

 美が、「世人をして美術を奨励するの方法を取らしむる」とあるように、美術を語るとき、天心にとって主格となるのは、あくまでも美である。真実の美は、「奨励」されることをもって顕現するのではない。美それ自体が自らを顕わそうとする。人間はその働きを受け容れるに過ぎない。彼にとって美とは、抽象的な概念ではなく、生ける何ものかである。天心の美学における美は、優れた神学者にとっての「神」に似ている。
 のちに書かれる『東洋の理想』は、天心のアジア論であると共に日本美術論になっている。だが、「アジアは一つである」との冒頭の一節ばかりが独り歩きし、美によって東洋に朽ちることのない連帯をもたらしたいという天心の真の願いが、見過ごされてきたように思われる。光雲の時代がそうだったように、かつて美は、日常の生活に不可視なかたちで溶け込んでいる霊性と不可分に存在していた。だが、明治の社会が邁進した近代化は美と霊性のつながりを分断した。それを取り戻し、新生させることが天心の企図だった。

運命的な波山の美術学校入学

 これまでも天心が美術学校で日本美術史を講じてきたことに幾度かふれてきたが、彼は古代ギリシアから近代フランス、ロダンの作品に及ぶ西洋美術史も講じている。この今日「泰西美術史」と呼ばれている講義は、日本で最初に行われた体系的に講じられた西洋美術論でもあった。
 未来の創作者となる若者に天心は、日本、西洋双方の歴史を講じる。天心はそれを補足的に考えていたのではない。むしろ、歴史を学ぶことは、美の使徒になるうえで、決定的に重要なことであると信じていた。「美術史を研究するの要、豈啻あにただに過去を記するに止まらんや。またすべからく未来の美術を作為するの地をなさざるべからず。吾人は即ち未来の美術を作りつゝあるなり」と述べた。歴史を学ぶことは、未来を築き上げることに等しいというのである。この一節のあと、天心はこう続けた。


顧れば、溟濛めいもうとして半ば其の形状を没するの過去あり。前には渺茫として際涯を知らざる将来あり。此の両間に処して其の任を全うせんとする、また難い哉。殊に明治今日に於ける吾人の責任重且つ大なるや言を待たず。諸子知らずや、学藝、技術、宗教、風俗等、皆其の基準に於て大変動を生ぜるを。此の時にあたりて、美術独り超然として其の影響を蒙らざるのことわりあらんや。(「日本美術史」)

 先に天心が大観らに空気を描けと語ったことにふれたが、見えないものにかたちを与えること、それが美術だと天心は考えている。「溟濛として半ば其の形状を没する」不可視なものを歴史の世界から呼び起こすこと、作品のなかに歴史を、すなわち永遠の世界を現出させること、それが天心の考えた美術だった。
 光雲が教諭になったころ、彫刻科に板谷嘉七が入学する。のちに陶芸家として知られることになる板谷波山である。波山を指導したのが光雲だった。近代日本の陶芸において決定的な役割を担うことになる波山がこのとき彫刻科に進んだことは、彼自身はもとより、近代日本の美術にとって運命的だったように思える。彼は彫刻家になりたかったわけではない。この頃から本当は陶芸を学びたいと願っていたと『板谷波山伝』(茨城県刊)は伝えている。しかし、当時、陶芸を教える仕組みはまだ、美術学校にはなかった。
 茨城県が編集した波山の伝記によると、彼は晩年に至るまで美術学校での日々を喜びのうちに語ったという。波山は「美術学校時代の岡倉先生」と題する談話の回顧を残している。波山も天心の日本、西洋、両方の美術史の講義を受けている。


岡倉先生が校長になったのは二十九歳のときでした。講義は日本美術史と西洋美術史をもっておりました。先生原稿を持たないものですから、ときどきでたらめに脱線しちゃう。ところが、その脱線がおもしろくてよかったですね。むしろ先生の講義の美術史なんぞよりよかったですね。

 これまで幾度か引用してきた天心の講義録は、複数年にわたって行われたものを複数の他者がまとめたもので彼が語ったことをそのまま文字にしたのではない。そうした書誌的な情報を考慮しても、一見すると、ここで波山が語った印象とは異なるもののように感じられる。そこには「脱線」の痕跡はあまりない。むしろ、周到に準備して臨んだという印象を抱かせるほど視点、視座、流れにおいてもよくまとまっている。とても「原稿を持たない」で授業を行っているようには思えないほど、それは精緻といってよいほどの完成度に達している。優れた画家が色と線で作品を生み出すように、天心は、言葉で一つの世界を現出させることに成功している。あるとき「日本美術史」の講義で天心はこう語った。


試みに希臘古代の宗教と我が仏教とを比較せよ。彼の神とせしは情欲を有せる卑近なる人間にして、此は人間以上なる高尚円満なる如来にして、同日の論にあらざるなり。若し夫れ彼の梵天の情を解せざるものは、東洋美術の趣味を解する能わざるものなり。梵天の、女の如くにしてしかも乳房なきが如きは、外国風解剖的の眼を以てすれば奇なりとすべし。然れども美術は実物と異なり、実物を離れて見るべきなり。美は実にのみ存せずして、想にも亦存す。即ち心の中にも、外にも存するなり。

 古代ギリシアと仏教を比較せよ。ギリシアが神々としたのは、情欲もある、卑近に感じられる人間である。しかし、仏教の世界は違う。そこにいるのは人間以上の存在である。「同日の論にあらざるなり」とは、神々自身の優劣をいうより、そこに描き出されている次元が異なる、というのである。
「梵」は万物の根源を意味する言葉で、この世を生み出す存在の根源、絶対なる無である。梵天はその顕われである。大いなるものの顕現である梵天の心が分からなければ、東洋美術の深みを知ることはできない。梵天は、女性のような姿をしているが、乳房はない。それは西洋の解剖学の常識からすれば奇異にさえ映る、しかし、「美術は実物と異なり、実物を離れて見」なくてはならない。
「美は実にのみ存せずして、想にも亦存す。即ち心の中にも、外にも存するなり」、師からこうした言葉を聞いた弟子たちにとって、美はすでに五感においてのみ感覚されるものではなかった。当然ながら、彼らが絵画、彫刻、陶芸などそれぞれの場で表現しなくてはならないと感じられたのも、目に映る美とともに不可視な美になった。天心が考えた美の境域をまざまざと伝える逸話を、波山は同じ談話でこう語っている。


絵のひとにたいへんよかったと思うのは、遂初会という会のあったことです。それは先生がポケットマネーを出して景品を買って、生徒に題を出すんです。その題が、たとえば「明月」という題でも、月を描いてはいけないわけです。そこにあるものを、感じを出さないといかん。そういうような式の会でした。「笛声」という題を出して、ある若い公家さんが広い野原で笛を吹いていたんじゃいけないんです。そんなものをやらんで、笛を吹いていないで笛の感じを出せ、と。

 音を描けというのである。空気の振動を絵に描けというのだった。
 目に映る現象の奥に潜むものを浮かび上がらせるようにすること、そこに芸術の秘儀がある、と語ったのはパウル・クレーである。クレーはカンディンスキーらと、近代ヨーロッパの芸術教育に決定的な影響を与えたバウハウスで教えた。しかし、同質のことが、彼らの時代よりも前に、日本で、それも天心を中心とした一群の芸術家たちによって、いっそう自覚的に行われていたことは興味深い。波山はこうした大きなうねりの渦中に若き日を過ごしたのである。
 二〇一四年、波山の没後五十年を迎えたこともあり、回顧展が複数の場所で、異なる様式で行われた。そこには陶芸家としての作品だけでなく、美術学校時代の素描、彫刻の卒業制作で作った「元禄美人」なども見ることができた。若き日から波山は、絵、色、構図、彫刻、どれをとっても抜群の才能を持っていたことが分かる。

磁器のなかに光を宿す

 波山は美術学校を卒業後、実質的には美術学校の予備門だった開成予備校で教鞭をとることになる。ここで波山に学んだのが光太郎だった。光太郎が、まだ天心が校長を務めていた時代の美術学校に入学したことはすでに見た。波山が陶芸に目覚めるのは、美術学校を卒業し、金沢の石川県工業学校に移ってからである。そこで彼は当初、彫刻を教えていた。だが、赴任した翌々年、彫刻科の廃止が決定される。波山は職を失うことはなかったが、学校側は陶芸を教えてほしいと言ってきたのだった。
 これが契機になった。教えるために研究を重ねるうちに彼は陶芸家として立っていきたいとすら感じるようになる。学校を辞めて、東京にもどり、滝野川に窯を開いたのは一九〇三(明治三十六)年、彼が三十一歳の年である。天心が亡くなるのはその十年後だから、天心は自分の前では彫刻家だった波山が、陶芸家に変貌したのを知っている。だが、波山がそれまで誰もなし得なかったことを実現したのは、師の没後だった。
 一九一四(大正三)年、天心が亡くなって、二年ほど経過したとき波山は「葆光ほこう彩磁禽果文大花瓶」を制作、以後「葆光彩磁細口菊花帯模様花瓶」(一九一九)「葆光彩磁瑞花鳳凰文様花瓶」(一九二三頃)など「葆光彩磁」の名を付した作品の発表を続ける。
 葆光彩とは、光を包み込むことをいう。波山は、磁器のなかに光を宿そうとしたのである。波山論を書いた柏木麻里も指摘しているように、光と光るものは違う。人間が光っていると感じるのは、光によって照らされたものである。また、光と光線も異なるものである。光線とは光が空気にふれた状態である。世界に遍在し、万物を深みから照射する、不可視な働き、それが光である。波山をとらえたのも光である。彼は、大観や春草が空気や音を描こうとしたように光を現出させようとしたのだった。
 また、波山は「彫る」陶芸家でもあった。文字通り彼は轆轤ろくろの上で出来た器に彫刻刀で図像を、文様を彫りこむ。多くの陶芸家は、模様を描くのだが、彼は彫刻家が木に像を彫りこむように壺の側面に刻み込んでいった。この独特の業は、「薄肉彫」と呼ばれる。波山の作品には色、図像、形、彫、彼が美術学校で学んだすべてが宿っている。別な言い方をすれば、美術学校で行われた教育の精髄が彼の作品に収斂している。
 この時代に胚胎している可能性を現代の私たちは認識できていない。波山は、陶芸家濱田庄司の師でもある。濱田はのちに柳宗悦とともに民藝運動の中核的人物として知られるようになる。外観から見るだけでは、波山の精巧な、精緻な、そして鮮やかな色彩を光の中に閉じ込めた技巧の粋を極めた作品は、濱田が愛した民藝の精神とは相容れないように思われる。しかし、二人の間には深いつながりがある。同質なことは天心と柳にも言える。天心と柳が美を宗派的な意味における宗教ではなく、霊性的な宗教と不可分なものとして捉えていたことだけ見ても、二人の間には、接点を探る十分な余地がある。現代に生きる私たちにとって近代は、まだ、多くの謎に満ちている。彼らがどんな可能性を有していたか、私たちはその全貌を知らないのである。



主な参考文献

『没後50年・大回顧 板谷波山の夢みたもの―〈至福〉の近代日本陶芸』展図録(出光美術館)