美術院の創設と暗礁

 人生の岐路というべき出来事に遭遇するたびに天心は海外へ行った。欧米だけでなく、中国、インドを含め天心は、生涯に十回外国を旅している。
 一八八六(明治一九)年、二十五歳になる年から翌年にかけて行われた東京美術学校(以下、美校)の開校に伴う視察のように国の命令による場合もあるが、ほとんどは彼自身の意思に基づくものだった。殊に美校を辞め、在野の人になってからは、大きな問題に直面すると天心は渇きを癒す水を求めるように海外に赴いている。それが単なる逃避ではなかったことは、それぞれの旅から彼が持ち帰ったものを見れば瞭然とする。むしろ、旅に出るたびに彼は大きく変貌していったのである。
 そうした旅に出る最初の機会は日本美術院(以下、美術院)を創設して、しばらくしたときに起こった。一八九八(明治三一)年三月中旬に九鬼隆一ら天心の周辺を批判する記事が新聞に掲載されたのが発端となった。
 当時天心は、美校の公務だけでなく一九〇〇(明治三三)年に行われるパリ万博に出品する作品の選定など、近代日本における美の果実をいかに世界にむけて物語るかをめぐって重大な責務を担っていた。そうした姿は多く羨望を生んだ分、抵抗も強かった。外部からの誹謗だけでなく美校内部から「怪文書」が出回り、その月の終わりに天心は美校校長の職を辞している。
 公務を含む当時の生活の充実ぶりが示しているように、このとき彼に宿されていたエネルギーは尋常ならざるものだった。莫大な費用と労力が費やされた美校に劣らない美の共同体を在野の立場で創設する、それはほとんど不可能なことだったといってよい。このとき天心に押し寄せていたのは向かい風というにはあまりに激しい試練の風だった。しかし、三ヵ月後に天心は、日本美術院の創設を宣言し、十月にはその式典を行っている。この当時の天心の姿を描いたのが、第一回で見た、美術院発足後初めての展覧会で横山大観が出品した「屈原」である。
 どんな事業にも土台となる資本金がいる。通常、創業者が捻出するのだが、美術院の創設のような大事業の場合、天心やその周辺の人々が持てるものをすべて出しても十分ではなかった。天心伝『天心岡倉覚三』の作者清見陸郎によれば天心は三十万円の寄付金を募るという計画を公言したことすらあった。このとき天心を助けたのが「暴富」と呼ばれたウィリアム・スタージス・ビゲロー(一八五〇~一九二六)だった。
 彼は単に大富豪であるだけでなく、天心らの美術運動に深く、強く共鳴していて、彼がフェノロサ、天心と共に三井寺法明院の桜井敬徳阿闍梨によって受戒していることは第二回でふれた。齋藤隆三の『日本美術院史』によると、天心が美術院を創設しなくてはならなくなった事情を伝え、支援を仰ぐとビゲローはただちに二万円を送ってきたという。現在の金額で言えば二、三億円に相当する。この支援がなければ美術院の出発はまったく異なる姿になっていただろう。日本美術院規則によると、美術院の運営に関する経費は、正員が負担し、各種会費および寄附金によってこれを補充する、ということになっていた。美術院は天心を含め、橋本雅邦、大観、菱田春草、下村観山など美校の教師を務めた人物を中心に二十六人の正員で出発した。これに加えて「当局に交渉して国宝修繕の事業を引き受けた」とも清見は書いている。前回ふれた新納にいろ忠之介ちゅうのすけ六角紫水ろっかくしすいによる修復事業がこれに当たる。彼らも正員だった。
 美術院の活動が学校というよりも、一つの事業体だったことは注目してよい。正員たちはそれぞれ文字通り血眼で活動を続けた。しかしその矢先、一九〇〇年四月に事件は起こった。日本絵画協会、美術院の共催の絵画共進会に出品した大観、春草、観山らが描いた作品が「朦朧体」であるとの批判を浴びる。今日では時代を画した一つの技法となっている「朦朧体」だが、当時は違った。美を著しく損なうものの代名詞だった。この出来事を契機に美術院の活動は文字通り暗礁に乗り上げる。絵が売れなくなったのである。
 彼らの絵画の売り上げが美術院の運営資金の中心をなしていたことは、批判した側も熟知している。事業体は、資金に余裕がなかったとしても動いていれば次第に道は開けてくる。その時々の活動とは別に、それまでの歴史への評価や他者の交わりのなかで期せずして道が開けることが少なくないからだ。しかし、ひとたび活動が止まると困難は予想を上回る勢いで人々を襲う。収入はないが支出は変わらないという現象的なことだけでなく、未来の展望を絶たれた不安と失望が、働く人々の心を激しく揺さぶり、静かに蝕むのである。

 インドへ導いた仏教の「霊的」実感

 翌〇一年夏、具体的な打開策も見えないまま、どこかに光を見つけようとしていた天心を、堀至徳という仏教者が訪れる。この人物が天心をインドへと導くことになる。彼は廃仏毀釈によって還俗した僧を父に持つ修行者で、天心とも交流のあった真言宗の僧丸山貫長(一八四四~一九二七)の弟子だった。
 天心と堀、丸山の関係は『堀至徳日記』に附された池田久代らの解説や年譜に詳しい。丸山との出会いは一八八八(明治二一)年、天心が二十七歳のときにフェノロサ、ビゲローと共に調査のために室生寺を訪れたときに遡る。当時、丸山はこの寺の責任者だったが、彼は天心らの仏教をめぐる思いに共鳴し、灌頂まで授けている。以前から丸山は、僧と俗の垣根を取りはらった仏教復興運動を企図していた。一八九〇(明治二三)年にはその運動を「不二真教」として立教している。
 同じ年に天心は美校の校長に就任しているが、関係は以後も深まっていく。九二年に送られた天心の丸山への書簡には「真教興隆の御大願 固より小生の希望スル所ニ有之 精々協賛の力ヲ致度存候」 と述べ、翌年に天心は、丸山が「真教」の第二道場を建てる際に百円を寄進するなど共感する言葉は当時天心の書簡に多く残されている。九〇年に丸山はひと月ほど天心の家に暮らしていたことがある。「滞在中、丸山阿闍梨は毎朝五時に起きあがると、床にかけた愛染明王の画像の前に結跏趺坐して天心とともに朝の勤行を怠らなかった」(『父 岡倉天心』)と天心の長男一雄の評伝にも述べられている。天心と仏教の関係はこれまで論じられてきたよりもずっと深く、彼の精神形成において重要な意味を持っている。その一端を伝える証言が、天心の没後、ビゲローによって明らかにされている。
 一九一三年、天心が亡くなってほどないとき、ビゲローは、アメリカ人文科学会議の例会で三回にわたって仏教に関する講演をしている。そのときの最初の主題となったのが天心による智顗ちぎ(五三八~五九七)の『修習止観坐禅法要』英訳をめぐる話だった。智顗は、中国の僧で、実質的な天台宗の開祖に当たる人物である。『修習止観坐禅法要』は彼が入門者のために著した修道教本だった。天心によるその英訳である「止静と観照の実践法」には、ビゲローの講演録が序文として置かれているのだが、冒頭でビゲローは、自分のためにこの本を訳してくれた天心への感謝と賞賛をこう語っている。


彼〔天心〕は洗練された日本文化のなかの紳士の学としての作詩、生け花、茶道作法、柔術の巨匠であった。しかしこれは一般に知られている彼のほんの一面にすぎない。そして知られていない面は、彼が仏教教団と緊密な関係をもったことである。彼はその歴史と哲学に造詣が深く、天台宗と真言宗の得度を受け、約三十年ものあいだ、いわゆる「内的体系」とよばれるものを修行していたのである。これは感性ではなく、意志の力によって到達した意識の状態を問題としている。その体系が本書の根底で述べられている。(「止静と観照の実践法」序文 春日井真也訳)

 ここで「内的体系」と訳されているのは“In­terior System”である。それは智顗のいう「止観坐禅」に当たり、瞑想における意識の深まりを指す。Systemは「体系」と訳すこともできる。だが、あえて「観」と意訳して、「内観」とした方が実質的な意味を把握しやすいようにも思われる。
 次に引くのは、『修習止観坐禅法要』のはじめにある一節である。原文ではなく、天心の英訳を和訳したものから引く。英訳における言葉の選び方には、不可避的に天心の「読み」が反映される。そうした意味で翻訳は、もっとも直接的な批評だと言える。その言葉を通じ、私たちは、天心が智顗をどう読んだかを知ることになる。


 止静とはまず無知から生じた諸々の煩悩を取り除くための手段であり、観照とは正知を獲得する確かな方法である。
 止静は理性と本性をつちかい、観照は霊的能力を甦らせる不思議な方法である。
 止静は禅定(霊的な洞察)に入る出発点であり、観照とは真の智に包まれていることである。
 止静・観照の二つの瞑想法を実践し、その目的を成就するものは、己を向上させ、他をも救済できるあらゆる方法を身に備えることができる。
(「止静と観照の実践法」)

 ここに述べられていることを天心は、三十年にわたって実践してきた。美校からの追放、美術院の経営困難のときも、あるいは私生活での試練に直面したときも、彼は高次の意味における祈りの時間を生活の中心に置いていた。天心の宗教的、彼自身の英訳に従えば「霊的」Spiritualな実感が日常生活の中枢にあったことは記憶しておいてよい。こうした生活を送っていた天心が、仏教の起源であるインドに渡りたいと思っていると語る堀の言葉に、強く動かされるのは必然だった。

ヴィヴェーカーナンダとの邂逅

 だが、天心をインドへと導いたのは堀だけではなかった。天心の年譜を見ていると、彼がインドへ赴いたというよりもインドが彼を呼んだと言いたくなるような出来事が、堀の来訪のあとに続いて生起する。アメリカのマクラウド女史との出会いがそれである。
 堀との邂逅は天心をインドという場所に導くのに十分な動機となったが、マクラウドは天心をインドの霊性的世界に招きいれた。このアメリカ生まれの婦人が、近代インドを代表する宗教者ヴィヴェーカーナンダ(一八六三~一九〇二)のもとへと天心を導いたのだった。彼とその師ラーマクリシュナ(一八三六~一八八六)はヒンドゥー教の宗教者でありながら、近代において宗教の壁を超えた、いわば霊性の教師というべき役割を担った人物だった。一八九三年にシカゴ万博の開催に合わせて行われた世界宗教会議に参加したヴィヴェーカーナンダは、三分間スピーチの時間を与えられる。このとき彼は、それぞれの信仰を深化させることはそのまま、霊性への道を準備することになり得ると語った。彼の言葉は、大きな衝撃をもって迎えられ、十九世紀末に興った霊的革命の狼煙となったのだった。
 この潮流の渦中にマクラウドはいた。また彼女の妹の夫もヴィヴェーカーナンダの主宰する団体のアメリカ支部の責任者だった。インドに渡る前、天心はマクラウドとその友人に自宅で「日本美術史」を講じている。このときの経験はのちに『東洋の理想』に色濃く反映されることになる。マクラウドは天心のインドへも同行している。
 一九〇二年、天心は、インドに着いてほどなくヴィヴェーカーナンダと面会する。彼らはすぐに互いを深く認めた。二人は言葉を交えただけでなく、ブッダが悟りを開いた地ブッダガヤまで共に旅をしている。ヴィヴェーカーナンダは天心を遠方から来た「兄弟」だと語ったという。このとき天心はヴィヴェーカーナンダを日本に招き、東洋宗教会議の開催を真剣に企図した。だが、その目論見は同年七月のヴィヴェーカーナンダの死によって頓挫してしまう。
 すべての宗教は一なる源泉へとつながるさまざまなる河のようなものである、とヴィヴェーカーナンダはさまざまなところで語っている。真に神と呼ぶべき存在は、人がどの道を通ってきたかではなく、苦しみ、もがき、神にたどり着こうとする、その姿から目を離すことはないだろうとも言った。宗教間対話という言葉のない時代に彼は、対話する可能性を明示しただけでなく、宗派の違いは、乗り越えがたい差異をも包み込む一なるものの偉大さの表現にほかならないと言明したのだった。
 こうした世界観を「アドヴァイタ」という。日本語では「不二一元ふにいちげん」と訳されるが、ここでの「二」は複数よりも無数を意味する。「不二」とは、人間の目には姿が異なりまったく接点がないように見えるものも、存在の深みにおいては深くつながっているということを示す。現象の世界では姿が異なる別個なものとして認識されるが、実在の世界では一なるものになる、というのである。
「アジアは一つである」との一節から始まる『東洋の理想』が刊行されるのは天心がヴィヴェーカーナンダに会った翌年である。この本で天心はヴィヴェーカーナンダとの邂逅によってもたらされたものを言葉にしようとした。その執筆はヴィヴェーカーナンダの没後に始められたようにすら感じられる。別な言い方をすれば、このときにヴィヴェーカーナンダが逝かなければ、彼は『東洋の理想』を書くことはなかったかもしれない。この著作の成功が『日本の目覚め』『茶の本』と続く大きな契機になっている事実を考えるとき、ヴィヴェーカーナンダの死が著述家天心を生んだともいえる。
 アジアには無数の文化がある。だがその異なる伝統はすべて一なるアジアへと流れ込んでいくと天心はいう。ヴィヴェーカーナンダが宗教の側から東洋の目覚めを語ったように、彼は文化の、芸術の地平からそれを語ろうとした。ここでの「東洋」は西洋に対抗するものではない。むしろ、邂逅と対話を呼びかける東洋である。天心は、近代において「不二一元」が真実であることを告げ知らせ得る文化は日本にこそ生きていると感じられたのだった。『東洋の理想』のはじめ近くには次のような一節がある。


……日本はアジア文明の博物館となっている。いや博物館以上のものである。なんとなれば、この民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二元論アドヴァイティズムの精神をもって、過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである。(富原芳彰訳)

『東洋の理想』の多くのページは、美の日本精神史ともいうべき内容になっている。天心はこれまで自らが考え続けてきた日本における美の伝統をヴィヴェーカーナンダの思想によって深化させ、世界にむけて語り掛けようとした。

共振するベルクソンの精神

 今日、私たちが読む天心の著作はすべて英語で書かれている。彼が日本語で書いた文章もないわけではない。だが、それらはいずれも著作になることを指向するものではなかった。さらに彼は、これらの著作をすべて旅の最中に書いた。文献を横に書いているわけではないから事実の誤認もある。どの著作も詩情にあふれた言葉で満ちているが、そこには体系と呼ばれるような構造は存在しない。
「哲学にいちばん欠けているのは正確さである。哲学の諸体系は私たちが生きている現実の寸法に合っていない。現実よりも大きすぎるのである」(『思考と動き』原章二訳)と書いたのはアンリ・ベルクソン(一八五九~一九四一)だが、この言葉は天心の著作の性質を見事に言い当てている。天心が生まれたのは一八六三年だから、ベルクソンとは文字通りの同時代人だった。そればかりか天心はパリでベルクソンの講義を聴講している。その時のことを九鬼周造がエッセイで書いている。九鬼と天心の関係は、周造の母、波津子を間に複雑な、しかし深い関係にある。次の一節にも暗示されているように九鬼は天心とベルクソンの思想が折り重なる場所にあることをはっきりと感じている。


岡倉氏に関してもう一つ思出すのは、このあいだ岡倉氏が来て巴里パリでベルクソンの講義を聞いた話をしていたと浜尾新子爵が、大学を出たての私に語られたことである。岡倉氏がコレジ・ド・フランスの講堂でベルクソンの講義に耳を傾けた姿を想像するのは私にとっては興味のないことではない。
(「岡倉覚三氏の思い出」)

 これがいつのことだったか、天心の年譜には記されていない。しかし、ベルクソンのコレージュ・ド・フランスでの講義の経歴と考え合わせると、おそらく一九〇八年だったと思われる。このとき天心は何を感じただろう。文化を超え、自らと同質の問いと実感を持ちつつ、世界観の刷新を呼びかける哲学者の存在を心強く思ったかもしれない。
 何かの運命なのかもしれない。後年、九鬼はベルクソンと親しく交わることになる。晩年、リューマチの痛みに苦しんでいたベルクソンは、新しい人に会うことはほとんどなかったが九鬼は例外だった。フランス語を流暢に話し、東洋の文化にも精通した日本人の哲学者にベルクソンは信頼を寄せた。その頃のことを九鬼は「回想のアンリ・ベルクソン」と題する一文に書いている。
 体系として整えられた哲学は、私たちが内心に宿す人生の問いと私たちの日常生活のあいだに割り込み、現実と哲学との邂逅を阻害する、とベルクソンは感じている。近代の哲学が追い求めた「体系」はときに目を見張るような伽藍のように映る。それを仔細に見ることで、この建物が完成するまでの試行錯誤の歴史を確認でき、哲学について詳しくなることはできる。しかし、彼はいつまでも哲学を生きることはない。そのためには「体系」的な哲学という森から抜け出して世界に向かって足を踏み出さなくてはならない。重要なのは、世界にむかって「出発して、歩くこと」であるとベルクソンは語っている(「意識と生命」『精神のエネルギー』原章二訳)。完成されたものを作ることが目的なのではない。本質的なことはその道程だ、というのである。
『茶の本』で天心も同様のことを語っている。次の文章の「彼ら」とは、道教や禅の世界に道を求めつつ生きる者たちである。「彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ『不完全』を心の中に完成する人によってのみ見いだされる」(村岡博訳)。ここでの「不完全」とは壊れたものであることを意味しない。完全に向かいつつ、不断の動きのなかにある状態を指す。
 先の一節にあった「動的」という表現に天心は、dynamicという英語を当てている。四大主著の最後の著作となった『道徳と宗教の二源泉』でベルクソンは、最重要の問題として「動的宗教」(la religion dynamique)とは何かを論究した。生けるものを示すdynamic/dynamiqueの一語において天心とベルクソンの精神は烈しく共振する。

語らざる思想家

 一九一一年、亡くなる二年前にボストン美術館で行われた「東アジア美術における宗教」“Religions in East Asiatic Art”と題する講演で天心は、「藝術はつねに宗教と結びついている」と述べ、美と信が不可分であることを静かに、しかし、何か確信に満ちた言葉で語っている。また、「このことが、東洋においてほど真実であるところは、どこにもない。東洋はもし宗教的でなければ何も無い」と言ったあと、自身の宗教観をこう述べている。


宗教について、ここであなた方が意味されるようには、東洋における我々は考えない。この用語は西洋諸国ではより狭義の意味で理解されている。我々にとって、それは必ずしも礼拝の形式を意味せず、神の概念すら含んでいない。その点、我々の意味では、ある人間が不可知論者でもなお宗教的である。より高い理想のためには死に至るも堪えうるような、俗世を超越できるそのような信念を、我々は宗教と理解するのである。(橋川文三訳)

 霊性とは何かをめぐるこれほど端的な表現を知らない。ここで「宗教」と記されている文字はすべて「霊性」に置き換えてもよい。経典や教義、あるいは神学のなかにだけ宗教があるのではない。むしろ、天心から見れば、そうした場所は「宗教」の辺境だというのだろう。
 宗教に限らず、知識を体系化することは現実を整理し、保存するのにはじつに役立つ。それは美術館に似ているのかもしれない。あの大きな建物とそれを支える研究者の営みがあって芸術作品は後世に引き継がれていく。しかし、天心とベルクソンが注視していたのは展示されている作品ではない。絵画を描いた人間の魂の歴程であり、それを見る人間の精神で起こっている感情の劇だった。絵はどこにあるのか。天心は『茶の本』で「傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である」と述べたあと、こう書いた。

わが心は画家の絵の具を塗る画布である。その色素はわれわれの感情である。その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。

 芸術とは優れた作品に与えられる呼び名ではない。それを見た人間の心に惹起される出来事だというのである。ここで天心が「心」と語ったものをベルクソンは「意識」と呼ぶ。意識の実相を考えることはベルクソンにとって、そのまま魂とは何であるかという問いに発展する、もっとも重要な問題の一つだった。「意識」とは何かを考えつつベルクソンは、何もかもを実証的にとらえようとする近代の哲学的態度を次のように批判する。
「完全かつ厳密な数学的明証性を求めることは避けましょう。それをしても何の得るところはありません。ある存在が意識を持っていることを確実に知るには、その内部に入り、それと一致して、それにならなければなりません」(「意識と生命」『精神のエネルギー』)。この一節にふれるときは、次の天心の言葉を思い出さずにはいられない。

茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い軌範によって彼らの日常生活を律しようと努めた。(中略)これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。(『茶の本』)

 茶道の目的は、茶の作法を通じて美とは何かを知ることでもあるが、それは始まりに過ぎない。茶の宗匠たちは美を認識しようとしただけでなく、美そのものたらんとしたというのである。さらにベルクソンと天心をつなぐのはヴィヴェーカーナンダへの共感である。『道徳と宗教の二源泉』でベルクソンはヴィヴェーカーナンダとその師ラーマクリシュナの思想をめぐって熱情ある言葉で綴った。

キリスト教はあらゆる西洋文明に浸透したので、人々はキリスト教を、西洋文明がもたらしたもののうちに、あたかも香気のように、吸いこむ。産業主義自身、のちにわれわれが明らかにするように、間接的にキリスト教から由来している。ところで、ラーマクリシュナやヴィヴェカナンダのような人の神秘主義を生み出したのは、産業主義であり、わが西洋文明である。このような熱烈で活動的な神秘主義は、インド人が自然に圧しつぶされていると感じていた時代や、あらゆる人間の介入が徒労に帰した時代には、決して現われはしなかったであろう。(中村雄二郎訳)

 諸宗教を包摂しようとするキリスト教と産業化に抗う者として近代インドにラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダのような神秘家が生まれた。彼らは貧しき一元論と物質的文明から世界を救い出そうとした霊的革命家だったというのである。
 この一節はそのまま、思想家岡倉天心の誕生の理由を物語る言葉として読むことができる。明治政府にとって産業化と近代化はほとんど同義だった。インドにヴィヴェーカーナンダが生まれたように日本は天心を生んだ。天心は宗教者でも詩人でもなかったが、国や地域を問わず創作家や宗教家、さらにはタゴールのような詩人の心をつかみ、彼らを行動に導いた。天心が試みたのも革命だった。武力によってではなく、美と信による革命だったのである。
 天心は、近代日本を代表する思想家だが、彼にとって著述はあくまでも余技だったことは注目してよい。書物のなかに天心の思想を見ることもできる。だが、そこに彼のすべてを見ようとするとき、私たちは大きな過ちを犯すことになる。さらにいえば、思想家とは、世界観を刷新する思念あるいは言葉を身に宿している人物の謂いだから、著作の有無は関係ない。
 言葉を書き記すのとは別な方法で自らの思想を後世に伝えようとした思想家はいる。書物を残すことが不可能だったのではない。だが、書くことは自分たちが感じているものを小さくすると考えた。「岡倉先生は、いわゆる筆を持たない芸術家でありました」(『大観画談』)と大観が語っているように天心はそうした語らざる思想家であり、また、描くことのない、しかし、真の芸術家の一人だったのである。



主な参考文献

「長谷寺所蔵 岡倉天心書簡(丸山貫長宛)ほか」五浦論叢:茨城大学五浦美術文化研究所紀要, 18: 1-67