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 尋常でない暑さの日本から戻ってみると、ミラノはアフリカだった。
 六時過ぎの日の出に、犬を連れて出る。うかうかしているとあっという間に三十度を超えるからだ。「いくら暑くても、イタリアの夏はカラリとして爽快でしょう」。ミラノの湿度は、七〇パーセント強。「出たら、倒れる」と、外出を控えて過ごす。
 八月に入ると、町は伽藍堂だ。ほとんどのオフィスや店は長期休暇に入っている。知らずに訪れた観光客がオロオロしている。

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 そういうミラノの日曜日の早朝、界隈で唯一開いているバールへ朝食に行った。
 客は私一人だけ。カウンターの向こうには、見知らぬ顔の店員がつくねんと立っている。
 熱々のエスプレッソに冷たい牛乳を入れて、アイスキューブを三個ほど加えてください。ガラス製のコップでお願いします。
 新顔の若い店員はハッと戸惑い、恐る恐る注文内容を訊き返す。
 「牛乳は冷たく、コーヒーは淹れたての熱いのを、それに氷なのですね?」
 それで本当にいいのか、というふうにこちらの顔を窺っている。
 そうです。<ラッテ・マッキアート>(コーヒーで染めた牛乳のこと)を冷えた牛乳のままで用意して、氷。マグカップにではなくて、ガラス製のコップに注ぐ。
 私はもう一度注文を繰り返す。
 通常、<ラッテ・マッキアート>はエスプレッソに温めた牛乳を加えて作るものなので訊き返したのだろうが、青年は全身で緊張している。今日は、彼の初出勤なのだ。すぐそばのレジから、店主がじっと新人の一挙一動と私の顔を見ている。
 青年は、いくつかの種類の中からガラス製のコップを選び、こちらに見せ、
 「この深さでよろしいでしょうか?」
 と店主のほうも見ながら確認する。コチコチだ。
 最初の客である。エスプレッソマシーンの取っ手を捻り蒸気を吹き出させて調子を試し、コーヒー豆を挽き、コンコンとサーバーを打ち付けてコーヒーの残り滓を捨てる。指先まで気合いを込めているのだろう。まるで初舞台に立つ若手の役者の後ろ姿を見るようだ。
 クォー。コーヒーが抽出される快活な音に続き、濃厚な香りが流れる。目分量を誤って牛乳を入れ過ぎて、コップから思い切り溢れ出てしまう。<しまった>。俯く青年。
 アイスキューブは、カウンター下の専用ボックスにいつも用意されている。ところが、ない。アイストングが見当たらない。
 「えっと、アイストングはいったいどこなのでしょうか?」
 青年はうろたえる。
 <ほら>
 見かねた店主が横から、青年の目の前にあるアイストングに向かって顎をしゃくる。

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「僕の故郷では、ミントの葉を冷たい牛乳に入れて、そこへエスプレッソコーヒーを加えます」
 とても強い訛りがある。聞き覚えがある訛り。
 プーリア州なら、と私はプーリア州の海沿いの町の名前をいくつか挙げてみる。
 青年は、どうして自分の出身地方がわかったのか、と目を丸くしている。
 少し内陸に入った町、コンヴェルサーノの出身だ、と自己紹介した。
 私は、たまたまその町を昨春に訪れたばかりだった。オリーブの木に害虫が付いたと聞き、プーリア州で農業を営む友人を見舞いに行ったときにコンヴェルサーノにも立ち寄ったのである。晩春の日曜日の昼下がりだった。コンヴェルサーノには、人がほとんどいなかった。町の入り口の並木道沿いのベンチに腰掛け、道の向こうへと続く静かな景色を楽しんだ。
 「‥‥‥。実家は、その並木道の前なんです」
 コーヒーをもう一杯お願いします。冷たい牛乳にミント入りで。

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 ミラノに来て今日で三日目なのだ、と言った。
 ふだんそのバールには、正規雇いの店員が数名いる。交替で夏の休暇を取るものの、日曜日の朝は臨時の代替店員が必要になる。あの南の町からこの若者は、晩夏の日曜日の朝だけ働くために、ミラノにやってきたのか……。
 休暇から店員たちが戻ると、彼の働き場所はなくなってしまう。

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 にわかに暗転したかと思うと、突風を伴う土砂降りとなった。
 青年は、客のいないカウンターを黙々と磨いている。新品の白い綿シャツは長袖で、定規で測ったようにきちんと折り上げてある。
 短い夏が終わる。

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