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五木 私が生まれたのは1932年、5・15事件や満州建国があった年です。そういえば先日読んだ『「天皇機関説」事件』によると当時、陸軍パンフレットというのがあって、大量に印刷されて全国津々浦々のいろんな団体に配られたそうで、陸軍が作ったその文章の中には、破邪顕正という仏教の言葉が出てきました。
 私が龍谷大学の聴講生だった頃、学生は校門に入るときに帽子を脱いで一礼していました。その先にはクラシックな木造の講堂があって、破邪顕正のマークがかかっていた。あれと陸軍パンフレットはどこで交錯するのか、不思議に思いました。

中島 国策のなかに仏教的な概念が出てくる流れの一つですね。当時、大乗日本とか大乗アジアという言葉があって、これは日本がアジアの盟主となって世界を平等な一つのものへと導いていこうという概念で、公的な文章などにも使われていました。

五木 まあ、あの時代を思い出すと、宗教界だけでなく、どうして国民全体があれほど熱狂していたのか、考え込んでしまうんですよ。
 当時、私の父は福岡で小学校の教師をしていましたが、高等師範学校出の連中がどんどん校長になるのを見て、このままでは出世できないと思ったんでしょう。だから植民地に渡り、朝鮮半島ではいきなり朝鮮人学校の校長になった。そこから猛勉強してさらにいろいろな試験をパスして、最後は平壌の師範学校の高等部で教えていました。
 父の本棚には、本居宣長、平田篤胤、賀茂真淵などが並び、その頃流行していたヘーゲルもありました。そのうち本を出すと言って、よく夜中にものを書いていて、あるときこっそり覗いてみたら「禊の弁証法」という題がつけてありましたね。
 その父も、日本の敗戦とその後のソ連軍の侵攻によって、自分の思想的根拠が一挙に崩壊してしまった。戦後はほとんど茫然自失の状態で、闇屋をやったり、酒に溺れたり、競輪場で倒れたり……。でも個人的には、そのほうがまだ赦せる気がするんです。うまく懺悔したり反省して見せたりするよりはね。
 いずれにしても、他力思想と全体主義にはどこかで一脈通じるものがある。そう言うと、また露骨なことを、と真宗教団に嫌われるかもしれませんが、それは間違いないと思うんです。それは私どもも自戒しないといけないし、でないとまた熱病のような中に入りこんでしまうかもしれない。そんな気がします。

中島 たしかに、その通りですね。

五木 ふと思い出したのは、南京陥落の時のことです。当時、私は五歳で、父に「今日はすごい所へ連れていってやる」と連れていかれました。たくさんの花が飾られた花電車、万歳三唱の提灯行列が町中に渦巻いていて、南京の次はどこだ、という高揚感であふれていた。そういう民衆の熱気を背負っていたからこそ、軍部はイケイケどんどんで独走できたし、それによって時代が動いてしまったところがあると思う。

中島 そうですね。1910年代から20年代の初頭は大正デモクラシーといわれて、吉野作造の民本主義の本が広く読まれました。そこから20年代後半の世界恐慌、昭和恐慌へと一気に経済が悪化して、満州事変まで十数年という非常に短いスパンで、日本は大きな空気の変化に直面しています。

五木 先日、ある雑誌に「戦前は一日にして成らず」ということを書いたんです。つまり、今を戦前になぞらえて危険な時代だ、としきりに言う人がいるけれども、体験者としてはやっぱり全然空気が違うんですね。
 あのころ新聞は軍国美談であふれていたし、落語や漫才から歌謡曲に流行歌、宝塚や新派のお芝居まで、ありとあらゆる大衆芸能も戦意高揚一色でした。それと同時に、国民感情も燃え上っていた。そのとき、こんなふうでは日本はダメだ、なんていう人はごくごく一部にすぎなかったし、今はそれにはほど遠い感じがします。
 戦時教学の影響はあるとしても、世の中全体がそこまでいくには、やはり明治以来100年の徹底した教育があってこそだと私は思います。最近、森友学園の騒ぎで教育勅語が問題視されましたが、私なんて教育勅語に軍人勅諭、青少年学徒に賜りたる勅語、さらにはモールス信号に手旗信号などが、いまだ頭に残っていて、「我が国の軍隊は世世天皇の統率し給うところにぞ」で始まる軍人勅諭は、統帥権がどうこう考える以前に、体に浸みこんでしまっている。あの時代、国民全体がある種、皇道派的な感情に酔いしれていたのではないでしょうか。

中島 五木さんが言われるように、そこは楽観視すべきではないし、この国は雪崩れる時には一気に行く、そういうところがあります。だからこそ、過去をしっかり見直し、備えておく必要があると思うんです。
 何も、親鸞の思想にいちゃもんをつけようというのではないし、私自身、親鸞に非常に敬意を抱いていて、それは全く揺るぎません。ただ、自分自身が大切にしてきた論理構造の中に危うさが含まれていて、日本のある時代状況においては国体と結びつきやすかった。それを客体視しておくことが、あの時代から次の時代への一つのメッセージだと考えているんです。
 時間を超えて、暁烏や金子や曽我が悪人だったというつもりもないし、むしろ、彼らから学んだことのほうが圧倒的に多いんです。ただ、彼らから今の時代に投げかけられているものに耳を澄まして、そのバトンを受け渡さなくてはならない。真宗は日本に深く根付いている宗教であり、再び繰り返すことがあってはならないと思うんです。

五木 清沢も、暁烏も、その他の人たちも、まだきちんと論じられていない気がしますね。知識人として、世間から孤立してでも警鐘を鳴らし続けることは大事な反面、一人の人間ですから、国民大衆とともにありたい気持ちはどこかにはあるものですから。

中島 そう思います。暁烏は門徒さんを抱えているお寺の住職でした。出征して死んで戻ってきた息子は靖国神社へ行くんですか、などと聞かれたら、相応の答えをしなくてはならない。その切実さは、私のような大学教員などとは比べものにならなかったでしょう。

五木 あの時代は、新聞にも誰が百人斬りを成し遂げたなんて記事が出ていて、読む側もそれに一喜一憂していたんです。人間というのは酔っぱらうものなんだな、とつくづく思います。それを「悪」と呼ぶべきなのかどうか分かりませんが、中島さんの言うように、その危険性を見つめながら備えておく必要はあると私も思います。
 だけど、危険性のない宗教というのもまた、ありませんよね。

中島 親鸞にしても、危ういがゆえに魅力があるし、いわば背中合わせで、親鸞自身その危うさは自覚していたと思うんです。
 ぼくがこれまで読んできた印象では、親鸞は常に自分を客体視していて、どこかに立ち位置を定めようとしないんですね。そして、「これが正しい」という人にはひどく冷淡で、逆に「わからない」という人には優しい。どこかに立脚して、これこそ正しいと唱える比叡山のごときものに対して、ハシゴを外そうとする思想なんです。
 つまり、親鸞の思想は常に未完の状態のまま、そこにある。そしてあの時代、金子や暁烏も、絶対他力に立てない人も、みな他力に立ってしまったのではないでしょうか。

五木 そうですね。人間の思想はスタティックに捉えてはダメだと私は思うんです。
 親鸞の思想も、20代で比叡山を降りるとき、越後から関東へいったとき、60歳を過ぎて京に戻って90歳で死ぬまで、そのときどきでダイナミックに変化しているはずで、この頃はああだったけどあの頃はこうだった、それが生きた人間の思想というものでしょう。暁烏や金子が一生の中ではころころ考えが変わっていくのだって、生きた人間の思考の形だと私は思いますね。
 これから先また新しい見方が出てくるのかもしれませんが、中島さんには大いに期待しています。今度出される『親鸞と日本主義』は一石を投じるどころか、現代への大きな警鐘になると思いますね。

中島 ありがとうございます。近く五木さんも親鸞について新書を出されると伺いました。今日は、貴重な機会をいただいて光栄でした。

(2017年初夏、新潮社にて)

 

 

 

親鸞と日本主義
中島岳志/著
2017/08/25発売