私はテレビの時代劇が割と好きな方で、特に中学高校辺りの頃にはかなり積極的に視聴するという、たいそう老けた趣味を持っていた。中でも、水戸黄門は一番推しだった。
 水戸黄門という番組は、実に不思議である。毎回話の中身が全部同じで、違うのは話の舞台地とサブキャラくらいなのに、あれだけウン十年と続いた長寿番組なのだから。冒頭で悪い奴が町人いびりをしていて、それを見た黄門様らが正体隠して何か余計なことをして、番組終盤に入ったらスケさんとカクさんが暴れて悪が成敗されてめでたし、というテンプレート的な流れを、番組創始以降何百と繰り返しているのに、見ていて全く飽きが来ない。全くもって謎だ。
 水戸黄門には他にも謎がある。あの、番組最後で黄門様らに「厳しき御沙汰、覚悟しておれ」とシバかれひれ伏せられた悪人共は、あの後本当に厳しい沙汰を受けているのだろうか。実はあの後悪人共は、目を離した隙に黒い権力によって秘密裏に裏口から逃がされており、黄門様らがいなくなったのを見計らい戻ってきて、再び町人いびりの悪行三昧を始めているのではなかろうか。でなければ、70年代辺りから始まって以来2011年まで、毎シリーズ始まるたんびに同じような世直し行脚を繰り返しているのに、あの世界から悪人共が一向に滅亡しない事に対する説明がつかない。水戸黄門という番組を見ていて唯一気に入らないのは、悪を暴かれた悪人共がちゃんと因果応報で(なるべく惨たらしく)処刑されたのか否かを、視聴者が最後まで見届けられない点である。今日の飯にも困るような貧民から搾り取った血税で豪遊し、罪なき町人に無実の罪を着せ、おとっさんの命を無為に奪った卑劣な悪人共が、きちんと江戸の町から綺麗さっぱりデリートされる所を見届けねば、見ている側としてはまるで溜飲が下がらない。その点、「江戸の用心棒」や「喧嘩屋右近」、「三匹が斬る!」は、悪人共が最終的に容赦無く切り捨てられて全滅するので、見ていてスカッとする。荒んだ世相の中、この手の時代劇はもっと評価されてよいと思う。
 時代劇の悪党に言及する上で、悪代官と呉服問屋のやり取りという様式美に触れない訳にはいくまい。「お代官様、今後とも良しなに」などと袖の下から、黄金色のお菓子という体の小判を渡す。それに対して悪代官が、「お主も悪よのう」とほくそ笑む。誰もが悪代官と呉服問屋というキーワードで連想するこのシーンだが、時代劇フリークの私でさえ実際の時代劇中でこのシーンを見た記憶があまりない。むしろ、賄賂と言ったら時代劇よりかは現代のニュース番組を見ている時の方が、遥かに耳になじむ言葉なのは何とも皮肉なものである。ともあれ、時代劇の定番とはいうもののさほど見かけない「賄賂で便宜を図ってもらう」というやり口だが、これは何も人間の世界だけの話ではない。野生の生き物の世界においても、賄賂というのは実に普遍的に見られる現象なのだ。

 知らない人は意外に思われるかもしれないが、自然界において最も多くの生き物から恐れられ、存在そのものが忌まわしく思われている生き物は、アリである。アリというと、大概の世の人間は「小さくて弱々しい存在」の代名詞のように見なしている。漫画版デビルマンの一コマに「これから多くの人間がアリのごとく死ぬ!」といった、アリという生物の尊厳そのものを根底から踏みにじる余りにもあんまりな比喩があったが、それくらい世間的にはアリはすぐ死ぬ、弱っちいゴミカス並の下等生物と思われている。いてもいなくても変わらないようなもの、という雰囲気が否めない。
 しかし、アリは実のところ非常に強い生物だ。集団で組織だって統率のとれた行動をするという、他の生物界隈において稀に見る特性をもつ彼らは、単独では敵わない相手も容易に圧倒できる。しかもアリは強力なキバ、種によっては毒針や蟻酸などの毒液で武装しており、大型の捕食動物にとっては食べづらいことこの上ない。実はアリは、我々が思っているよりは他の生物に食い殺されることがずっと少ない虫なのである。
 その、捕食動物からの嫌がられ加減は、クモやカメムシ、甲虫やカマキリに至るまで、アリと同サイズかつ外見をアリに似せているムシ共が世に蔓延っている事実からも容易に想像がつく。彼らは不味くて食べづらいアリに似せることで、鳥のような視覚で獲物を認識する捕食動物から食われないようにしているのだ。

アリそっくりなハエトリグモ(左)とカマキリの幼虫。マレーにて。単に外見が似ているだけで、アリの巣には一切共生しない。


 それだけではない。アリは一箇所に巣という拠点を構え、そこに餌を大量に運び込む。その食べカスは、巣の周囲に捨てられる。さらにそこで多数個体が排泄もするため、アリの巣の周囲の土壌は、通常の土壌より肥沃になり、植物が育ちやすくなる。また、植物の中には、種子にアリの好む「エライオソーム」という誘引物質を搭載し、わざわざアリの巣の周辺まで種子を運ばせるものが多数知られる。アリは一旦種子を巣内に持ち込むが、原則アリの関心はエライオソームにしかないため、これを齧り取った後の種子はゴミとして巣口の周辺へ運び出して捨てる。そこで発芽した種子は、通常より格段に肥沃な土壌で生育できるのだ。海外の乾燥地帯に生えるイヌノフグリなどの雑草は、アリの巣の周辺に限り繁茂するというが、その理由がこれである。アリの存在により、通常とは異なる植物群落が形成され、ひいてはその場所の景観さえ変えてしまう。生態系において、彼らの存在は非常に強い影響力を持っているのだ。

タチツボスミレのタネを運ぶアズマオオズアリ。エライオソームの部分をくわえて運ぶ。
 

 とにもかくにも、それだけ強くて恐ろしく、影響力も強いアリ達に対して、弱小な生き物達のとるべき策は何だろうか。徹底して敵対するのも手だが、逆に懐に潜り込み、懐柔するというやり方もある。後者を選べば、自分はアリに攻撃されないうえ、その防衛力の傘の内に庇護して貰えるため、一石二鳥といえよう。そんな懐柔策の一つが、賄賂である。誰もが知っているように、アリは糖分を含む甘い液体には目がない。なので、甘い餌を使ってアリの機嫌をとるのだ。
 このやり口を使う生物として有名なのは、アブラムシであろう。アブラムシは、集団で植物に取り付いては針状の口吻を茎に刺し、師管液を吸い上げる。この液体には、アブラムシにとって生命維持に必要な栄養素が含まれるのだが、その濃度はべらぼうに薄いという欠点がある。ほぼ水と糖分ばかりな代物ゆえ、彼らは大量に師管液を吸っては幾ばくかの栄養素を体内でこしとり、残りの砂糖水(甘露)を果てしなく排泄し続けねばならない。だから、アブラムシの大群にとりつかれた野菜はみるみるしなびて元気を無くし、家庭菜園に命を懸ける張り切りお父さんが怒りに血相を変えて、ホームセンターの園芸コーナーに駆け込むわけである。
 このように、アブラムシにとって本来はただの排泄物でしかなかった甘露だが、これがアリにとってはまたとない馳走となった。摂取してすぐにエネルギーとして燃やせる糖分は、働き者のアリには欠かせない。いわば、アブラムシの排泄物は彼らにとって格好のスポーツドリンクと言っていい。そのため、アリはアブラムシの群れている植物上に好んで集まり、その排泄物を舐める。アリは、テントウムシのようなアブラムシを食う天敵が来ると、徒党を組んでこれを追い出す。よって、理科の教科書などでアリとアブラムシの関係は、片方は餌が貰えてもう片方は天敵から守ってもらえるという、持ちつ持たれつの「共生」の例として高頻度で紹介されている。教科書的には、共生(相利共生)というのは「双方が互いに利益を享受しつつ関わり合うこと」とされ、逆に「どちらか片方が一方的に利益を搾取し、もう片方には利益がないか、むしろ害をこうむる関係」の事を片利共生とか寄生と呼ぶように書かれていることが多い。こういう文面を見ると、寄生というのは実に悪辣で、共生こそ美しい生き物同士の関係であるように思えてくる。そして、しばしばこういう複数種からなる生き物同士の「助け合い」の例を引き合いに出して、「種の異なる動物達でさえ健気に助け合ってこの地球に生きているのに、愚かな人間たちはなぜ同じ種族間で互いに戦争を云々……」のような論説を「人間の社会の在り方」の話にまで持ち出す輩が出てくるのである。

オニグルミクチナガオオアブラムシの排泄物を求めて集まるトビイロケアリ。
 

 しかし、異なる種の生き物が「共生」している状態というのは、実際には人間の世界でいう「互いに思い合い愛し合う、仲良しこよしの関係」ではない。「共生」している生き物は、互いに相対する生き物の生き死になど、実際はどうとも思っていない。互いに醜く意地汚く、相手を利用し倒そうとし合い、しかし結果として両者の搾取の程度がたまたま拮抗している状態が、傍からは仲良く「共生」しているように見えているにすぎないのだ。上のアブラムシとアリの関係で見るならば、アブラムシは実際には本当にアリの機嫌を取る意図があって甘露を出しているのではない。ただ、その食性と体の仕組み上、果てしなく砂糖水を出し続けざるを得ないから出しているだけだ。また、糖分の多いアブラムシの排泄物はすぐ腐ってカビるので、垂れ流し続けているとこれが自分たちの体にどんどんまとわりつき、やがて伝染病の温床になりかねない。でも、そうなる前にアリがどこかから勝手に嗅ぎつけて来て、それを綺麗に片づけてくれる。そのため、結果としてアブラムシは病気にもならず、また天敵からも守って貰えている。たまたま自分たちにとって生存に有利な働きをアリがしているから、拒否する理由もないのでそのなすがままを許しているだけのこと。アリの側にしても、もともと彼らは永続的な餌場を仲間内で独占し、そこに寄りつく他の生物を撃退する習性がある。アリはアブラムシの群れを機械的に餌場と認識して、他の生物を寄せ付けたくないだけであって、「テントウムシに食い殺されるアブラムシさん可哀想」などの義憤に駆られて、善意でアブラムシの用心棒を買って出ている訳ではない。でも、その行為が結果としてアブラムシを保護することにつながり、アリはその甘露に長らくありつけるわけである。すべてが、互いに自分の事だけ考えて行動している結果であり、それでたまたま互いの生存に有利な状況が生まれているだけのこと。もし、この先何らかの理由で双方の搾取の釣り合いが崩れたら、すぐさま一方的に搾取するものとされるものの間柄に早変わりするのである。例えば、アリの立場からすれば守ったアブラムシから貰える報酬の量は、アブラムシを守ってやるのにかかった労力分を十分に補って余りあるべきである。だから、アブラムシがアリに守られた結果過剰に数を増やしすぎると、アリは保護の手が回らなくなるため、自らの手でアブラムシを殺して食べてしまうようになる。一種の間引きである。管理しきれないほどたくさんいるアブラムシの群れの中を奔走して、甘露を受け取る暇もなく敵を追い払い続けるくらいなら、いっそアブラムシそのものを潰して肉にしてしまったほうが、アリにとってはずっと得る物が多いに違いない。
 こうした穿ったものの見方で、いろんな生き物同士の「共生」の関係を見直していくと、実は世間で「共生」と呼ばれているのは寄生以上に悪辣で冷酷極まる緊張関係であることが分かってくる。一昔前に流行った、「本当は怖いグリム童話」にも似た、ダークでインモラルな面白さが隠されているのに気づくだろう。

ヤノクチナガオオアブラムシを集団で襲うフシボソクサアリ。このアブラムシはアリと緊密な関係を持つが、夏期にしばしばそのアリに殺される。アリがどういうきっかけで、それまで保護していたはずの対象を次の瞬間殺し始めるのか、よく分からない。
 

アリというのは元を正せば、進化の過程でハチから分かれた分類群であって(何のハチの仲間から分かれたかは諸説あり)、言わば地下空隙での生活に特殊化して飛翔能力を失ったハチのようなものだ。だから、アリがハチのように毒針を持つ事は何ら不思議ではない。世界に1万種ほど知られるアリのうち、系統的にかなり新しい一部の仲間(ヤマアリ亜科、カタアリ亜科)を除き、基本的に全てのアリが毒針を持つ。我々の住む日本の庭先や道端には、毒針を持った物騒な生き物がうようようろついているのだ。ただ、その大半の種においては、人間に対しては用をなさない貧弱な毒針しか持っていないというだけの話である。
 かねてからの報道の通り、ごく最近日本国内に侵入して騒ぎになっているヒアリ(ファイヤーアント)は、強力な毒針で人間に危害を加える、油断ならない種である。大抵の毒針を持つアリ種において、その毒成分は主にタンパク毒と言われているようだが、ヒアリの場合その毒成分はアルカロイドという、自然界では主に植物が持つものとなっている。動物で体内にアルカロイドを持ち、なおかつそれを武器として使うものはあまり多くはない。ヒアリはこの毒針を使って外敵を刺し、毒を注入するわけだが、時にそれとは違う使い方もする。主に他種のアリたちと抗争する際、彼らは逆立ちするように尻を高く上げ、毒針を突き出してその先端に毒の滴を溜める。そして、その毒液を相手になすりつけるのだ。この戦法はヒアリが属する、フタフシアリ亜科のアリ類でしばしば見られる。私も海外でその様を見たことがあるが、まるで毒を塗った剣を振りかざす小さきナイトのようだった。

さて、かれこれ一年半近く続いてきた本連載だが、今回をもって一区切りとしたい。家の裏山から世界の果てまでかけめぐり、出会った生き物たちとの物語。その続きは、また別の機会にでも披露することにしよう。
 
(編集部より)長らくのご愛読ありがとうございました。小松さんの連載は来春、単行本として刊行予定です!