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村井さんちの生活

 運動会の季節になった。最近は、春に開催する地域もあるようだが、私の息子達が通う小学校では、開催は夏休み明けの初秋である。まだ残暑厳しい九月後半の週末、ほぼ一日かけて行われるこの行事、実は、私はとても苦手だ。運動が苦手だから、一日拘束されるのが嫌だからというよりは、子どもたちが様々な競技に打ち込み、そして親たちが応援するその姿を見ると、どうにもこうにも(感情的に)疲れてしまうし、自分の居場所を見つけることができず、そわそわするからだ。

 昔からそうだった。私は、周囲から見たらどうでもいいことで一人感動し、感動すべき場面ではどうしても素直になれず、知らんぷりすることが多かった。そのたびに、親や教師に叱られたものだった。なぜみんなと一緒にできないのか、どうして一緒に感動できないのか。きっと、可愛げのない子どもだったのだと思う。その可愛げのない子どもは可愛げのないまま成長し、立派な中年になっても、やっぱり感動的なシーンからは逃げ続けていた。応援合戦なんか見た日には、寝込む勢いだ(年末の紅白歌合戦も直視できない)。しかし、去年あたりから徐々に様子が違ってきた。

 去年の運動会で、一年生の徒競走を見た時だ。小さな体で一生懸命走っていた男の子が転び、泣き出した。ひざをすりむき、顔をくしゃくしゃにして泣くその子は、それでも立ち上がり、必死にゴールを目指して走り出した。それを見た瞬間、心臓をぎゅっとつかまれたような気持ちになった。感情を抑えきれない。がんばれ! もう少し! ほら、あとちょっと! 気づいたら号泣だ。我に返り、はっとして、一緒に見ていたママ友の顔を盗み見ると、全員号泣状態だった。両手を握りしめ、うんうんと頷き、その男の子がゴールした後は、両手がちぎれんばかりの拍手。よかった、ああよかった! よかったね、うんうん!(互いの二の腕をバシバシ) なんだかよくわからないけれど、私も必死に拍手していた…目をうるうるさせながら。この日を境に、とうとう私も、うるうるの曲がり角を曲がってしまったらしい。

 この私の大きな変化には(少なくとも自分にとっては大きな変化には)、長男がある程度関わっていると思っている。次男に比べ、長男はとても大人しく、真面目なタイプだ。地道に努力を重ねる人で、何かやると決めたら最後までやり通す強さがある。例えば、数年前から長男は、木や紙を使った工作に没頭するようになり、一人静かにじっくりと取り組むようになった。全く集中力のない私は、そんな長男の姿を見ると一体誰に似たのかと不思議な気持ちになる。そのうち長男は、長い時間をかけてしっかりとした作品を作るようになっていった。とても細かい作業だ。色も丁寧に塗る。こんな長男の姿を見るたびに、感情があふれてしまうようになって、一人コソコソと涙していた。ひたむきさに心打たれるようになったのだ。

 そして、最近の長男が筋トレに励むようになったのは、数ヶ月前に書いた通りだ。毎日欠かさず、地道にトレーニングを続けている。一体なぜ筋トレなのかと聞くと、「強くなりたいから」。わからないでもないけれども、なぜまた突然に…と、思っていた。しばらくしたら飽きるだろうとも考えていた。お調子者の次男に「なんで筋トレやねん、モテたいんか!」と揶揄されても相手にせず、彼は黙々と、腹筋、背筋、腕立て伏せに没頭する。顔を真っ赤にして、孤独にトレーニングを続けるのだ。最近では、iPadでトレーニングビデオを見つつ、お気に入りの音楽を流し、慣れた様子で一時間ほどワークアウト。終了するとシャワーを浴び、着替え、何ごともなかったかのように座っていたりする。地道に、こつこつと。彼にはこんな言葉がとても似合う。

 そんな長男の姿を目の当たりにするようになって、次男も変わりはじめた。俺もトレーニングをすると言い出したのだ。さすがお調子者だ、あっという間に影響を受けて、長男の様子を盗み見ては運動をしはじめ、「俺の方が体は大きいな…」とか言うようになってきている(ハイハイ)。私自身も、毎日わずかであっても努力を重ねることは大事だと、キッチンシンクに積み上げられた皿を見て考えたりする。夫は、長男が欲しいと言えば、どんなトレーニング用品でも、二つ返事で購入するようになった。「すごいな、体が大きくなってきたぞ」、「このまま続ければ、強くなれるぞ」と、長男に声をかけている姿を見かけるようにもなった。先日はビールを飲みつつ、「本当によくがんばってるよな…」と、ぽつりと言っていた。

 子どもが何かに取り組む姿は、それが何であってもやはり心打つものがある。無垢な子どもたちの姿を見て涙するようになったのは、きっと、彼らのまっすぐな姿を見て単に感動するだけではなく、あの頃の自分を重ねてしまうからだろうと思う。私もあの頃、一生懸命、校庭を走っていたはずだ。長男のように、なにかに夢中になって、時間を忘れるような毎日を送っていたはずだ。夕日が差し込む六畳間で、扇風機のゆるやかな風に当たりながら、大好きな本やマンガを読んでいた日々のことが思い出される。憂鬱な気持ちで運動会に参加していた幼き日の自分を、はっきりと記憶している。そして同時に、私の周りにいてくれた大人たちの姿を思い返している。父も母も、今の私が子どもの姿を見て抱くような気持ちを、私に対して抱いてくれていたのだろうか。

 今年の運動会は、去年よりも素直な気持ちで子どもたちを応援できるのではないだろうか。とりあえず、ハンドタオル一枚とサングラスを持って行こうと思っている。

 

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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