天心の精神――さらにいえば、その霊性を――考えるとき、現代に生きる私たちは、彼が考えた「美術」の深みを幾度踏みしめ、感じ直しても徒労に終わることはないだろう。それほどまでに現代は、この言葉に潜む生気を認識するのが難しくなっている。それは今日でいう「芸術」よりも「心術」「仁術」に近いものだった。
 「美術」は、どの国においても、「文化におけるもっとも高貴な」表現であり、東洋、日本においても変わらない。それゆえに東洋の場合は、儒学の哲理、仏教の霊性、幾多の国旗に表現されてきた、多様な国民性と政治のありよう、さまざまな国々の愛国の思想のなかに生まれた詩歌、英雄的人物の境涯、さらには民衆の慟哭、ならびにその哄笑の奥にあるものも一つ一つ見定めていく必要がある。「美術」は、万学を包含する、それが天心の美術観だった。
 西洋近代が提唱する学問は、人間の生活を細分化し、解析する。「美術」は逆の道を行く。それを統合し、一なるつながりを回復させようとする。そのひとすじの道へと続く扉を開けること、それが『東洋の理想』のペンを執った天心の思いだった。だが、執筆を本格的に進めようという段になって天心は、迷いと戸惑いのなかにいると告白する。これから「私は、その美術理想を理解可能なように述べ始めようとするにあたって茫然とし、逡巡する」と述べたあと、こう続けている。

なぜなら美術は因陀羅網のごとく、その一つ一つの宝珠が全宝珠を反映しているものであるからである。それはたえず成長を続け、年代学者のメスを受け付けない。(筆者訳)

 「因陀羅網のごとく」とは、帝釈天のすみかにあるとされる網で、そこには無数の宝珠があり、それは万物が有機的につながっていることの象徴である。美もまた、あらゆるものとつながっている。むしろ、つながりそのものが美の淵源となっている。そればかりか、美の歴史は生きていて、不断の変化を続けている。美の真実が語られようとするとき、美は区分され、解析されることを強く拒む、というのである。
 同質のことは地理的な領域にひろげて考えることもできる。むしろ、それが急務だった。この本が刊行された翌年、日露戦争が始まる。『東洋の理想』は、新しき美の理想を説く本であると同時に、美による平和論でもあった。
 今、日本において開花した美を語ることは、その淵源となったインド、中国、韓国を経た変遷を語ろうとすることにほかならない。「(日本に至る東洋の美術の)発展のある一段階を論じることは、その過去と現在とを通じる無限の原因と結果を扱うことを意味する」とも述べている。天心における「日本」はいつも、東洋の内なる日本であって、今日のような一国史的な視座がない。このこともまた、現代においてこの本を読む私たちは、繰り返し確かめてよい。
 東洋的霊性の根底を流れるものは詩である、と天心はいう。それは個々の民衆のこころをつなぎ止めていただけでなく、(まつりごと)の領域にまで達していたことに天心は注目する。

詩歌も、同様にして、政治的調和に導く一つの手段と見なされた。君主の職分は、命令することではなくて暗示することであり、臣民の狙いは、抗議することではなくてほのめかすことであって、詩歌はこのすべての媒介として認められていたものであった。(『東洋の理想』富原芳彰訳)

 ここで述べられていることが事実なのは、『詩経』時代の中国から明治期の日本を見れば一目瞭然だろう。詩歌の果たしてきた役割がいかに巨大なものだったかは『万葉集』『古今和歌集』から天皇にまつわる歌を消したらどうなるかを考えただけでも容易に想像が付く。
 知性を働かせ、自らの思考を言語によって語り、相手に伝えようとする。明示することが優れていることと同義となる。それが近代化の常識だった。しかし、東洋の古代は別な道を通じて人と人の心を結ぼうとした。そこでもっとも雄弁なものは言語ではなく暗示であり、さらには沈黙であると天心はいう。彼は、表現における主客の逆転を促した。いわゆるコペルニクス的転換を起こそうとしたのである。
 ここでの「詩歌」は主に漢詩や和歌を指すが、あらゆる詩歌は、容易に語り得ないことをどうにか世に顕わそうとする挑みだともいえるだろう。想念は、語られるよりも、語らないことによって、人と人のあいだを確かに行き来する。そうした言葉の秘義を東洋は経験的に知り、それを政治の現場においても実行していた。政治だけではない。沈黙の雄弁は東洋の芸術全般を貫く公理だと天心は考えた。
 ある事象を言語によって言明すること、私たちはそれを「定義」と呼ぶ。この本で天心は、定義には大きな罠があると警鐘をならす。美の化身はしばしば定義され得ないものとして世に顕われるからである。「定義は制限である」と述べたあと天心は次のように続けている。

一片の雲、一輪の花の美しさは、それが無意識のうちにひろがり開いて行くところにあり、そして各時代の傑作の沈黙の雄弁は、必然的に半真理たらざるを得ないもののいかなる概要よりも、よりよくみずからの物語を語るにちがいない。わたしの貧しい試みは、単に一つの指示にすぎず、叙述ではない。(『東洋の理想』富原芳彰訳)

 ある時代の美を語るとは、そこに至るまで積み重なってきた、すべての時間の「沈黙」にふれようとするに等しい。雲を語るとはそれを在らしめている空を語ることであり、花を愛でるとはそれを生かしている大地を愛しむことにほかならない。この公理は絵画や彫刻といった美術の業に接するときも変わらない。
 これまでも、天心が弟子たちに風景ではなく空気を描けと語っていたことにふれた。同質のことは仏像、仏画にいえる。菩薩や阿弥陀の姿を彫り、描くことで表現されなくてはならないのは、菩薩の麗しい姿であるよりもその悲願で、阿弥陀であればそこから発せられる不可視な光になる。仏の姿を浮かびあがらせ、語り得ない霊性を表現する。そのとき絵は初めて本当の意味での「仏像」「仏画」になる。
 日本古代の美術、中国における儒教、道教、仏教の変遷を語ったのち、天心が語り始めたのは、一八八四(明治一七)年、フェノロサと共に赴いた法隆寺の秘仏である救世観音をはじめとした飛鳥仏にひそむ美の秘義だった。