内戦前、カシオン山から一望したシリアの首都、ダマスカス
 

 時折見つめ返す一枚の写真がある。闇夜に浮かび上がる街が、まるで宝石をちりばめたように輝いている。初めて見る人はともすると、日本の都市部の夜景と見間違うかもしれない。その写真は2009年、シリアの首都ダマスカスを山から一望しながらシャッターを切った一枚だ。最初から“戦地”と呼ばれていた国ではなかった。そして最初から“難民”と呼ばれていた人々もいなかった。思わず吸い込まれそうになる写真ごしの街を眺めながら、いつもそう、思い返す。「最初は“難民”と呼ばれることがたまらなく嫌だったんだ。何だか見下されている気がして」。シリアから隣国に逃れてきたある少年の言葉が同時に思い出される。

 先日麻生副総理が講演中に北朝鮮から避難者が日本を目指してくる可能性に触れ、「武装難民かもしれない。警察で対応するのか。自衛隊、防衛出動か。射殺ですか」と発言したことが物議をかもした。中東を取材する中で、確かに武装勢力が難民に紛れてくる可能性があることは目の当たりにしてきている。ただし武装し、相手を攻撃する意思のある人々はそもそも難民ではないはずだ。仮に武器を所持していたとしても、熾烈な環境から逃れる過程で自衛のために携行することは十分に考えられる。それは保護される先で放棄してもらうなどで対応できる。「武装」と「難民」を混同して使うことで、誤解や偏見は広がっても、理解が深まることはないのではないだろうか。

 一つの言葉にとらわれ過ぎだ、という見方はあるかもしれない。けれども言葉の定義そのものよりも、なぜその言葉が使われてしまったのかに目を向けたいと思う。逃れてくる人々を“リスク”としてとらえる言葉ばかりが目立ち、本当に庇護を求めてくる人々と向き合うための議論が深まっていない、そんな背景がこの言葉になかっただろうか。

 先日訪れたドイツでは、難民排斥を訴える党が大きく支持を伸ばしたものの、一方で共存の道を見つけつつある街もある。単身ドイツに渡ったシリア人の友人は、2カ月前にようやく家族の呼び寄せが叶った。その際に空港まで迎えの車を2台走らせてくれたのは、近所のドイツ人たちだったという。「難民の受け入れに反対する声とも私たちは向き合っていかなければなりません。しかしその一方で、受け入れを支持する市民たちが自主的な活動を続けてきてくれたのもまた事実なのです」。少なくとも人々が何かしらの意思を示し続けていることに、希望が残されている、と彼は穏やかに語ってくれた。

 ここで難民受け入れにYESか、NOか、という単純な結論を出したいとは思わない。ただなぜ彼らが逃れてくるのか、その背後にある迫害や戦闘、その熾烈な現状を見つめた上での議論がどれほど尽くされてきただろうか。それがシリアから、そしてドイツから投げかけられた、大きな宿題だった。

イラク北部の街、シンジャル。戦闘後、人の気配が消え去ったこの街に、かつてどんな日常が存在していたのだろうか。