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石内都と、写真の旅へ

2017年12月12日 石内都と、写真の旅へ

横浜篇――建物、人間の忘れ物 その4

著者: 与那原恵

 もとは横浜村の畑地であった居留地は、多くの外国商人の進出により、整備されていった。居留地の外国人は、安価な借地料で土地を借りることができ、期限が定められていない「永代借地権」が保障された。やがて居留地内には日本人大工の手による「擬洋風建築」と呼ばれる瀟洒な洋館が建ち並んでいったが、外国人は建物に課せられる家屋税も免除された。

 だが、一九二三年(大正十二)の関東大震災が横浜市に大打撃を与える。市の中心部の建物は約二割が倒壊し、約六割が焼失してしまうという大惨事に見舞われ、居留地の建物も損壊した。ほどなく復興計画を立案した市当局は、市内で二十一万坪を超えていたという永代借地の整理をはかり、外国人の特権であった永代借地権を買収、その土地を順次民間に売却していく。

 横浜市の復興計画で重視されたのが、震災に強い集合住宅建設だった。同潤会の平沼町アパートと山下町アパートが一九二七年(昭和二)に竣工。また外国人向けアパートとして、三〇年(昭和五)に鉄筋コンクリート造四階建ての「横浜外人アパートメント」(山下町。川崎鉄三設計。のちにインペリアルビルと改称)、三八年(昭和十三)に「ヘルムハウス」(山下町。チェコ人建築家ヤン・ヨセフ・スワガー設計)が完成する。旧居留地の風景が大きく変わりつつあるなか、日本人向け高級アパートとして、三二年(昭和七)に建てられたのが互楽荘だった。

 互楽荘を建てたのは、東京・日本橋の金巾(綿布)問屋「宮崎商店」の経営者、宮崎庄太郎だ。彼はふるくから繊維産業のネットワークを築いてきた近江の出身で、大震災以前から山下町二十四番地に横浜支店を構えていたという。この地番には、一八九三年(明治二十六)よりドイツ系雑貨商社「マイヤー商会」があったので、宮崎商店横浜支店はマイヤー商会の建物の一室にあったと考えられる。

 そして大震災後に横浜市が進めた永代借地権の整理により、宮崎が二十四番地の土地四百五十坪を買い取ることになった。このとき宮崎は市の助成金を得ているが、その条件が耐震建築の集合住宅建設だったのだ。宮崎は一人娘の愛子に資産を残しておこうと考え、高級アパート経営に乗り出した。市の全面的な支援があったことは、「互楽荘」の名称と、「互」の文字をデザイン化したシンボルマークが市民の公募によって決定したことからもわかる。互楽荘起工式の際にはホテルニューグランド(一九二七年開業)で華やかなパーティーが行われた。

 延べ建坪九百三十坪の鉄筋コンクリート造アパートを設計した山田寅男は、耐火構造建築についての著作もある建築家であり、当時の最新技術を駆使した建物を完成させた。外観は水平のラインが際立つデザインが特徴的で、各階ベランダには緑が植えこまれていた。その内部は、温水式の暖房を完備した住居六十五戸(二室四十九・一室十六)で、室内は和風だった。また一階には貸事務所八室のほか、居住者用の食堂や娯楽室、洗濯場があり、中庭には共同浴場が備えられていた。家賃は、当時の平均月収に相当し、居住者の大半は高給取りの貿易商社社員などだったといわれる。山本禾口著『横浜百景』(一九三四年)で「山下町に明朗な姿を浮かべる互楽荘」と紹介された新名所だった。

 だが、華やかな互楽荘の時代は戦争とともに終わりを告げる。戦中、互楽荘は日本海軍に接収されてしまうのだ。また一九四五年(昭和二十)五月二十九日、米軍による「横浜大空襲」は、市内に甚大な被害を与え、死者は八千人から一万人におよんだが、互楽荘は消火設備が万全であったこともあり、ほぼ完全な形で残った。

 戦中から米軍は、日本が降伏しない場合に備えた関東地方への上陸侵攻作戦(コロネット作戦)と、降伏を想定した進駐作戦(ブラックリスト作戦)を立案していたが、一九四五年八月十五日に終戦を迎え、後者の作戦が実行されることになる。八月二十八日、連合国軍(GHQ)先遣隊が厚木飛行場に到着、その二日後に同軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが同飛行場に降り立ち、ホテルニューグランドに向かった。

 GHQは八月二十九日から、旧日本軍施設、官公庁、ホテルなどの民間施設、また住宅などをつぎつぎと接収していく。横浜市においては、百七十七におよぶ地区・建物が接収され、米軍施設となった(参照、横浜市史資料室『占領軍のいた街』二〇一四年)。

 石内が語る。

 「互楽荘の撮影をはじめて間もなく、ここが終戦直後の一九四五年九月三日、RAA(特殊慰安施設協会。同年八月二十六日設立)が指定した占領軍兵士のための『慰安所』になったことを知ったのよ。主にアメリカ軍兵士から日本の婦女子の操を守る『性の防波堤』とするべく設置された施設。神奈川県で初の慰安所となったのが、互楽荘だった。その事実に衝撃を受けた。互楽荘には戦後の傷を負った女たちがいて、その時代の一瞬の影が建物に内包されていたのね。私が互楽荘に感じた影の濃さは、そういうことだったのかと納得した」

石内都「yokohama 互楽荘#40」 ©️Ishiuchi Miyako

 
 RAAとは何か。

 日本の警視庁首脳部は、占領軍兵士の性対策について、終戦翌日から検討を始め、慰安施設の設置を企図した。八月十八日、内務省警保局長名による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」が、各府県長官に無電通報される。これを受けて、警察と遊郭経営などにかかわってきた業者が連携し、各地にRAAが設立された。八月二十七日には東京・大森海岸の料亭が占領軍兵士用の慰安所第一号に指定され、神奈川県では横浜や横須賀など、ほかに静岡県内の熱海などの旧来の保養地、また関西、中国、東北地域にも設置されていく。

 横浜市の慰安所設置は、警察の主導だったことが『神奈川県警察史 下巻』(一九七四年)にも記述されている。当初、慰安所を明治期からの遊郭街に設置する準備を進めたものの、建物の大半が戦災により焼失していたため、つぎに検討されたのが「バンドホテル」(新山下。一九二九年創業)だが、ここはすでにGHQ士官宿舎として接収されており、代わって互楽荘が選定されたのだった。ちなみに、互楽荘と同時期に建てられた外国人向け高級アパートのインペリアルビルやヘルムハウスも終戦翌月に接収、米兵住宅として使用されることになる。

 神奈川県警保安課が互楽荘を慰安所にすると決定したのは、終戦十日後の八月二十五日。すぐに業者と連携して「接客婦」が集められた。真金町や曙町で働いていた娼妓だけでは足りず、帰省や疎開していた「経験者の婦人」にも声をかけるため、地方にも出向いたという。

 警察や業者は、彼女たちに対して、一般女性を保護するための「性の防波堤」となる役割を強調して説得した。そこには「国体護持」、また、これからの日米関係の形成など、政治目的があったのはたしかだ。警察に慰安所で働くことを説得された女性たちが、これを拒むことはできなかっただろう。こうして占領軍と日本政府の両者によって、慰安所設置という売買春政策が進められていったのだ。

 約八十人の女性が互楽荘に集められ、九月三日に慰安所が開設する。多数の米兵がここに殺到したといい、米兵による暴力事件、発砲事件も起きたといわれる。しかし、互楽荘の慰安所はわずか一週間で閉鎖された。米兵による事件がその理由ではなく、互楽荘を米軍文官宿舎として使うことが決定したためだ。接収が解除されるのは、じつに一九五六年(昭和三十一)十月である。

 石内はこう話す。

 「互楽荘の歴史を知って、私がここを撮ったのは偶然ではなく、必然的なものだったと思った。互楽荘で私が最初に感じた『影』は、目には見えない何か、だった。その感覚は、私が横須賀という米軍基地と赤線の街で育ったことが大きく影響している。横須賀は、私にとって避けて通りたいものばかりだったけれど、カメラを向けることで横須賀を客観的に見ることができたし、この街に抱いていた複雑な思いを写真がうまく表現してくれた。互楽荘にも横須賀と共通する戦後の歴史があり、私がこの建物を目にしたとき何かが引っかかったのは、そのためだったのね。引っかかりというのは、目には見えないものだけれど、それがなければ私は写真を撮ることができない。私にとって写真とはそういうもの。そしてカメラは、気づかないうちに自分の眼を離れて、古い建物という表面だけではない、この建物に染み込んだ人間の匂いもとらえていたのよ」

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

与那原恵

ノンフィクション作家。1958年東京都生まれ。『まれびとたちの沖縄』『美麗島まで 沖縄、台湾 家族をめぐる物語』など著書多数。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で河合隼雄学芸賞、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞(文化貢献部門)受賞。

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