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左から第16回新潮ドキュメント賞受賞の『子どもたちの階級闘争』、國分さんとブレイディさん、そして猪熊弘子さんの共著『保育園を呼ぶ声が聞こえる』、第16回小林秀雄賞を受賞した『中動態の世界』。
 

國分    そういえば、これまで聞いたことがありませんでしたが、ブレイディさんの書き手としてのバックグラウンドはどこにあるんでしょう? 実は以前から、ブレイディさんの文章がどこから来たのか気になっていて。いい機会だからぜひお聞きしたい。もともとはどんな作家が好きだったんですか?

ブレイディ いちばん読書をしたのは高校生の時なんですよ。通っていたのは地元の福岡では一応進学校と呼ばれるところだったんですが、ちょっと変な学校で。そこで私は反抗的な生徒だったから、先生たちからも疎ましがられて「お前はもう授業に出なくていい。図書室で本を読んでいなさい」と言う先生もいて。じゃあその通りにしてやろうと思って、ずっと図書室でさぼってました。この高校はもともと江戸時代には藩校で、OBには玄洋社(明治時代に結成された、アジア主義を掲げる政治団体)の関係者が多かった。それで、高校にしては広いその図書室の一角に、玄洋社関係の書き手の本をまとめた書棚があったんです。
 それで、私はまず夢野久作の本から読み始めました。久作の父親は玄洋社の中心メンバーだった杉山茂丸で、玄洋社の人たちの破天荒な生き様を描いた『近世快人伝』がものすごく面白かった。そこから入り、中野正剛や、花田清輝あたりまで広がって行く郷土色の強いコレクションだったんですが、片っ端から全部読んでいきました。大杉栄の本も、パートナーの伊藤野枝の叔父が玄洋社の関係者なので、この棚に入っていました。玄洋社って、いまでこそ右翼の元祖みたいに言われていますけど、私はアナキストっぽいなと思ってました。高校時代の私にとっては、セックス・ピストルズと同等にカッコいい存在だった。だから、きっと当時の読書経験が基盤になっているんでしょうね。右と左ではない、上と下だ、というのも、なんか玄洋社っぽい気もするし。

國分    なるほど、これは大変貴重なお話を伺いました。ブレイディさんはアナキストになるのに最高の教育環境にいらしたわけですね(笑)。その後、渡英され、自らも文章を書くようになった、と。
 僕はブレイディさんが生み出した「地べた」という言葉が流行語大賞にノミネートされてほしいぐらいなんですが、これはご自身が培ってきた教養と、現地での体験の両方が揃って初めて辿り着くことができた概念だと思います。

ブレイディ でも、私の読書経験は割と高校時代で止まっているから、正直言って教養は全然ないです。もう、すべていい加減な直感で物事を捉えて喋っているので。ふと何かを思いついて話したら、國分さんから「あ、それは誰それが言ってたんですよ」と指摘され、私のオリジナルじゃなかったのかってガッカリしたりするんですけど(笑)。

國分    まぁ、「誰それがこう言ってて云々」という話は僕の担当だから(笑)。でも、とにかくブレイディさんと僕には、様々に共鳴するところがあって、それが本当に嬉しいし、心強いんです。先ほども出た薔薇、それが象徴する尊厳、そして自由、これが僕らのトレードマークですよね。尊厳とか自由って、今となっては古臭く、青臭く思われるかも知れない。でも、ブレイディさんとお話をしていると、いつも根底にこの言葉が、そして薔薇があることを感じます。
 たとえば、『子どもたちの階級闘争』のあとがきにこんなすばらしく破天荒であり、且つ感動的な一節がありますね。
〈あなたたちはダメなのよ、屑なのよ、どうしようもないのよ、とわたしは思うのよ。の、その先にあるもの。についてあのときわたしはずっと考えていた。思えばわたしはずっとそれを言葉にしようとしていたのかもしれない。〉
 句読点の使い方がすごい。実際に本を開いて読んでいただかないとこの文のすごさは分からないでしょう。新しい日本語の創造じゃないかと思う。
 で、〈その先にあるもの〉として、ブレイディさんはこう続けているんですね。
〈それは、アナキズムと呼ばれる尊厳のことだった。アナキズムこそが尊厳だったのである。欧米では尊厳は薔薇の花に喩えられるが、あのアナキズムは理想の国に咲く美しい花でも、温室から出したら干からびて枯れてしまうようなひ弱な花でもない。それは地べたの泥水をじくじく吸い、太陽の光など浴びることがなくとも、もっとも劣悪な土壌の中でも、不敵にぼってりと咲き続ける薔薇だ。〉
 ちなみに僕は以前、『暇と退屈の倫理学』のなかでこのように書きました。
〈人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。〉

ブレイディ やっぱり最後には尊厳や自由が大事になってくると思うんです。なので、言ってみれば、どちらも同じ締め方ですよね。

國分    そうですね。中動態の話をしていても、僕が最終的にどうしたって気になってしまうのは自由のことなんです。自由の話をしないで本を終えることはできないし、今回もそのためにスピノザについて論じる必要があった。ここが『中動態の世界』の中でもっとも苦労したところで、その章を書き上げるのに10ヶ月くらいかかったんですけどね。
 いま、みんな「自由」って言わなくなったと思いませんか。僕が高校生の頃までは、大人だって「もっと自由を」と中二病的に言っていた。社会のあちこちに「自由」という言葉があふれていた。「自由とは何か?」と深くは考えていなかったかもしれないけれども、とにかくこの言葉を口にしていた。でも、最近では「新自由主義」という形でしか聞かなくなってしまいました。
 だからというわけじゃないんですけど、うちの娘が以前、学校の図工の時間に、好きな言葉を一つ選んでそれをウォールポケットに刺繍するという課題をやっていたんですけど、娘は「自由」って言葉を選んでいて、それを見た時につい感動しちゃって(笑)。でも、その時も思ったんです。子どもが自由って言葉を使わなくなったよなぁって。
 ブレイディさんの言葉では「アナキズムという尊厳」になりますが、尊厳や自由がいま脅かされている。昔のマルクス主義者は、人は味わったことがないものを欲することはできない、だから、欲すべきものを意識に注入しなければならないと考えていましたが、今の日本人は、まさしく自由を味わったことがないから自由を欲することができない、という状況に追いやられているんじゃないでしょうか。

ブレイディ それは難しい問題ですね。子どもの時は割と自由だと思うんですけど。

國分    それが、日本では違うんですよ。最近の子どもは、あまり暇にしていちゃいけないと大人から注意されるらしいです。子どもなんて暇が仕事みたいなものなのに。そもそも保育士さんの仕事というのは、子どもが暇の中で楽しく遊んでいるのを危なくないよう見守っていてあげる、ということでしょう。

ブレイディ そうそう。イギリスの場合は遊びが教育ですからね。逆に言えば、教育も遊びから始まる。遊べない子どもは学習もできないって言いますからね。

國分    本当にそう思います。僕なんかはある意味で勉強が仕事みたいなものだから、よく思うんだけど、遊べない人間は決まって勉強ができないんですよね。なので、とにかく遊ぼうぜ、と声高に訴えておきたい。小さいうちから忙しく塾に通わされたりする不自由さが、結局、大人の世界にまで悪影響を及ぼしている気がするんです。
 ですから、今後の課題は多いんですけれども、まずは楽しもうぜ、そして尊厳と自由を求めようぜ、というところで話を締めくくらせていただきます。ありがとうございました。

書籍紹介

 

中動態の世界 意志と責任の考古学

國分功一郎/著

2017/3/27発売

(2017年10月4日、神楽坂la kaguにて)