シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

岩松了ロングインタビュー(聞き手・柴田元幸)

前回の記事へ

東日本大震災から6年が経って

柴田 今回の『少女ミウ』と『薄い桃色のかたまり』は、なんといっても福島が題材になっているということで、岩松さんとして覚悟もおありだったと思います。

岩松 福島ということは、ネタにすぎないとメディアの取材では言ったりするんですが、マスコミ的にはそれはあまり望ましい答えではないなと。

柴田 福島、つまり被災地をテーマとして扱っているから重要なんだというのではなくて、そのこと自体がポイントではないところに達しているから重要なんだと僕自身は思いましたが、それを伝えるには、複数の回路が必要ですよね? 一言でそれだけでは通らない。

岩松 そうなんですよ。ただ、福島の問題でひとつ、これは言えると思ったのは、順操りに世代が移っていく形が人の本来の姿だと考えると、それを遮断されているのが福島だと思うんです。性格に難のある岩松といえども、これぐらいはヒューマンなことを言っていいだろうと(笑)。最終的にはそれぐらいしか言えないかなと思って。

柴田 そうか、世代の交代が機能しない場所になってしまっていると。『薄い桃色のかたまり』では最初の添田家のシーンのぎくしゃくした感じというのがまずありますよね。その後でも添田家のシーンが出てくるたびに時間が進んでいるんだけど、やっぱりぎくしゃくしている。そういうところにあらわれていたんですね。福島を取材されて、何か実感を持ったのですか?

『薄い桃色のかたまり』より。撮影:宮川舞子

岩松 そうですね。震災の翌年だったら、こういう話にならなかったと思います。昨年の夏、福島に取材に行ったんです。車で移動していても、とにかく緑が生い茂っていて、線量計を見ながら「高いですね」と言っていました。富岡町のほうに行くと、家は絵のようにひしゃげて、これは大変だなと目に見えてわかるところがあって。春に富岡町の夜ノ森という桜の並木道に行ってみたら、地元の人が全然いないんですよね。そこは花見の名所で、帰還許可が出てから初めての桜祭りがあるとテレビのニュースでやっていたんです。あわせて僕たちも取材に行ったはずなのに、地元の人がほとんどいなかったのが衝撃的だったんです。商店街にも人は戻っていませんでしたね。数年後には完全にゴーストタウンになっちゃうんじゃないかと思ったり。学校は草がぼうぼうだし。帰還するのか、しないのか、という問題は確かに震災から6~7年目くらいに直面することなんじゃないかと思います。福島は今後どうなるかわかりませんけど、あとで振り返ってみたときに、「あの頃はまだ戻れるかもしれないと思ってたよね」という時期になる可能性は多分にありますよね。

柴田 たしかに。この戯曲は2012年くらいにはまだ出なかったと思いますね。

岩松 震災直後だとまた違うだろうし。世代が順繰りに移っていかなくなるというのは、ひとつの真実ではないかと思ったんです。だから、『少女ミウ』では、妊婦が死んでいき、結局、ミウが一人だけ残される。「君に託す」というような形で。黒島にはそういう印象もあったんですよ。ジャンヌ・ダルクみたいな役もちょっと似合いそうだなと。一人だけ残されて、君は生きろと言われたというポジションに置こうかなと。

柴田 『少女ミウ』は最後が衝撃的でしたね。広沢とミウがああいう形で二人で出てくるとは。今のお話をうかがって、なるほど『少女ミウ』と『薄い桃色のかたまり』の共通点から見えてくるものがありますね。福島をテーマにした二つの作品を拝見して、さすが岩松さんと思ったのは、現実の世界では原発賛成か反対かといった対立の中でしかものが言えないようになっている中で、何かのメッセージに落とし込むことをいっさいなしに、その向こう側で語っているというところです。こういう芝居を観せてもらうと、マルかバツかではない、その外での語り方、見方があるんだなと思います。

蜷川演劇へのオマージュ

柴田 『薄い桃色のかたまり』のあとがきに、蜷川さんと相談しているうちに、「福島」というテーマが出てきたと書いてありましたが、蜷川さんをひきつぐという気持ちがあったのですか?

岩松 それはありましたね。テーマを福島に決めたのも、蜷川さんとやるなら福島にすれば、蜷川さんも嫌がりはしないだろうという感じがあって。さいたまゴールド・シアターのために最初に書いた『船上のピクニック』(2007年)も、『ルート99』(2011年)もそうなんですけど、社会ネタを接点にしたほうが蜷川さんとやるときはいいなと思っていたので。

柴田 蜷川さんへのオマージュという意識がありましたか?

岩松 はい。福島と言っても、具体的に原発がどうこうというのは、僕なんかよりもっと詳しい人がいっぱいいるし、そこに演劇が踏み込むいわれは何もない。それに、「震災のとき、福島は大変だったんだよ」と言っても、演劇的なことに変わっていかない。でも、震災のショックで色をなくした、というふうに自分なりに置き換えていくことはできると思ったんです。それと、放射能という言葉を使うこと自体がテンションを下げることになるので、そうじゃなくて、放射能のせいで人がいなくなって、そこにイノシシがいるというこの状況を逆算して考えていく。放射能はイノシシに置き換わり、人たちが家に帰るべきか帰らざるべきかという問題に遭遇している。
半分くらい台本を書いてスタッフに渡して打ち合わせした時に、やっぱり本の意図を事前に伝えておかなきゃと思って。イノシシというのは実は放射能のことを僕は言いたいんだということをスタッフに伝えたんです。

柴田 そこまで言っちゃうんですね。

岩松 スタッフに対しては言いました。考えていろいろやってくれる人たちなので、言っておかなきゃと思って。役者には言いませんけど。

『薄い桃色のかたまり』より。撮影:宮川舞子

柴田 『薄い桃色のかたまり』のエンディングの迫力は、いつもの岩松さんの作品と少し違うなという感じがしました。タイトルの『薄い桃色のかたまり』は実はト書きにしか出てこないんですよね。

岩松 そうなんです。蜷川さんのつくった劇団がやるということで、何か意識するようなところがあったんでしょうね。『薄い桃色のかたまり』というタイトルは本を読んだ人にははっきりわかりますね。

『薄い桃色のかたまり』と『少女ミウ』

柴田 2作ともに、真ん中に板挟みになっている人物がいますよね、賛成か反対かではなく、両方から突っつかれて苦しんでいる。『少女ミウ』では父親がそうですけれども。意識的に板挟みの人間を据えたのですか?

岩松 そうですね、まず芝居は善悪を問うものではないということが前提としてあると思います。たとえば、だました人間とだまされた人間がいたとき、善悪の問題を考えるとどうしてもだまされた人間の側にたつから、だました人間のドラマを見落としがちになるし、それは全体の半分しか見てないってことになる。震災のときに被害者になった人と加害者になった人、どっちがドラマが大きいのか? 加害者の人は嘘もつかなきゃいけない。社会はどうしたってそれを悪だということで切り捨てようとする。でもそれだと人間の行いとして片側しか見ていないような気がする。思い出そうよ、そもそも人間がどういうものかを、って気持ちになる。被害者の側にたつことの危険がある、ってことをまずわかっておきたい、って思うんです。だから、結局は東電を真ん中に据えるような形にしたわけなんです。東電という社名はあえて出しませんでしたけど。そういう意味では、カズオ・イシグロの画家の話がそうですよね?

柴田 浮世の画家』ですね。

岩松 そうです。結局、戦争の善悪を問うているわけではない、戦争に加担した人間が戦後どんなふうに生きにくくなっていったかという話を中心に据えた。そこが僕はとても好きだったんです。

柴田 娘の縁談話が壊れたりとか、隠微な形で生きにくくなる。

岩松 そうそう、昔の栄光で周囲の人はなんとなく丁寧に接してはくれてるけど、弟子だった人間は離れていったりとか、いろいろあって、その状況を中心にしているところが大好きな小説です。『日の名残り』もそうですが、どこを中心にするかと考えたときに、より感情の枚数が多く複層的なもののほうがいい。感情の少ないものはあまり面白くない。「お前、カネ返せよ」と言う人間よりは、何も言えない人間のほうがドラマが大きい。そこを契機にいろいろ考えていきたいなということはまず、あるような気がしますね。

柴田 その人が主人公になるわけではなくて、あくまで構図の真ん中あたりにいる。

岩松 そうですね、あまり主人公を真ん中に置きすぎるとこれもまたちょっと、責任とらないといけない問題が大きいかなと思いますけど。そこは構図ですよね。

『少女ミウ』より。撮影:柴田和彦

柴田 構図といえば、この二つの芝居はペアになっている要素が多いですね。『少女ミウ』は、ミウという、おそらくは震災を体験して、そのことをうまく語れない女の子と、ユーコという、実は震災を体験していないんだけど、語ってしまう女の子、という対になっていたり、『薄い桃色のかたまり』だったら、まさに東電と住民との板挟みになっている「ハタヤマ」という男と、その分身みたいな、戯曲でも名前がついていない「若い男」がいて、その両方の立場に光を当てている。そのあたりは意識なさっているのですか?

岩松 そうですね、『少女ミウ』のときは意図的にそれはやっています。本当がゆえに言葉がない人と、嘘がゆえにいっぱい言葉がある人という組み合わせ。『薄い桃色のかたまり』のときの二人の組み合わせは、ハタヤマがああいうポジションにいて、結局その板挟みの問題を抱えている人なので、あまり違う問題に入れないと思ったんです。そうすると、ハタヤマの中にある恋愛問題を受け持つ人が別にいたほうがいいと。

柴田 なるほど。「若い男」は面白かったですね。僕の好みかもしれないけど、役者さんの芝居がかり方が絶妙で。恋愛担当だから、いちいちロマンチックだったり、自意識過剰だったりして。単に酔っているのではなく、自分が演じているんだと意識している人間を演じている感じが絶妙でしたね。
ペアということでいうと、『薄い桃色のかたまり』と『少女ミウ』、この二つのお芝居が、こっちで言えないようなことがこっちでは言えるとか、そういうような意識はあるんですか?

岩松 そのことはそんなに意識しなかったんですけど、『少女ミウ』は人数が少ないですから、一つの家庭とか、テレビ局といった、絞った中の話をしています。『薄い桃色のかたまり』のほうは地域性という広がりをもつと思います。だから焦点の当たり方の違いがあります。

柴田 それはやっぱり『薄い桃色のかたまり』は高齢者劇団のさいたまゴールド・シアターとやるからということで、そうなったのですか?

岩松 そうですね、僕はゴールド・シアターの人たちとはもう10年ぐらいのつきあいなんですが、彼らは前の芝居から年をとっているじゃないですか。そうすると、どれくらいセリフを覚えきれないのか、というのが計算できないわけですよ。前回やったときから6年くらいたってるから。稽古期間はひと月ちょっとくらいでしたけど、30人以上の役者が出るし、稽古がとにかく疲れて疲れて。本当に疲れたんですよ。

柴田 ゴールド・シアターの方々は世代交代しないんですね。

岩松 しないです。そのままなんです。だから、セリフをアテ書きして大丈夫な人と大丈夫じゃない人が絶対いるんです。ゴールドの役者さんには必ず若手劇団のネクスト・シアターの人がつくようにしました。セリフを覚えきれないゴールドの役者のそばに、文楽みたいに息子役の人がついて助けてもらうようにしたんです。

柴田 なるほど。今回は特に岩松さんとしても挑戦だったわけですね。今後取り組みたいテーマなどはありますか。

岩松 鉄砲ごっこが好きな男の子の感覚で戦争を扱いたいという気持ちもちょっとあるんです。戦争がなぜなくならないんだろうという素朴な疑問が、自分のテーマとしてあるので。これだけ戦争がよくないと皆が思っているのになぜ終わらないのか。そこには何か原因があるはずだと。

柴田 またハッとさせられるようなお芝居を期待しています。

岩松了

劇作家、演出家、俳優。1952年、長崎県生まれ。東京外国語大学外国語学部ロシヤ語学科中退。89年『蒲団と達磨』で岸田國士戯曲賞、93年『こわれゆく男』『鳩を飼う姉妹』で紀伊國屋演劇賞、98年『テレビ・デイズ』で読売文学賞受賞。映画『東京日和』で日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。テレビドラマや映画の脚本家・監督としても活躍。主要著書『蒲団と達磨』『薄い桃色のかたまり/少女ミウ』(白水社)、『隣りの男』『月光のつゝしみ』(以上、而立書房)、『テレビ・デイズ』(小学館)、『食卓で会いましょう』『水の戯れ』『シブヤから遠く離れて』『船上のピクニック』『シダの群れ』『ジュリエット通り』(以上、ポット出版)。

柴田元幸

柴田元幸

1954年生まれ。翻訳家。文芸誌『MONKEY』編集長。『生半可な學者』で講談社 エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。2017年、早稲田大学坪内逍遙大賞受賞。

この記事をシェアする

「岩松了ロングインタビュー(聞き手・柴田元幸)」の最新記事

芝居は善悪を問うものではない

映画は健康的、演劇は不健康

岩松式戯曲のつくり方

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岩松了

劇作家、演出家、俳優。1952年、長崎県生まれ。東京外国語大学外国語学部ロシヤ語学科中退。89年『蒲団と達磨』で岸田國士戯曲賞、93年『こわれゆく男』『鳩を飼う姉妹』で紀伊國屋演劇賞、98年『テレビ・デイズ』で読売文学賞受賞。映画『東京日和』で日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。テレビドラマや映画の脚本家・監督としても活躍。主要著書『蒲団と達磨』『薄い桃色のかたまり/少女ミウ』(白水社)、『隣りの男』『月光のつゝしみ』(以上、而立書房)、『テレビ・デイズ』(小学館)、『食卓で会いましょう』『水の戯れ』『シブヤから遠く離れて』『船上のピクニック』『シダの群れ』『ジュリエット通り』(以上、ポット出版)。

対談・インタビュー一覧

柴田元幸
柴田元幸

1954年生まれ。翻訳家。文芸誌『MONKEY』編集長。『生半可な學者』で講談社 エッセイ賞、『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞、トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。2017年、早稲田大学坪内逍遙大賞受賞。

連載一覧

対談・インタビュー一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら