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随筆 小林秀雄

 鎌倉の小町通りに、「奈可川」という小料理の店がある。小林秀雄先生行きつけの店のひとつで、私たちも何度も連れていってもらったが、この店で先生のいちばんの目当ては「菊千歳」という灘の酒だった。先生は、この「菊千歳」が飲みたい一心で「奈可川」を贔屓にしたといってもいいほどの惚れこみようだった。
 その「菊千歳」を飲みながら、日本酒についてのあれこれもたびたび聞かせてもらった。何事であれ、すべて先生を模倣すると決めていた私は、酒の飲み方も可能なかぎり先生に倣おうとした。先生とはちがって勤め人であったから、午後はいっさい水分をとらないといったところまでは真似しきれなかったが、先生が、これはいいと言われる日本酒の味は、しっかり舌に覚えこまそうと気を張った。こうして「菊千歳」は、私が最もなじんだ酒になった。
 そのうちすぐさま勢いがつき、「菊千歳」に鍛えてもらった自分の舌を試そうと、二十代から三十代、四十代から五十代と、「菊千歳」と肩を並べる酒との出会いを求め、あちこち盛んに出撃した。が、さすがに還暦を過ぎるとそうはいかなくなった。飲み巧者の友人たちの薦めに乗って、ほんの少々嗜む程度になった。
 そういう友人のひとりに、いま私が最も頼りにしているSさんがいる。Sさんは、小林先生の本もよく読んでいて、あるとき、岡潔さんとの対談(「人間の建設」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第25集所収)の話になった。あの対談で、先生は日本酒が駄目になったと嘆いていたが、あれからもう五十年以上になる、今では本来の日本酒づくりに立ち返り、日夜励んでいる酒造家が何人も現れているのを私は知っている、Sさんはどうかと訊くと、彼もうなずき、こういう本があると教えてくれた。上原浩さんの『純米酒を極める』だった。いまは光文社知恵の森文庫に入っているが、最初に出たときは光文社新書で、平成十四年の十二月だったという。
 読んで私は、「奈可川」で小林先生から聞いた話を種々鮮明に思い出した。先生が岡さんとの対談でぶちまけた日本酒に対する憤懣の理由も、上原さんの本を読み合せることで明瞭に理解できた。上原さんは、大正十三年(一九二四)鳥取県に生れ、平成十八年に亡くなっているが、酒造技術指導の第一人者として知られ、後述する「三倍増醸」全盛の時代から純米酒の復活に尽力したと著者紹介にある。

 岡さんとの対談で、小林先生は、日本酒は全体から言えばひどく悪くなったと言い、いまの若い人たちは日本酒というものを知らない、いまの酒を日本酒と言っているが、そばを日本そばと言うのと同じように言っている、とまず嘆く。
 そばを「日本そば」と言うのと同じように、とは、そばの場合、「日本」は単に大まかな分類のためだけに言われている、「中華そば」などと区別するためだけに「日本」と言われているが、「日本酒」というときの「日本」はそうではない、ウイスキーやワインと区別するための「日本」ではない、「日本酒」とは、米と水だけで造った酒、という意味である。ということは、そこに醸造用アルコールや糖類などはいっさい添加されていないということだ。小林先生が、いまの若い人たちは日本酒というものを知らないと言ったのは、「日本酒」という呼び名の意味を知らないと同時に、醸造用アルコールや糖類などはいっさい加えず、「米と水だけで造った酒」はどういう味がするか、さらにその酒を上手に味わうにはどういう飲み方をすればよいか、そういうことをまるで知らないという意味である。上原さんも、醸造用アルコールや糖類などを加えた酒は、酒税法上の「清酒」であっても「日本酒」と呼ぶべきではないと言っている。
 しかし、「若い人たち」を、一方的に責めることはできない。私もその「若い人たち」のひとりなのだが、「若い人たち」は、酒に物心がついたとき、もう本来の「日本酒」はほとんど飲めなくなっていた。米と水に、醸造用アルコールや糖類などを添加した酒が幅をきかせ、そういう酒が日本酒と呼ばれ、本来の「日本酒」を「日本酒」と意識して味わう機会にはまず出会えないままでいたからだ。

 では、なぜ、そういうことになったのか。戦争である。昭和十二年(一九三七)七月、日中戦争が始まり、十六年十二月には太平洋戦争に突入した。この戦争によって年々米不足が深刻になり、十八年、緊急避難の策としてアルコール添加が始められた。戦後になっても米不足は続き、酒造家は苦肉の策でこの方法に頼った。戦後の社会にあって酒は疲れを癒す必需品であり、国も今とは比較にならないほど酒税に頼っていた、だから、少しでも多く酒を造らなければならなかった、が、米がない、こういう状況下にあって、日本酒の命脈を保つ手段は他になかった、アルコール添加は、日本酒存続の危機を救ったのだと上原さんは書いている。
 したがって、このアルコール添加は、米不足の解消とともに歴史的役割を終えるはずであった。ところが、戦後、米が余るほどの時代になっても米の価格は高く、安いアルコールに頼る風潮が次第に定着し、そのうち、アルコール添加が過ぎると酒が辛くなるところから糖類なども添加するようになり、この、米と水だけで造る場合の三倍に増量した酒、いわゆる「三倍増醸酒」が当り前と見なされるようになった。先生は、「白鷹」を飲んで「ちょっと甘いな」と感じたというが、当時、全体としてはちょっとどころの騒ぎではなかった、日本酒は甘くてべたつくと言われ、悪酔いするとか頭痛がするとかとまで言われた。これらすべて、「三倍増醸」なるがゆえの悪評だった。「三倍増醸」全盛のピークは、昭和四十年代の半ばだったという。小林先生が岡さんと対談した昭和四十年は、まさにその渦中にあったのである。

 小林先生が、いまの若い人たちは日本酒を知らないと言ったのは、こういう歴史的背景によったのだが、先生が、「日本酒は世界の名酒の一つだが、世界中の名酒が今もって健全なのに、日本酒だけが大変動を受けたのです」と言っている「大変動」も、元凶は戦争だった。だが、先生の慨嘆は、元凶そのものに向っているのではなかった。そうした国家的「大変動」は、中国もソヴィエトも経験した、しかし中国もソヴィエトも、今はもうその「大変動」を乗り超えて旧に復している、にもかかわらず、日本だけが乗り超えていないと先生は嘆いたのである。中共(中国)だってもういい紹興酒が飲めるようになっていると思うと言い、ソヴィエトのウォッカにコンミュニスム(共産主義)の味はしないと言ったのは、そういう面での悔しさからである。
 そうこうするうち「大変動」は、日本人の味覚や嗅覚にまで及んだ。先生は、「樽がなくなって瓶になった。昔の酒にあった樽の香、あれを復活してもこのごろの人は樽の香を知らない、変な匂いがするといって売れない、それくらいの変動です」とも言っている。「三倍増醸」は、ひとことで言えば戦後日本の「質より経済効率」の暴走だったが、この暴走は、日本人の味覚や嗅覚までをも自然から切り離してしまったのである。

 先生の言う「日本酒は世界の名酒の一つ」については、上原さんの本に日本酒は世界三大醸造酒の一つと言われ、こう書かれている。
 ―日本酒は、我が国の歴史のなかで培われてきた伝統的な文化である。しかも並行複発酵という、世界に類を見ない高度な発酵メカニズムを持つ、多湿なモンスーン気候帯ならではの特徴ある酒だ。おそらくは農耕の起源とほぼ同時期に酒づくりが始まり、単発酵の濁り酒の時代を経て、やがて<酛(もと)>の概念が生まれ、並行複発酵の技法が考案され、先人たちが現在の酒づくりの基礎となる技法を江戸後期に確立させた。
 この「並行複発酵」に、息をつめて立ち会う職人が杜氏と呼ばれる人たちだ。「酒づくりは一人一芸、つくり手一人一人の技と心を酒に表す、芸術にも似た世界である」と上原さんは言い、「一人一芸の技と心を持った杜氏が、米と水だけを原料として、熟成を重んじ、妥協のないつくりを行えば、必然的に蔵ごとに個性のある酒ができる」と言っている。
 小林先生が、「昔の酒は、みな個性があった。店へいくと、樽がずっと並んでいる。みな違うのだから、きょうはどれにしようか、そういう楽しみがあった。その土地その土地で自然にそういうものができてくる、飲み助はそれをいろいろ飲み分けて楽しんでいた」と言った個性は、こうして生まれていたのである。前回、先生は酒も絵や音楽と同じように、「作品」として味わっていたと書いたのもここからである。「三倍増醸」は、この「個性」も殺してしまっていたのだ。

 上原さんらの尽力があって、心ある酒造家たちが立ち上がった。上原さんが活動のホームグラウンドとした鳥取県で、昭和四十二年から県下では戦後初めてアルコール無添加酒の醸造が始まった。そして四十八年、石油ショックが起って大手の酒蔵の成長が止まり、それまで、大手に自社の酒を桶買いしてもらっていた地方の中小蔵は、地酒としての生き残りを模索し、醸造用アルコールの添加量を減らした「本醸造酒」、さらには戦後に発達した高精米技術と低温発酵技術を生かした「吟醸酒」「純米吟醸酒」へと進み、日本酒はようやく本来の顔を取り戻し始めた。六十二年からは純米酒を中心とする蔵が増えていった。
 上原さんの本には、開巻いきなり「酒は純米、燗ならなお良し」と書かれ、本文には純米吟醸酒を燗にして飲むのが一番いいと書かれている。小林先生は、日本酒は燗にして飲むようにできている、燗にしてこそ味が映えると言っていたが、上原さんの本にはその理由も丁寧に書いてある。
 先生が、葉山にあった蕎麦の「如雪庵一色」で楽しんだ「玉乃光」は純米吟醸だった。「玉乃光」が純米酒を復活させたのは、昭和三十九年だという。先生と岡さんの対談が行われた年の前年である。先生が「一色」を知って通うようになったのは、それから何年か後だったが、先生は、「玉乃光」にかぎらず、講演などで出向いた先々で、その土地その土地の日本酒再生の息づかいを聞いただろうか。愁眉を少しはひらいていただろうか。
 この原稿を書いていたさなか、Sさんがメールをくれた。
―昨夜、「白鷹」の吟醸純米、生酛造りをお燗で頂きました。食中酒として、呑み飽きしない、申し分のない出来でした。確かに、甘さは感じました。しかしこれは、小林先生のおっしゃった甘さとは異なり、一定の質を超えたところでの、人それぞれの好みとしての微妙な甘さという意味です。
 Sさんのうれしい酒便りをよろこびながら、「菊千歳」に思いを馳せた。実は、「菊千歳」は、もう飲めない。蔵が阪神淡路大震災の犠牲になった。先生が亡くなって、十二年後のことだった。

(第三十回 了)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池田雅延

いけだ・まさのぶ 1946年(昭和21)生れ。70年新潮社に入社。71年、小林秀雄氏の書籍編集係となり、83年の氏の死去までその謦咳に接する。77年「本居宣長」を、2001年からは「小林秀雄全集」「小林秀雄全作品」を編集・刊行した。

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