立春が過ぎたと思ったら、いきなり強烈な春一番が吹いた。イタリア中部の穏やかな地方都市マチェラータで起きた、二件の殺傷事件である。
 一件目は、1月30日にバラバラに切断された遺体となって発見された、18歳のイタリア女性殺人事件。容疑者として身柄を拘束されているのは、ナイジェリア国籍の男性29歳。過去に麻薬所持と売買のかどで逮捕歴がある、不法入国者である。
 二件目は、直後2月3日にイタリア人男性28歳が自ら運転する車から発砲し、6人に傷害を負わせた事件。無差別に発砲したのではなく、アフリカ系の人々を狙い撃ちした。即刻逮捕された犯人が新興のイタリア極右政党<パウンドの家>のシンパであり、逮捕時にイタリア国旗を背に翻しながらローマ式敬礼をし、「難民一掃のためにやった」と供述したため、世間は騒然となった。
 なぜか。

 来る3月4日は、イタリアの総選挙である。
 右か左か、中道か。
 近年、イタリアには有力な政治家が存在しない。一人政党を含め、少人数で多数の政党が林立し混迷が続く。与党と野党も各様にまとまらず、国として重大な決断を迫られる案件も討議されないままに、次々と背後に置き去りにされたまま埋もれていくばかりだ。
 今回も選挙前からすでに、絶対多数政党不在の宙ぶらりん議会となるのは必至、とされ、この先も政治的混乱は避けられない見込みだ。
 国民は疲れ切っている。
 自由奔放で明るく創造性に富んだ国、というイメージの強いイタリアだが、実像は外面とはかなりずれている。大半のヨーロッパ諸国と同様にイタリアも厳然とした階級社会であり、それぞれの階層が混じり変容することは難しい。富裕層は時を超えて富裕であり続け、それ以外は大衆のままだ。財力の多少が知力の高低に直結して、貧すれば鈍、への劣化が強まる一方だ。
 「左だ右だ中道だ、などと騒いでも、もう誰が信じるものか」
 失業率と物価はますます高く、つれて出生数と幸福感は減り、税金と不満は上がる一方だ。昨年サッカーのワールドカップへの出場からイタリアが外れてしまったことも、「スポーツのこと」と、単純には切り離せないだろう。古代ローマ時代にコロッセオで猛獣との格闘に大衆を湧かせたのは、巧みに群衆心理を管理する統括者の策だったことを思い出す。
 国民は、募る苛つきと虚しさ、疲弊感の矛先をどこに向けてよいのかわからない。
 大勢の人が抱え持つストレスは、一触即発で暴力へと変わる。暴言や無礼は、まず弱者へと降りかかるものだ。
 最初はローマから、そしてみるみるうちにイタリア各地に急速に拡散しているのが、
 「大衆こそ正義だ。政治家を排除して、大衆が直に治める社会を」
 とする、イタリアの現行ポピュリズムである。
 「イタリアを守るためには、難民を受け入れてはならない」
 右ポピュリズム派が難民排斥を掲げると、
 「すべての人々に自由と平和への扉は開かれるべき」
 左革新派が反発する。現在イタリアには、総人口6000万人のうち10%に迫る数の欧州圏外からの移民(難民、亡命者、不法入国者を含む)がいる、と試算されている。私もこのうちの一人だ。

 

 「善人ぶった左派が、無審査、無政策で難民を受け入れ続けた結果、ナイジェリア人にイタリア女性が殺害されたではないか。左が殺したようなものだ。イタリアを返せ」
 と右が言い、
 「右派は人種差別主義を煽り、イタリアをファシズム時代に後退させようとしている。罪のないアフリカ人を狙い撃ちにするような暴力は、右派の洗脳のせい。憎しみをイタリアから排除しよう」
 と左が言う。

 海に囲まれたイタリア半島に異邦人が上陸し、あるときは侵攻し、あるときは異文化交流で新局面を展開してきたのは、何もこの数年のことではない。一つの絶対的な勢力にまとまらないことはイタリアの弱点ではあるが、翻ってそこから生まれるカオスは最大の強みでもある。
 
 マチェラータで続けて起きた兇悪犯罪二件に、苦しむイタリアの奥底から吹き出る膿を見る。