一生の間には、それまで蓄積されてきた経験の皮膜が一度に無化し、未知の時間が始まる予兆の密度が高まり、時空がただ一点に圧縮されるような瞬間がある。それはいつも、なにかの「はじめ」であると同時に「おわり」である。未知の世界を発見する時は、既知の領域から離れる時でもある。
 生まれてはじめて他者と言葉を交わしたり、見知らぬ場所に足を踏み入れたり、恋に落ちた時――無数の「はじめて」を経てもなお、わたしたちが世界を知り尽くすことはない。それは、ただ世界が広大だから、というだけではない。常に「おわり」が次の、より高次の「はじまり」の源泉となり、その度に新たな言葉が生まれるからだ。

 娘が母胎の外へと這いずり出て、最初の呼吸をおこないながら産声を上げる準備をしているその刹那、自分の全存在がその風景のなかへと融けこんでいく感触に襲われた。わたしは今に至るまで、過去に体験してきた数多の優れた芸術表現や哲学概念と比べても、この時ほど強度のある美的体験を経験したことがない。
 鈍い灰色の光彩に包まれていたその小さな身体が、はじめて呼吸をした次の瞬間、一度に赤みを帯び、生命の色に染まる。直後に部屋中に響き渡る産声とともに、原初の「はじまり」が世界に顕現する特異点だ。
 彼女の身体がはじめて自律的に作動したその時、わたしの中からあらゆる言葉が喪われ、いつかおとずれる自分の死が完全に予祝されたように感じた。自分という円が一度閉じて、その轍を小さな新しい輪が回り始める感覚。自分が生まれたときの光景は覚えてはいないが、子どもという生物学的複製の誕生を観察することを通して、はじめて自分の生の成り立ちを実感できた気もした。
 それから現在に至るまでの5年ものあいだ、わたしはこの奇妙な円環のような時間感覚の甘美さに隷属してきた。まだ一人では生きていけない彼女の成長をいつも側で見守ることによって、わたしの生きる意味も無条件に保障されてきたのだ。わたしはその間、新たな言葉を探ることを必要としなかった。
 
 いま、その泡のような皮膜がまた弾けようとしている。娘は自らの感覚器を駆使して、自由に言葉をつかみとりはじめた。一方的に庇護を受ける時期から脱して、目の前の豊穣な世界へと自らのちからで分け入っていこうとしている。だから、娘の誕生と共に一度終わった「自分」のプロセスをわたしも再び起動しなおして、新たな言葉を見つけなければならない。冬眠から覚めようとするカエルのように、そのような意欲がむくむくと湧いてきている。
わたしが求めるのは、娘が生まれた瞬間に体験した、自己が融解しながら異なる存在と接続しあう時空を表すための言葉である。この言葉を探す過程そのものをいつか娘が読むことで、自分自身の過去を切り開き、わたしの見た未来を想い出してもらえたら、とも思う。

 

 10代の終わりの頃のことだ。まるで自分がそれまで辿ってきた軌跡、そしてこれから辿るべき道筋を言い表されたかのように感じ、とても勇気づけられた概念に出会った。

「全く知らないことや、よく知らないことについて書く、という以外に書きようがあるのだろうか?(…) わたしたちは自らの知識の先端、つまり既知と無知を隔て、片方からもう片方へと移行させるこの極限点においてしか書くことができない。このような方法によってのみ、わたしたちは書くことを決意できるのだ。」
[『Différence et répétition』, Gilles Deleuze 1968, 拙訳]

 このフレーズは、フランスの哲学者ドゥルーズがその代表作の導入部分に書いたものである。これは、彼がその生涯を通して、長年の盟友であるガタリと共に作り上げた哲学的コンセプトである「再/脱・領土化」(re/dé-territorialisation)の凝縮された表現になっている。未知の領域へ向けて足を踏み出す以外に、新しい知を獲得できないし、自らの立つ領土の輪郭を認識することはできない。そして、わたしたちは一度去った領土へ再び戻るという運動を通して、複数の領土の間を往復し続ける。

 この表現にわたしが勇気づけられたのは、自分が幼少期よりまさに「領土化」の問題と向き合いながら生きてきたと思えたからだった。
 わたしは、日本に生まれながら、台湾とベトナムの家族を持ち、フランス人として教育を受ける中で、いつもOutlandishな感覚を抱きながら、複数の「領土」をせわしなく出たり入ったりしてきた。

 ドゥルーズは「領土」という概念は物理世界において、個々の生物が所有する「世界」のことを指している、と言う。この時、彼は生物学者ユクスキュルとクリサートが発明した「環世界」(Umwelt)という概念に依拠している。環世界とは、生物に備わった身体の知覚によって立ち現れる固有の世界、を表す言葉だ。
 生命にとっては身体そのものが世界を認識し、周囲の環境に働きかけるための始点であり、あらゆる行為を支える原初の文脈(コンテキスト)である。昆虫、鳥、魚類、哺乳類などさまざまな生命のかたちが地球上に存在するが、それぞれが持つ知覚の様式に応じて、異なる世界が認識され、構成されている。そして、言葉を持つ人間には、生物学的な環世界の上に、時間と空間を抽象化して扱う言語的な環世界が重畳されている。
 ドゥルーズは、哲学者の仕事とは、新しい概念(コンセプト)を発明することである、と一貫して主張していた。それは映画監督が新しい映画を作ったり、小説家が新しい小説を作ることと大局的には相似しているが、哲学は映画や小説を作り出すための方法を編み出すものではない。哲学は哲学的言語にしか表現できない固有の領域を切り開く。ここにも彼の領土の概念が表出しているのがわかる。表現には、その表現形式に固有の環世界が立ち現れるのだ。

 わたしの父方の家族は、主にベトナム戦争(1955〜1975)の惨禍によって、アジア、ヨーロッパ、アメリカへと散らばった。父は幼少期から様々な国に移り住むうちに、ベトナム語、英語、フランス語、日本語、そして中国語(北京語、広東語、台湾語)を話す多言語話者(ポリグロット)になった。そして日本に留学している間にフランス共和国に帰化するという、実の息子から見てもなんとも奇異な人生を過ごしてきた人である。そういう経緯で、私は遺伝学上はアジア諸国の「混血」でありながら東京でフランス国籍者として生まれ、幼稚園から在日フランス人の学校に通い始めた。物心つく頃から、父が世界のあちこちに散在する家族と電話で話すときに口にする様々な言語の響きを聴きながら、「言葉とは文脈に応じて取り替えることができるものなのだ」と、うっすら認識し始めたように思う。

 人間を他の生物と隔てているのは、高度に発達した神経系を有している点だ。人の神経系の上で自然言語が発生し、さらに言葉を記録するメディア(媒体)を手にしたことで、現在という短い時間の枠をただ通過するだけではなく、過去と未来を含む時間座標のなかに現在時点を配置することで、時間的な地図を作れるようになった。それと同時に、人間集団が生息する地域ごとに、言語は多様になっていった。
 19世紀ドイツのロマン主義言語学の系譜に位置づけられるヴィルヘルム・フォン・フンボルトは「言語の多様性は記号や音声の多様性ではなく、世界認識の多様性である」と表したが、それがインド=ヨーロッパ語族の文化的優位性を説く上での表現であったことは、今から思えば興味深い。この言語観の系譜は、20世紀の前半に、言語学者のサピアとその学生であるウォーフによって継承された。彼らは、ネイティブ・アメリカンの言語研究を行いながら、特定の言語グループに属する人間にはその言語に固有の現実世界(リアル・ワールド)が立ち上がるという仮説を打ち立てた。この仮説は多くの科学者に影響を与えたが、それはフンボルトが主張した差別主義的な文脈ではなく、むしろあらゆる文化を相対的に捉える視点を育んだ。
 サピア=ウォーフ仮説として知られる、この言語的相対論に対しては、人類には進化の過程において獲得した「普遍文法」という生得的な言語構造が備わっているとするチョムスキーやピンカーの生成文法の立場から批判がなされてきた。言語的相対論は、後天的に獲得する文化的な経験から生じる言語的な多様性に注目するが、生成文法論は、そのような差異よりも、人類という生物種に備わった先天的な言語能力の構造こそが重要であるとしている。この2つの立場の論争は20世紀を通して展開されてきたが、いまだに最終的な決着はついていない。

2回目につづく