最も深い記憶の層にあることを思い出そうとすると、3歳くらいの時には、ほとんどフランス語を話した記憶が残っていないことに気がつく。生まれてから幼稚園に通うようになるまで、私は家で日本人の母と過ごしており、父も家庭では日本語を使っていたので、最初の母語は日本語だった。3歳になった頃から東京のフランス人学校に通うようになって初めてフランス語に触れるようになり、フランス人の教師や様々な国籍の同級生たちと過ごす日々のなかで、フランス語の意味は理解するようになったものの、口に出して話すのはだいぶ遅かったような気がする。
 その中で今も鮮明に覚えているのは、小学校に上がった初日に、はじめて教科書を渡され、簡単な読み書きを習って帰宅した時、わたしのなかで誇りと興奮の混ざった感情が、はち切れんばかりに膨らんでいたことだ。それは「Voici Yves. Voici Natasha. Voici Yves et Natasha.」(これはイーヴです。これはナタシャです。これはイーヴとナタシャです)という、いま思えば主語と動詞と対象語という文法の基本形すら入っていない、幼稚なフレーズだった。だが、それまでは発話された言葉を聴取するという形でしか触れることのできなかったフランス語の言葉を自分の道具にすることで世界を記述し、表現する可能性があることを十全に示してくれるものだった。慣れない表現のツールが身体に血肉化することで、眼前に立ち込めていた霧が晴れるような気がした。
 それはまた、私にとっては身近にはあったが、なかなか立ち入ることのできなかったフランス語という「領土」へと分け入っていく能力の獲得を意味した。そしてこの感覚は、他のどんな遊びよりも大きな悦楽、そして深い感動をもたらすものだった。
 
 サピア=ウォーフの言語的相対論とチョムスキーやピンカーの生成文法論に共通しているのは、言語こそが現実世界の認識に影響する、という考え方である。言語的相対論においては、言語間の差異が世界認識の方法に根本的な多様性を作り出す、とされる。そして生成文法論においては、世界を認識するための文法があらゆる人間に共通する認知構造に埋め込まれている、とされる。いずれの立場でも、言語が身体的な知覚よりも優先的に世界認識を行うということが前提になっている。しかし、それはあまりにも言語偏重主義的な考え方ではないだろうか。むしろ言葉そのものが、現実世界の組成に影響を受けて発達したとも考えられないだろうか。
 自らの経験を省みれば、生成文法論も言語的相対論の両者とも正しい、とわたしは考える。生成文法論の、特にピンカーの拠って立つ進化論的な側面から、人類の身体がそもそも言語獲得のための認知構造を可能にするように発達したとする立場には、生物学的な説得力がある。言語の種類や様式がどれほど多様であっても、地球上のあらゆる地域に生息する人間それぞれに言語現象が顕現しているという事実は、そのような能力を発達させる神経系の構造が人の身体に先天的に備わっていると考えた方が自然に受け容れられるからだ。
 それと同時に、特定の言語にしか存在しない、固有の表現から生まれる感情や知覚の特異性というものも存在する。人の認知や脳における情報処理を研究する分野では、個体のなかで主観的に立ち現れる感覚意識体験のことをクオリアと呼ぶ。わたしの意識の中に生じる諸々の感覚の「この感じ」は、客観的な情報として「あなた」に伝達することができない。わたしたちにできるのは、複雑な感情と思考の流れを、言語という粗いグリッド状の金型に流し込むことに過ぎない。わたしたちは、互いのクオリアの最大公約数となる言葉に想いを託しながら、かろうじて会話を行っている。
 それはDNAに規定された生物的基盤の上に重畳する文化というレイヤーにおいて、後天的に生じる多様性だ。個々人が異なる風土を生きる中で生まれるクオリアの翻訳機として言語を捉えれば、異なる言語の間で一対一の対応関係にマッピングするように「意味」の翻訳を行うことは原理的に不可能なはずだ。
 
 小学校にあがってフランス語と日本語の両方で読み書きを覚えた頃だったと思う。ある日、私は「国」という漢字が、どうしてこういう形をしているのかが不思議でしようがなくなった。しばらく考えて、母に自分の仮説を述べたのを覚えている。「これは玉が四角い箱に入っているということ? 玉っていうのはたましいのことかな。みんなのたましいが箱に入っているのがくにという意味?」その時の母の返事の内容は正確に覚えていないが、「そうかもしれないわね」というように、否定をされなかったことが印象に残っている。この時、現実世界の構造がわたしたちの言葉を形作るという強い感覚が芽生えたように思う。
 いま思うと、表音文字を使うフランス語で読んで書くという経験を最初に覚えた私にとって、表意文字という概念そのものが新鮮に思え、それが故に魅惑されたのだろう。フランス語が依拠するアルファベットという表音文字においては、言葉は全て恣意的に作られているという感覚が強くあった。なぜpied(足)は男性形で、main(手)は女性形なのか? 教師に聞いても、「そう決まっているからだ」としか返ってこないことに不満を覚えた。
 アルファベットを使う言葉は、人工的に人が決めた組み合わせに意味が当てはめられている。それに比べて、漢字は意味がその形態に現れており、どうしてそのような形になったのかという来歴も埋め込まれている。わたしはそのうち、漢字の読みを覚えることに夢中になり、車やバスに乗って外に出かける時は、道沿いの看板に書かれた漢字を読み解くことに没頭していた。フランス語にも、ラテン語源や他のヨーロッパ言語との関係性に拠る重層的な成り立ちがあることを知って喜んだのは、もっと後の小学校高学年の頃に、ラテン語やドイツ語の授業を受け始めた時だった。
 そうしてフランス語と日本語の世界を往復している間に、アルファベットのそれぞれの文字が人格を持っているように感じるという、奇妙な共感覚が芽生えていった。共感覚とは、音を聴くことで色を感じたり、視覚によって匂いが引き起こされたりというように、異なる感覚同士が連関する心理現象を指す。わたしの場合は、たとえば「a」は、見るものを嘲笑う嫌なヤツ、「d」は気品が高い人、「e」は朗らかに笑っている女性、というように感じられる。この共感覚は現在も持続しているが、それがどうして生じたのかはこれまで分からなかった。こうして改めて考えてみると、もしかしたら、漢字という象形文字を認知する際に生じたクオリアが、アルファベットという表音文字の知覚に転移したものなのかもしれない。

 自然言語を獲得することによって人間の環世界は大きく変容した。言語は普遍的な基盤を持ちつつも、それぞれの地域や風土といった環境の差異に応じて多様化していく。精神分析家のラカンはいみじくも、人の無意識は言語のように構造化される、と表現した。彼はまた、「無意識は言語学の条件」であると同時に、「言語は無意識の条件」だと書いている。ここで「無意識」という言葉を「身体が世界を知覚する形式」と読み替えれば、言語と身体の関係性が、一方による他方の制御によってではなく、相互のフィードバックを介して起こるありさまをイメージできるだろう。そして、言語的相対論の考え方に依って立てば、ある特定の言葉は、現実世界の現象に対応するメタ的な受容体として作動するものとして捉えられる。ある言葉が存在するから生まれる認識の流れがあり、同時に、ある言葉の生成につながる非言語的な知覚という流れが作動している。
 受容体とは、外界や体内の刺激を受け容れ、神経系が情報として活用できるように変換する細胞やタンパク質のような分子構造を指す。人の環世界とは、環境や情動系から神経系に渡される非言語的な情報が、同じ神経系の上で作動する意識や言語システムとも連動しながら立ち現れているものではないだろうか。
 この連関の比喩的なイメージとしては、SF作品に登場するサイボーグが、新たな機械的部品を身体に装備することで能力を拡張することに似ている。しかし、これはただの比喩ではないのかもしれない。サイボーグとはサイバネティック・オーガニズム(Cybernetic Organizm)の省略形である。サイバネティクスとは、持続的に作動するある(システム)の内外で生じる調整(フィードバック)を把握するための概念体系である。非言語的な情動や無意識の次元系と言語レイヤーの連関は、相互にフィードバックを連絡しあうサイバネティックなループ構造を成しているといえる。この意味において、言語という「外装」可能な技術を獲得した時点で、人間はすでにサイボーグに成ったのだといえる。

3回目につづく