在日フランス人のコミュニティには、純フランス人(そのような定義自体が不可能なほどフランス国家は多様な民族によって構成されているが)以外にも、50カ国以上の国籍の子弟が集まっている。そこには様々な言語的ハイブリッドが生じている。日本語、英語、アフリカ諸語、スペイン語、ドイツ語、中国語といった言葉が、公用語であるフランス語の環世界と混ざっていき、それぞれが入り混じったハイブリッド言語を話すこどもたちがいる。わたしもまた、そうした同輩のこどもたちと一緒に、日本語とフランス語が奇妙に織り交ざった言語を育てていた。片方の言葉しか話さない親たちが、わたしたちのハイブリッド言語の会話を、奇異な目で見ていたことを想い出す。
 こうやって「日仏語」が意識のなかで形成されるのと時期を同じくして、我が家にはいつも最新のコンピュータが置かれていた。SF小説が好きな父親はもともとテクノロジーへの関心が高く、また8つ年上の兄にせがまれもしたのだろう、わたしが4歳の時には自宅にNEC製のマイクロコンピュータ(マイコン)と、任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)があった。わたしの最も古い視覚的な記憶の一つは、ブラウン管モニターで見た、ファミコンのゲーム画面だ。
 『スターラスター』(ナムコ)という、擬似的な3D空間を宇宙船で移動し、敵を倒すアクションゲームだった。コントローラーの十字キーと二つのボタンを駆使して、画面のなかの分身を動かす。うまく目的を達成すると、未知のステージに突入する。客観的に見れば、たったこれだけの因果律しか存在しない「貧しい」体験なのだが、モニターに映った点描画のような画面のなかに、無限の広がりを感じたことを覚えている。
 その後も、放課後や休日には、さまざまなゲーム世界に入り浸っていた。『ドラゴンクエスト』(エニックス・チュンソフト)や『ゼルダの伝説』(任天堂)のようなロールプレイングゲームでは、物語上の勇者になりきり、モンスターを倒しながら、人々の願いを叶えていく。『スーパーマリオブラザーズ』(任天堂)のようなアクションゲームや『グラディウス』(コナミ)のようなシューティングゲームでは、超人的な身体性を持つ主人公や無限の弾倉を持つ戦闘機を操りながら、画面の中の穴に落ちそうになる。自機が敵のレーザーによって破壊されそうになると、現実の身体も仰け反ったり、鳥肌が立ったりする。
 ゲームの世界は実世界とは切り離されているが、自分の身体感覚とは連動している。ゲーム世界の主人公がレベルアップするたびに、まるで自分自身の能力が底上げされたような達成感を感じるし、苦戦の末に「死んで」しまうと、微かな痛みが身体の上を走る。そして、なにより、ゲーム作品ごとに異なる環世界が立ち現れる。ファミコンに差し込むカセットを変えるだけで、中世的な物語世界から近未来の宇宙空間へ移動し、コントローラーという境界(インタフェース)を通して、全く異なる身体感覚を味わえる。
 わたしは文学作品の文体を知るよりずっと前から、コンピュータゲームの「文体」を嚙み締めていた。さまざまなゲーム世界に与えられた身体の表象(キャラクター)と、コントローラーという境界(インタフェース)を通して接続する。キャラクターには固有の身体性が埋め込まれており、ゲーム世界に及ぼす作用も様々だ。そのキャラクターに憑依してゲーム世界を読み解いていくと、作者によって隠されたいろいろなクオリアを発見して味わうことができる。そして、それぞれのゲームの作者によって提供される世界の感覚体験は大きく変わるのだ。
 ゲームを進める中でまだ見ぬ世界(ステージ)にたどり着き、そこに立ち現れる環世界を吸収することで「領土」を拡大していく興奮は、日本語とフランス語という言語世界を開拓していく際に得られる悦楽と等価であったことに気づく。ゲームで遊び、学校で学ぶという日常のなかで、ゲーム世界の分身と自分の身体がフィードバックし合うループ構造と、言語を用いて文章を読み解くという行為は、構造的に相同していた。

 サイバー空間、サイバーセキュリティ、サイバーパンクといった名称の接頭辞の語源であるサイバネティクスは、第二次大戦後、数学者のノーバート・ウィーナーがギリシャ語で「(船の)操舵手」を意味するκυβερνήτης(キベルネテス)という言葉をもじって作った造語だ。そのおよそ100年前に数学者のアンドレ・マリ・アンペールは同源のcybernétique(シベルネティック)という語を用い、「権力の理論」という項目と並べて説明している。アンペールにとっては、同じ「サイバネティクス」という言葉は、船の舵取りを行いながら海原を進むように社会を統治する(govern)ための論理体系を指し、ウィーナーにとってはシステム全般を制御する(control)方法論を意味した。アンペールが為政者のための統治論という点にとどまったのに対して、ウィーナーは、脳の神経系から計算機ネットワーク社会全体まで、複雑な要素で構成されるあらゆるシステムに恒常性をもたらす秩序はどのような制御機構に拠るのか、という問題意識を持っていた。
 ちょうど第二次世界大戦を前後して、計算機科学が一気に開花した時期がある。チューリングが計算可能性という概念を数学的に定義し、フォン・ノイマンが現代のコンピュータの原型を設計した。その間、1940年代中頃から、その時代を代表する数学者やエンジニア、そして人文系科学者が集い、数年に渡って議論を交わした会議が催された。後に「メイシー会議」として知られるようになるこの集まりを経て、人間と機械の関係性を問うサイバネティクスの考え方は様々な領域に波及していった。そして、人の知性に関する研究の重要な潮流が生まれていった。
 ひとつは機械的に人間の知性を構成しようとする人工知能(Artificial Intelligence, AI)の領域である。これは、マカロックとピッツによる神経細胞(ニューロン)を数学的に計算する「人工ニューロン」アルゴリズムの発明に端を発して、現在のディープ・ニューラル・ネットワークに至る系譜だ。もうひとつは人間の知性を機械によって増幅しようとする知能増幅(Intelligence Amplifier, IA)である。
 後者のIAの考え方は、人間と機械の境界(インタフェース)を設計する、人間と機械の相互作用(Human Computer Interaction)の領域を生んだ。計算機が社会に普及するずっと前、まだ「コンピュータ」という名称がペンと紙で計算を行う人間の職業を指していた頃、計算機への情報の入出力はパンチカードを通して行われていた。キーボード、マウスといった入力インタフェース、そしてディスプレイのなかで情報をグラフィカルに表示する出力インタフェースは、当時の人々にとってはSFの世界に等しい、全く新しい情報との接し方だった。わたしたちが今日、パソコンやスマートフォンを通して情報の入出力を行うためのインタフェースのほとんどが、大戦後から1970年頃までに発明されたものだ。
 マウスを始め、数多くのインタフェースを開発した計算機科学者のダグラス・エンゲルバートもまたIAの流れに位置づけられる。彼が1962年に書いた「人間の知性を拡張するための概念体系」(Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework)という論文には次のような言葉が記されている。「人間の知性を拡張するということは、人が複雑な問題にあたる能力を増大させ、必要とすることをより容易に把握し、問題を解決できるようにすることだ」。
 この思想は、1945年に「As We May Think」(人が考えるように)と題された論文を発表したヴァネヴァー・ブッシュの考えを受け継いでいる。第二次世界大戦中のアメリカで国防と科学者コミュニティを架橋し、マンハッタン計画を推進したブッシュは、広島と長崎に原爆が落とされる直前に、来るべき情報洪水時代に向けて、人間がより効率的に複雑な情報を処理できるように技術環境を整備しなくてはならないと主張した。ブッシュの構想は、いずれ人は機械に向けて話すだけで思考を記録できるようになり、単純で反復的な作業は機械が代替できるようになり、大量の情報の記録から機械が関連性をもとに分類を行い、人間が連想によって情報を整理するのと同様のことが機械にも可能になる、と説くものだ。
 「Memex」(メメックス)と名付けられたこの構想の目的は、科学技術を相互破壊のためではなく、人間が賢くなるためである、とブッシュは書いている。大量の命を瞬時に奪った原爆の開発を推し進めたブッシュがこのテキストをこのタイミングで発表した背景に、贖罪の気持ちが働いていたのかはわからない。いずれにせよ、このアイデアが後世のエンゲルバートや多くの人間に影響を与え、人類の知性を拡張するために計算機をデザインできるという思想につながったことは確かだといえる。
 ここにAIとIAが交差する地点が見いだせる。かたやAIは人間の知能を機械的に再現することを目指すが、そのためには人間の知性の解明が必要となる。他方でIAは人間の知性を拡張することを目指すが、そのためには人間の知能に類似する機械を作らなければならない。
 このAIとIAの相互補完関係は、エンゲルバートの開発思想によく現れている。科学史家のティエリ・バルディニに拠れば、エンゲルバートも当時の多くの研究者と同様に、サイバネティクスの思想的な潮流と人工知能の研究に影響を受けているが、それに加えてウォーフの著作を介して学んだ言語的相対論に深く触発されたという。1950年代にはサピア=ウォーフ仮説は科学コミュニティのなかで強い影響力を持っていたが、エンゲルバートはその考えを計算機開発に取り入れ、人間が機械を設計するだけでなく、機械もまた人間の思考を形成するというアイデアを打ち立てた。先述したレポートのなかで、エンゲルバートはウォーフの理論に触れながら、単純な実験を紹介している。
 文章を書く際にペンにレンガの重しを付け、その制約のせいでいびつな形になった文字を見て、表現の効率性が下がっている、と表現している。そして重しのない通常のペンとタイプライターで書かれた文章と比較し、機械を介して表された情報が最も「効率的」であると評価する。
 人間の場合、使用するテクノロジーの優劣に応じて、発現する知性の質が左右するというわけだ。「人間と機械は、このような技術的なシステムのなかにおいては分離できない」ということだ。エンゲルバートにとって、言語的相対論の考え方が比較文化論的な多様性の認識のためではなく、「知性の拡張」という工学的な評価を行うためのものとして参照されたことには奇妙なねじれを感じる。
 サピア=ウォーフ仮説の本質は、言語というインタフェースの種類によって世界の認識の仕方が異なるということだが、19世紀のフンボルトは特定の民族の知的な優位性を説く文脈で同様の考えを主張していた。エンゲルバートの発想は、差別を助長するものではないにせよ、問題解決能力の向上が知性を増幅するという単純でナイーヴな前提に拠って立っているといえるだろう。手書きの文字を活字と比較する際、情報伝達の効率という観点からは劣っているかもしれないが、活字にはない筆跡の観察を通して発見できる書き手の心の動きや創造的なプロセスというものもあるはずだ。
 このように、エンゲルバートにとっての知性の増幅とは、問題が明確に定義できる場合の「知能」(intelligence)に関係するものであって、新たに問題を提起したりルールを定義したりするといった高次の「知性」(intellect)には到達していない。もちろん、このことに留意しつつも、人間が情報を操作する道具をつくることが、人間と技術が相互にフィードバックし合う系をかたちづくり、共に進化することと密接につながっていることを示唆した功績は大きい。なにより、今日の人間と機械のインタフェースの基礎が作られた背景に、言語的相対論が影響していることは、現代において言葉と向き合う上でも示唆的だといえる。なぜなら、人間が作り出した原初のテクノロジーが言語であり、その文法が環世界から意味を抽出し、他者に向けて表現を行うためのインタフェースであるとすれば、人間と言葉もまた、共に進化するサイバネティックな関係を結んでいるといえるからだ。

4回目につづく