日本語とフランス語、それぞれの言語で覚える言葉の数だけ、アクセスできる感覚が増えていき、意思の疎通が容易になるというだけではなく、対話する相手から引き出せる知識も増えていく。
 いま思えば自分の「領土」、つまり認識できる世界が拡張されていく悦楽を知ったからこそ、わたしは自発的に言葉を覚えようとしたのだと思う。新しく覚える言葉の一つ一つは、身体で体験したことを記憶にとどめるためのアンカーであり、未だ体験したことのない感覚へ至るための道標だった。
 コンピュータのなかで描かれるゲーム世界にも固有の言語があることを知ったのは、小学校にあがってマイクロコンピュータ(マイコン)のキーボードに触れるようになってからだった。それまではただゲームで遊ぶという行為を通して読むことしかできなかった対象を、自分で記述する可能性に気づかせてくれたのは、パソコン雑誌の巻末についていたプログラムのソースコードだった。BASICという逐次処理型の言語で書かれた文字を画面に打ち込み、プログラムを実行すると簡単なゲームのなかで絵や音が動き始める。プログラムの論理の流れを順番に作動させることで、自分の思い描いた世界が立ち現れる!
 小学校の頃、サンプルで学んだコードを切り貼りしながら、わたしは生まれて初めて簡単な映像プログラムを自作した。それは音楽とともに富士山を(かたど)った背景から太陽が徐々に昇るというもので、元日の朝に誇らしげに家族に披露したのを覚えている。この体験を通して、文字を書いて文章をつくることと、プログラムを介して表現を行うということが等価になった。
 この過程で、幼心に不思議に思うことがあった。プログラムでは一文字でも書き間違いがあるとプログラム全体が停止してしまうか、意図していない挙動が生まれてしまう。このエラーは一般的に「バグ」とも呼ばれるが、ゲームで遊んでいる時にも時々発生し、画面が「固まって」しまったり、通常ではありえない状態になったりする。前者のパターンでゲームが「バグる」と、それまでの進行が一瞬にして消えてしまい、とてつもない徒労感を味わう。同時にまるで世界そのものにヒビが入ったかのような、奇妙なクオリアが生じるようにも感じた。現実を支える地面がバラバラに崩壊してしまうかのような恐怖と同時に、その裏側に潜む禍々しくも妖艶な別世界の入り口が開くような興奮も覚えた。
 同時代の世界中の子どもたちもやはり同じような体験をしていたのだろうか。今日、「グリッチアート」と呼ばれる、バグの美的感覚を積極的に取り入れた表現形式が、ネット文化上で広がっている。まるでバグが生じたようにイレギュラーなノイズが乗った画像や楽曲に、マルセル・デュシャンの割れた『大ガラス』やジョン・ケージの「チャンス・オペレーション」のように、自然の摂理の介入を見て取り、慈しむ。わたしは子どもの頃、高熱を出すと決まって、ファミコンのディスクシステムの起動画面がサイケデリックな色彩に染まって無限ループし続けるという、“グリッチー”な悪夢を見ていた。

 英語の名詞「bug(バグ)」は「虫」を意味するが、動詞「bug」には人を困らせる、苛々させるという意味がある。19世紀末には、エジソンが機械の故障に対して「バグ」という言葉を用いていた記録が残っている。世界で最初のコンピュータ・バグは、プログラミング言語COBOLを開発した計算機科学者のグレース・ホッパーによって1945年に「発見」された。合衆国海軍の将校としてハーバード大学の計算機を扱っていたホッパーは、ある日機械が動かなくなってしまったことに気づき、真空管のなかから一匹の蛾の死骸を取り除いた。彼女はそれを日誌に貼り付け、「実際に発見された最初のバグ」と記録した。
 コンピュータという機械に巣食う虫。それは自然発生するものではなく、人間のプログラマーが誤ったコードや論理の流れを記述することによって生じるヒューマンエラーである。単純なミススペルによりコードが作動しないもの、無限ループに陥ってコンピュータのメモリが枯渇してプログラムを停止(クラッシュ)させるもの、誤った論理の接続によって想定外の状態を演算してしまうものなど、バグには多様な原因と結果がある。スマートフォンからパソコン、家電に至るまで、世界中で最も多くのコンピュータに搭載されている基本ソフトウェアLinuxの開発をリードしたリーナス・トーヴァルズの名前が冠された「リーナスの法則」は、十分な数のプロジェクト参加者がいれば、あらゆるバグはいずれ修正される、という思想を表すものだ。オープンソース、つまり世界の誰にでもソースコードが開示されているLinuxの開発には、世界中のフリーランスや大企業のプログラマーが現在も数千人規模で参加し、日夜開発が進められている。
 バグを発見し、修正する作業のことを「デバッグ」と呼ぶ。その役割は、直接コーディングを行わないがプログラムの正常な動作を確認するテスターか、もしくはコードを書くプログラマーが直接担うこともある。デバッグにおいては、ただバグが発生したことを報告するだけではなく、その再現性を発見することが求められる。バグを必ず発生させる手順を見つけてはじめて、プログラムコードの中の該当する部分が効率的に発見できる。そうでないと、原因がわかりづらいバグが発生した場合、数千から数万行のコードの中から目視で間違い探しを課せられる場合がある。逆に言えば、エラーの原因をいかに迅速に突き止められるか、ということがプログラミングの要諦となる。

 計算機の世界のバグに、ゲームのプレーヤーとして悩ませられながらも魅了されていた時期から、わたしの身体には別種のバグが発現していた。それは吃音という現象だった。
 ある言葉を発しようとした刹那、喉元まで出かかった言葉が声となって出てこない。無理に押し通そうとすると最初の音を連発してしまうか、もしくは会話のリズムを外してしまい、無言で終わってしまう。これはわたしが物心つく頃から慣れ親しんできた吃音のプロセスだ。一般的には「症状」であり、その重度は人によって異なる。
 いつ吃音が発現したのかは正確には思い出せないし、どうやって、なぜ吃音が生じるようになったのかも分からないが、10代のはじめの頃にはすでに日本語でもフランス語でもどもりが発生していた。そして、その時は、いかに相手に自分の吃音のことを気づかれないようにするかということに腐心し、そのような恥ずかしい「弱点」を他者に悟られたくないという思いが強くあったことを覚えている。
 吃音というコミュニケーション上の問題は、子どもの頃から現在に至るまで、わたしの身体に常に存在してきたが、そのことを共有する相手はいなかった。2017年の夏に、吃音の当事者研究を行う伊藤亜紗さんにインタビューを受ける機会があり、その時に「隠れ吃音」という評定を受けた。ほとんどの人には気が付かれない程度にしか実際には吃音が顕在化していない、ということだ。わたしはこの評価が自分の主観とかなりズレていることに驚いたが、伊藤さんの調査によれば、人によって、吃音のイメージも対処法も大きく異なるらしい。
 それをきっかけにして改めて吃音を意識の俎上にあげることによって、色々と分かったことがあった。端的にいえば、吃音はわたしの思考のパターンを形作るうえで、根源的ともいえる役割を果たしているのかもしれない、ということだ。
 たとえば、少年期から今に至る過程で、吃音への対処法が変化していることに気がついた。特定の言葉を発声しようとすると吃音が頻発するが、その他の場合では症状が軽減している。それは自然に軽減した場合もあれば、対処法を思いついて改善した場合もある。話している最中に、この後で吃音が生じるだろうという気配が察知されると、その予感の塊が到来する前にもっと口に出しやすい言葉が検索され、準備される。
 「される」と受動態で書いているのは、この手順は意識的に行っているわけではなく、自分の身体に馴致(じゅんち)しきった、無意識で作動するプロセスが処理しているように思うからだ。これとは別に、意識的に行っている回避方法もある。この無意識の流れで対応できない時、たとえば言い換えの語彙が準備できなかった時には、難発が起きる、つまりなかなか発音できないワードの直前にスーッと息を吸うことによって、まるで振り子を片側に揺らして位置エネルギーを与えて反対側に向かう勢いをつけるようにしてあげると、言葉が発せられる確率が増えることに気がついた。このテクニックは30代になってから編み出した比較的新しい「技」だが、吃音がより顕在化してしまうので、自分にとっては苦肉の策である。
 歳を重ねるに連れて、吃音との付き合い方が上手になってきたことの理由を推測するに、おそらくはどういう言葉で自分がどもってしまうのかという経験知が増え、そのため吃音の発生が察知しやすくなったこと、さらには言い換えのために使える語彙が増えたことで余裕が増したということだろう。しかし、より重要なこととして、周囲に気が付かれても気にしなくなった、ということがある。吃音という、自身に内蔵された、制御が不可能な「他者」との対話の結果、自分の口からある言葉が発話されるのだとすれば、それを積極的に受け容れた方が良いのではないか、というマインドセットがいつからか生まれたように思う。
 日本では成人の1%が吃音を持っており、厚生労働省では吃音を精神障害と分類しているが、その原因や治療はまだよく分かっていないらしい。子どもの頃は、修正すべきバグとして認識してきたが、今となっては自分の発話のインタフェースの一部であるという感覚がある。ある日解決法が発見され、吃音がデバッグできるようになった状況を想像してみると、これまでせっかく吃音と共に培ってきた思考のパターンとリズムが崩れ去ってしまうのではないか、と思う。
 それはわたしの吃音が軽度なものであり、他者との意思の疎通に重篤な支障をきたしていないから、という理由も思いつくが、一方では今よりもよどみなくスラスラと喋れるようになりたいという思いも当然ながら、ある。そのメリットを上回る理由があるとすれば、それは最も身近な他者がいなくなってしまう寂しさ、に近いかもしれない。時には邪魔で、摩擦を生じさせもするが、自分だけではアクセスできない場所に連れて行ってもらえる。わたしにとっての吃音とは、いつのまにかそのような存在になっているように思う。 

5回目につづく