新緑の季節。入学に入社、結婚に新居。心機一転、新しい生活が始まる。インターネットで<新入社員の服装>と検索すると、ずらりとお勧めの身だしなみが一覧となって出てくる。それは、日本のマナーのタグに読める。貫くテーマは、<人に不快感を与えず、清潔で明るい印象>だ。靴からスーツ、アクセサリーに時計、ネクタイや鞄、髪型に至るまで、色からデザイン、素材に亘って詳しく挙げられている。
「これさえあれば」
 便利、なのだろうか……。息が詰まりはしないか。
 
 ミラノの中心に、私営美術館がある。開館して数年、という業界への新参だが建物自体は18世紀後半の建立で、現代への過渡期にあるミラノの動静を見てきた。所蔵美術品が創作された時代は、建物の歴史と重なる。
 かつて老舗の都市銀行の本店だったままに入り口を残し、高天井と柱のない広い空間に圧倒される。古びた石壁の外観と打って変わって、屋内は白木を主材とした現代的な内装に改築されてある。

 


 入るとすぐ、ブックショップがある。数々の書籍や記念雑貨の向こうに、レジカウンターが見える。ノーネクタイの黒いシャツに黒いズボン、短髪にまとめた店員が二人、すっと立ち、静かな声で電話に出たり伝票を整理したりしている。
 二人揃って、耳から顎、顎から喉元、鼻の下から口周りに髭を蓄えている。驚き、見とれ、レジに進んで、髭はこの美術館の採用条件なのか、と私は思わず尋ねた。
 店員は髭と眉と髪に縁取られた顔を上げ、その奥からじっと私を見てから、
「18世紀の肝心要ですからね」
 おもむろに顎髭を触って見せ、そう返した。
 18世紀のヨーロッパでは、カツラの後に髭が大流行した。男ぶりは髭次第、という時代だったのだ。


 まだ二十代の店員は、「黒ならよろしい。あとは各人の自由」という服装指定を雇い主から受けただけである。髭に見入っているうちに、観てきたばかりの18世紀の肖像画の中に舞い込むような錯覚を覚える。

 

 まずは、外見。
 イタリアに暮らすと、そう感じることが多い。数々の有名ファッションブランドを持つイタリアだからといって、皆がブランド尽くしというわけではない。むしろ、ブランド一辺倒で決めるのは野暮天で、各人各様に着こなそうと努める。体型に恵まれた人は、何でも着映えするものだ。伊達の道を極めるには、まず己の欠点を認めて前面に押し出し見せてやる、という気合いが必要である。
 腰の位置が低い人、胸が豊かすぎる、あるいは平ら、首はどこだ、肩が広がりすぎている、涼しげな後頭部……。
 過不足のすべては個性であり、人にアピールするための切り札と変わる。
「<人に不快感を与えない>ですって? もし言われた服装が似合わなければ、自分が不快でしょうに」

 

 そうかといってたとえどんなに暑くても、ビーチサンダルにバミューダパンツ、ノーショルダーの足首までのワンピースで、事務作業をする人はいない。町には町の、海岸には海岸の自分がある。スタイルは、各人の美意識が基準なのだ。
 イタリアに大規模商店が少ないのは、没個性を嫌う客が多いからである。個人商店へ入ると、マンツーマンでの品定めが待っている。客は商品を、店員は客を診る。客がジャケットを手にすると、「例えばこういうものはいかが」と、店員はシャツやスカート、ベストなど順々に勧め、やがてベルトに靴へと及び、客はとうとうスカーフや帽子まで提げて店を後にすることも。客が気付いていない個性を瞬時に見抜く見立ての職人が、名店にはいる。

 <いろいろあるからこそ、人生は味わい深い>
 イタリアの格言が言う。