吃音というバグを抱えながら、少年のわたしはある時から書き言葉の世界に没頭した。それは執筆という、時間をかけてエラーを修正しながら完成させられる行為を通して、言うことを聞かない身体から解放されるような感覚を得ていたからかもしれない。
 高校を卒業するまではフランス語で、アメリカの大学在学中は英語で、そして日本で仕事を開始してから今に至るまでは主に日本語で、思えばこれまで多くの文章を書いてきた。最初に書く訓練を受けたのはフランスの学校だったが、そこでは執筆行為が構造に従う技法であることを反復的に教え込まれる。
 たとえば、小学校ではまず、教師が読み上げるテキストを聞き取り、それを正確に書き取るディクテ(dictée)(英語のディクテーションのこと)という演習を何十回もやらされる。フランス語では話し言葉と書き言葉の違いが日本語より多い。なかでも発音には表出しない無音文字(lettres muettes)(「レートル・ミュエット」)が最も特徴的だろう。形容詞の係る対象語が女性や複数の場合、その形容詞の語尾にeやsを付けなくてはならない。
 たとえば、「彼女たちはきれいだ」を意味する文は「elles sont jolies」となるが、最初のelles(彼女たち)(発音は「エル」)のs(複数形)、jolies(美しい)(発音は「ジョリ」)のe(女性形)とs(複数形)は無音となる。主語のエルは、単体で聞いているだけでは単数か複数かは分からないが、続く「sont」(3人称複数形のêtreの活用、tは無音で発音は「ソン」)を聞き取った瞬間、複数形であることが判明し、そこから形容詞の表記もわかる。わたしは妙にこのディクテが好きで、いつも高い点数を取っていたが、それは書き言葉が、条件分岐という、純粋な論理の流れ(アルゴリズム)に従いさえすれば良いということにある種の安らぎを感じていたからかもしれない。
 学年が上がっていくと、詩や文学作品、そして哲学といった人文系の授業で、テキストの背景に流れる論理について学んでいった。詩の音律は、行の音節の数や、韻の反復パターンの構造によって分類される。
 たとえば、中世に確立し、20世紀まで実践の続いたソネ(sonnet)(ソネット)の基本形は、全14行が2つの四行連と2つの三行連から成るという構造を持つが、音節の数は不定である。対して、アレクサンドラン(alexandrin)は1行が中間休止によって区切られる6音節ずつの半行、という構造を持つ。国語の授業では、こうした技術で作られた、ロンサール、コルネイユ、ラシーヌといった16~17世紀の詩人たちの恋愛詩や王侯貴族に捧げられた讃歌などの作品を扱っていたが、いつも最初に構造分析を徹底的に行い、意味内容の解釈は二次的にしか行わなかった。どう受け止めるかは各人の自由であり、問題となるのは作家が何を志向して書いたのかということだった。
 詩や小説における描写は、情景を浮かび上がらせるための語彙場(champ lexical)の用法によって、特定のニュアンスや色彩が浮き彫りにされる。語彙場とは、「同じ構文カテゴリに属し、意味の領域によってつながる名詞、形容詞と動詞の集合」と定義される。たとえば、「自然」の語彙場は森、枝、葉、巣、杉、ノコギリ、木こり、茂み、動物、岩といった関連する名詞の集合であるとされる。このような視点で作品をスキャンしていくと、たとえば恋愛を語っているテキストなのに、死を暗示する「黒色」や「荒天」の語彙場が用いられていることから、悲劇的な恋の結末が予感されている、といった結論が導かれる。このような分析の課題の採点で重要視されることは、結論の内容ではなく、結論に至るプロセスが構造分析の技法に従っているかどうか、である。
 このことが最も端的に現れるのが、哲学の授業だった。フランスも、教育改革が近年いろいろと行われているので今日の現場のリアリティは分からないが、わたしが学生だった頃には弁証法(dialectique)の技術を教えていた。弁証法とは議論の技術であり、古代ギリシャのアリストテレスの時より論じられてきたが、19世紀に広まったヘーゲルの三枝弁証法においては、こうだ。
 任意の設題に対するある主張を記述し(thèse(テーズ)、正)、次にそれに対する反論を書き(antithèse(アンティテーズ)、反)、最後にそれら二つのエッセンスを否定しつつ継承して(auf/heben)、第三の項を統合する(synthèse(サンテーズ)、合)。ここでも、テクニック(技法)メッセージ(意味内容)に優先するので、真逆の結論を書いた二つの論文が、両方共、同じ教師によって高く採点されるということが普通に起こる。そこには、有意義な主張は、明確な構造の上にしか宿らないという強いリアリズム的思考が見て取れるし、この技法を習得した者のみが市民たりえるという、選民主義的(エリティスト)な近代西洋の思想が表れている。
 日本には「守・破・離」という考え方がある。既に定まっている(かた)をひたすらることで初学の域をることができ、その反復を通してはじめて自分に固有の境地へとれることができるというものだ。「守破離」は茶道から生まれ、後に武道や諸芸能に伝播していったことからもわかるように、あくまで身体的な所作、実践にまつわる考え方である。
 それに対して、フランスの初等から高等教育に見られる徹底した構造へのこだわり、そして弁証法の正反合という技法は、文章を読み書きして考えを表すという、理知的な作業を対象としている。武道における(かた)は、教科書を読んで理解するものではなく、師の示す動きを自分の身体でまずもって追跡(トレース)することによって、身体を馴致(じゅんち)させていくものだ。一方、正反合を学ぶ際にフランスの教師が教えるのは、あらゆる設題に対して論を構築できる方法論であって、既に定まっている内容ではない。
 考えてみれば、守破離と正反合は真逆のベクトルを向いている認識論のように思える。武道における型とは、具象化された意味内容であり、自らの身体に宿し、あくまでも主観的に経験されるものである。正反合という型は抽象化された構造であり、それはあらゆる具象化された事物に適用できる共通言語(プロトコル)である。守破離は俯瞰的な世界認識から始まることを忌避して、代々受け継がれる型の反復から新たな型があたかも自然発生することを期待する。正反合は逆に事象の固有性を普遍的な視座の上に並べて、理知的にその次の展開へ導こうとする。
 こうしてみると、ヨーロッパ的弁証法と日本的武道の世界認識法はそれぞれ、かなり異質な環世界を生成することがよくわかる。これはそれぞれの文化の形成過程で使用されてきた文字の違いからも考えることができるかもしれない。表音文字であるアルファベットには、それ自体において意味が立ち現れない。そのような無意味なブロックをいくつも積み上げて、ようやく一つの分節化された意味をもった単語が現れる。そのように文章を組み立てる際には、単語の連なりをつなげる論理というが必要不可欠であり、その粘着度が決定的に重要となる。
 アルファベットを用いる言語において、一つの文字は不完全で無内容な断片に過ぎない。意味をその形態に表す表意文字でもある漢字においては、一字を記した瞬間、そこに意味が発生する。書道のように、一字を大書すれば、そこに多様なイメージを重層的に見立てられる空間が出現する。
 言うことの聞かない身体性を持て余し、思念の領域から切り離したがっていた10代のわたしには、あまりにも身体的でリアルタイムな応答が求められる漢字の世界よりも、アルファベットでひとつひとつ組み立てていける世界のほうが表現のツールとしてフィットしていたのだ。

6回目につづく